私はパンティをかぶるのが好きな変態 / カイア・ブラマニス(訳:済藤鉄腸)

 Pantydeal Estoniaで買ったパンティが、カロリの元に再び送られてくる。彼女が袋を慎重に開けていくと、そこには可愛らしいキツネの顔がプリントされたパンティが現れる。カロリはパンティをそっと取る。そして匂いを嗅ぐ。かなりキツい匂いだった。鼻の粘膜を焼きつくすような刺激臭。今まで嗅いだ中でも、刺激のレベルで言えばかなりの上位に入る。カロリはその匂いを存分に味わいながら、パンティをかぶる。そしてゆっくりと椅子にもたれかかってから、オナニーをする。そして絶頂に達した後、罪悪感に打ちひしがれながら思うのだ。私はパンティを頭にかぶるのが好きな変態、と。
 翌日、会社のトイレでもオナニーをした。だがこれは性欲発散のためではなく、純粋に怒りを発散するためだった。木材ブローカーという仕事を勤勉にこなすカロリは、この日シンガポールの巨大企業との会議に望んだ。しかし先方は明らかに女性であるカロリをなめていた。そういった態度は雰囲気だけで分かる。値切り交渉なども明らかに、こちらを軽蔑しているからこそ出せる条件を堂々と明示してくる。だからカロリはオナニーをした。社内オナニーは簡潔に済ませなければならない。ゆえにカロリは秒速オナニーを会得していた。足をうまい具合に伸ばして、股間に力を入れれば二、三分で事は済むのだ。
 数日が経って、Pantydealで買ったパンティが送られてきた。今度はベーシックな水色のパンティだが、前の部分に茶色い物体が付着していた。乾いたウンコだった。ウンコつきという理由で、いつも買うパンティより割高だった。カロリは、まず匂いを嗅いでみる。意外と匂いはキツくない。ウンコはもう乾いているからだろうか。そしてパンティをかぶって、オナニーをする。最後にはいつも通り、私はパンティを頭にかぶるのが好きな変態と自分をなじる。
 パンティを買い、それをかぶってオナニーする。これが孤独なカロリの唯一と言っていい趣味だった。四十一年間恋人はいたことがなく、セックスもしたことがない。人生でそう性癖がねじ曲げられるような経験はないはずだったが、オナニーのやりかたは確実に歪んでいた。いつこれを始めたかは、もはや彼女自身覚えていない。しかしPantydealというパンティを売買する専門のサイトを見つけてしまったその時から、カロリはパンティ沼から抜け出せなくなり、一週間に一枚はパンティを買って、それをかぶりオナニーする生活を送るようになった。
 ある日、いつものようにカロリの元へPantydealからパンティが送られてくる。大きくて真っ白なパンティだった。まるで介護用のオムツのようなパンティ。しかし色味はとても綺麗で、太陽の光を浴びたような爽やかさを感じた。匂いは、肉の噎せ返るような匂いとヤグルマギクの甘い匂いとが混ざりあったような独特のものだった。カロリはそれをかぶり、オナニーする。いつもとは違う安らかな心地を味わう。この日はベッドに寝転がってオナニーしていたので、そのまま眠りそうになった。カロリは眠気を振り払いながらオナニーをつづけるが、股間に沸きあがる快感が彼女をまどろませ、そしてとうとう夢の世界へと彼女を連れ去った。
 カロリはとある家にいた。自分の故郷にあるごくごく庶民的な建物。カロリはテーブルを囲む男女を見る。男の方はぼやけていてよく見えないが、女の方はよく見える。目も眩むような美しい赤毛、それとは裏腹な暗い表情。昔話に出てくる、魔女に虐げられる哀れなお姫様のような風体だ。と、唐突に男がテーブルを強く叩き、その勢いで女の頬をも殴る。机に突っ伏す女へ、男は近づく。そして彼女の服を乱暴に剥ぎ取る。全てを剥ぎ取ろうとする。その時、カロリはあの大きくて真っ白なパンティを見た。それは本当に真っ白で、カロリは驚いた。しかしそれも剥ぎ取られた後、女は男にレイプされる。
 カロリは目覚めると真っ先にクローゼットへ走り、木製の野球バットを取り出した。野球が好きだった妹モーニカの形見で、不安になった時はいつもこれを掴むのだった。しかし今回は違った。バットを掴んだのは、あの男をブチのめさなきゃという思いからだった。しかし夢だと気づいて、掴む手が緩む。それでもこの夢はいつもと全く違っていたとカロリは思う。実在感が違う。あの大きな真っ白いパンティ。
 彼女を助けなくては。
 カロリはそんな思いに駆られる。馬鹿げてるとも感じたが、心が叫んでいた。しかし助けようにも、彼女がいる場所が分からない。そんな悩みがよぎった瞬間、自分が頭にあの大きな真っ白いパンティをまだかぶっていたのに気づいた。鼻が自然とヒクヒク動いた。肉々しくも甘い香り。そこでカロリはこの匂いを辿っていけば、自然と彼女の元へ辿りつくと確信した。それは理論や現実といったものを越えた、天啓というべきものだった。このパンティの匂いを辿って、彼女を助けろ。

 カロリは会社に休むと連絡した後、大きな真っ白いパンティと木製バットを持って、車に乗りこむ。彼女の匂いを逃さないために、窓は全て全開だ。そして今一度大きな真っ白いパンティの匂いを全身に染み渡らせるように嗅ぎ取った後、車を発進させる。
 瀟洒な街並みを駆け抜け、都市の風景をあっという間に捨て去りながら、カロリは疾走していく。そして早くも緑深い森の道へと差しかかった頃、彼女は道端に不思議な人影を見つける。まず背筋をピンと伸ばして立っているのは、エナメルのボンテージ服を着た仮面の女性だ。そして彼女のヒールが踏みしだいているのは、巨大な肉の塊のような男だった。カロリは無視しようと思った。しかし男はこちらに気づくと、死ぬ気で這いずって路上にまで出てくる。止まらざるをえなかった。
「いやあ、助かりましたよ」
 半ば強引に乗り込んだ後、ヤークという名の男はそう言った。
「いやね、このケルステイ様が“次のモーテルまで私を乗せていけ。お前は馬だ”と言ってきまして。何とか途中までは行けたものの、恥ずかしながら運動不足でへばってしまい」
 そう言うヤークの膝は無惨なまでに血まみれだった。そして彼は聞かれてもいないのに自分たちの境遇について饒舌に喋り始める。奴隷役のヤークは貿易会社の重役であり、女王様役のケルステイはその会社で経理を担当している社員で、ヤークはTinderで女王様役になってくれる女性を探していた所、偶然彼女を見つけたそうで云々。カロリはそんなことに興味はなかった。早く赤毛の彼女を助けたかった。
「何それ」
 今まで無言だったケルステイが、口を開いた。彼女が指差す先はカロリの服のポケットだった。そこからはあの真っ白い大きなパンティが顔を出していた。
「何でもないです」
 動揺しながらそう言った途端、ケルステイが素早くパンティを盗み取る。
「何これ、パンティ?」
 カロリは顔から溶岩が噴出しそうなほど恥ずかしかった。
「アンタ、漏らしたの? 何なの?」
 そう言うと、ケルステイはパンティの匂いを嗅ぎ始めた。思わぬ行動にカロリは動揺し、道の端へ車を停めるとなると、ケルステイの手からパンティを奪おうとする。だが女王様の忠実なる下僕がそれを許さない。カロリは成す術もなく、女王様がパンティの匂いを嗅ぐのを見ているしかできない。だがケルステイの匂いの嗅ぎ方は堂々としていた。自分をなじりながら卑屈に嗅ぎつづけるカロリとは全く違った。そして思う存分、パンティを匂った後、ケルステイは言った。
「いい匂いだね。このパンティはいてるマンコ、ちゃんと手入れされてるよ」
 その戦友を称えるような言い方は、カロリには眩しかった。
「でも、アンタのじゃないよね、このパンティ。だってアンタの体型とこのパンティのデカさ、明らかに合わない」
 カロリはこの先に放たれる言葉を想像してゾッとする。だがその予想は裏切られる。
「何でアンタが他人の履いてたんだろうこのパンティ持ってるかっていうのは、まあ個人的なことだろうし聞かないよ。でも肌身離さず持ってたってことは大事な人のパンティなんでしょ。色々あるだろうけど、後悔しないようにやんなよ」
 そしてケルステイはもう一度パンティの匂いを嗅ぐと、カロリにそれを返した。ヤークが「そのパンティの匂い、私にも嗅がせてください!」と叫んだが、彼女は無視した。

 モーテルでケルステイたちを下ろし、カロリは再び旅を始める。森の緑が更に深みを増していくと同時に、空気の中の彼女の匂いもどんどん濃厚になっていくような気がした。夜が地上に降りてくるまで走り続けた後、彼女は“Un violent desir de bonheur”という名前(フランス語だとは思ったが、意味は分からない)のモーテルに泊まることにする。部屋内は埃臭かったので、部屋にいる間はパンティをかぶったままにしようと決める。
 深夜にふと目覚めたカロリは、気まぐれに外へと出ていく。このモーテルには屋外プールが備えつけてあり、まるでアメリカ映画に迷いこんだような光景が広がっていた。カロリは手すりにもたれかかりながら、その水色の光景を眺める。そんな時、プールサイドにうずくまる人影を彼女は見つける。不思議に思ったカロリは、階段を降りてその人影へと近づいていく。そうして距離が縮まっていくうち、足音に気づいてか人影がこちらを向き、その顔が水色の光に照らされる。中東系の顔立ちをした中年男性で、影が不健康なまで色濃い。
「やあ、姉ちゃん、グミ食べるかい」
 男のそんな第一声に、カロリは少し驚く。
「いえ、結構です」
「おいしいよ、コイツは。でも俺は紫色のだけは食べないから、姉ちゃんにあげたいんだよ。紫色のは食べないからね」
 そう言って、男は小さな袋を差し出してくる。断るのも気が引けたので、カロリは一応受け取ることにする。そして流れで男の隣に座るのだが、しばらくは沈黙が続く。
「おいしいかい、そのグミ」
「ええ、まあ」
 本当は食べていないが、そう嘘をつく。
「俺の名前はヤスミンて言うんだよ、よろしく」
「はあ、よろしくおねがいします。ヤスミンさん」
 何の事もなげにそんな言葉を返すと、ヤスミンは大笑いする。
「姉ちゃんはアラブ文化のこと、何も知らないな。ヤスミンは女の名前で、男の名前じゃねえのさ。ヨーロッパ人は普通に受け入れるけど。俺はビックリしたよ。特に東欧にはヤスミンていう名前の男がわんさかいる。スロヴェニアでは何人あったかな。忘れちまった。でもとにかく、ヤスミンていう名前は女のものさ」
 ヤスミンの顔を近くで見ると、赤らんでいる。おそらく酔っているのだろう。
「じゃあ、本当の名前は何て言うんですか?」
「本当の名前? そんなの言っても面白くねえよ。それよりもヤスミンさ。ヤスミンていうのは俺の妹の名前なんだよ。可愛いんだよ。アレッポ石鹸みたいな緑色の瞳をしてるんだ。彼女はサッカーが好きでさ、昔俺や友達に混じってサッカーやってた。すごかったんだぞ、才能があったんだ、足捌きだとかゴール力とそういうのが抜きん出てた。男に負けなかったよ。今でいうメッシみたいな存在だったよ、俺たちにとってね。でもその一方でかなり荒いプレーも見せた。かなりぶつかっていくんだよ、荒々しくな。それで喧嘩になった時なんか数えきれないよ。こういう所はマンチェスターのマルアン・フェライニみたいだったね。ヤスミン、可愛くて強かったよ。でもボール拾いに行った時、トラックが爆破して、それに巻き込まれて死んじまった。ひでえよ、クソッタレ」
 ヤスミンはそう吐き捨てると、プールに足を伸ばして、そのまま勢いよく叩きつける。水飛沫がポルノに登場する精液のように飛び散って、カロリに当たった。
「俺はさ、忘れないようにしてるんだ。ヤスミンのことを。だからヤスミンって名乗ってる。でもそうしたら皆がオカマ野郎って俺のことを呼んできた。笑い者さ。同性愛者とかはバレたら死刑な世界だからな、そうなるよ。まあ、そいつらも爆破テロだなんだで、死んじまったけどな。俺は生きたかったんだよ、でも。両親もきょうだいも早くに死んじまったし、ヤスミンのことを覚えてるのが俺だけになるのはすぐだったんだ。だから俺が死んだら、ヤスミンのことは永遠に忘れ去られちまう。いやだった。だから生きるためにここにやってきたんだ」
 その時初めて、カロリはグミを食べた。まろやかな甘味がなかなか良かった。
「どうしてエストニアに来たんですか?」
 カロリはそう尋ねる。
「そうさな。昔な、ソ連を旅したって男が俺たちの所にやってきて旅の話をたくさんしてくれたんだ。その中でも男が特にエストニアで見たオーロラが一番美しかったって話してたんだ。他でもオーロラは見れたけども、そこのオーロラが一番色鮮やかで、一番禍々しくて、世界の終焉に立ち会うようなそんな気分になったって言ってた。俺はそれをヤスミンと一緒に聞いたよ。彼女も多分その話を覚えてるから、俺が実際に見に行って、その時が来たらオーロラについて話してやろうと思ってさ、エストニアに来たんだよ」
 ヤスミンは遠くを眺めながら、少しだけ咳きこむ。
「それで、オーロラは見られたんですか?」
 カロリはそう尋ねる。
「いや。俺はオーロラにつくづく縁がないらしい」

 カロリは車で走り続けた。疲れたら休み、そして走る。パンティの匂いは確かに濃くなってきている気がするが、それも距離に比すると微々たるものだった。それでも疾走すると吹き込んでくる荒々しい風の中に、肉々しく甘い香りを嗅ぎ取ったその時、自分が故郷の近くに来ていることに気づいた。あまり寄りつく気のしなかったこの場所に、神の意思か何かで近づいてきていることが皮肉のように思える。ゆえに彼女は敢えて自分から思い出へ近づいていくことにした。
 夕方、Razzledazzleというダイナーに到着する。ここの店長は知人の一人であるヴェイコであるのを、カロリは知っていた。そしてダイナーに入った瞬間、昔の面影が残る中年のヴェイコと目があう。最初、彼はどうでもいいという風に視線を外す。しかし彼女が誰か察したのか、視線を元に戻す。
「カロリ?」
 驚きに満ちた声。当然だった。前に会ったのが何年前なのかカロリ自身思い出せない。
「こんにちは、ヴェイコ」
 カロリが近づくと、ヴェイコはカウンターから身を乗り出してハグしてくる。その時、端に置いてあったケチャップのビンが倒れた。そこには塩とマスタード、種類がよく分からないソースが置いてあった。タリンのファストフード店より調味料の量は多かった。
「久しぶりだな。いつ以来だ」
「私もそれを考えていたところ」
 二人は再会を喜びながら、しばらく話をする。
「ユハンは大工やってたけど事故って足の指を切断した。可哀想なやつだよ。ミルテルはもう三人も子供がいるよ、びっくりだ。リーナは旦那と一緒に小さな本屋を経営してる。そして俺は、まあこのダイナーで燻ってる感じだ」
 ヴェイコは自虐的な笑みを見せる。
 話が盛り上がる頃、カロリは一旦車に戻り、木製バットを持ってくる。それを目の当たりにした途端、ヴェイコの顔が優しさに緩む。
「ああ、まだ持ってたのか。モーニカのバット。というか、持ってきたのかよ」
 ヴェイコはカウンターから出てくると、カロリからバットを受け取る。そしていとおしげに頬ずりをする。
「ちょっと振ってみてもいいかな?」
「もちろん」
 ヴェイコは客の全くいないダイナーで素振りを始める。風を切る音はカロリの耳にも心地よかった。彼女は子供の頃、フィンランドからのテレビ電波を傍受して、アメリカの大リーグを家族みんなで観戦していたのを思い出した。選手がホームランを打った時の清々しい音の響き。モーニカはそれに人一倍興奮していた。
「俺はさ、モーニカのこと愛してたよ」
 ヴェイコは素振りを続けながら、そう言う。
「本当に小さかったよ、俺たち。恋人って言っていいのかな、そんな関係だったのは何年くらいだったろう。あれを愛と言っていいのかも分からないよ。でもそれでも、俺はモーニカのこと愛してたよ。他の誰にもそんな思いを抱いたことはない」
 感極まったのか、ヴェイコは素振りを止めてすぐ涙を流し始めた。カロリはそんなヴェイコを優しく抱きしめる。
 ヴェイコは店長特権で仕事を全て放棄した後、酒を酌み交わしながらカロリと様々なことについて喋り始める。その中で時間は見る間に過ぎ去っていき、夜がやってくる。ダイナーはうらぶれた雰囲気を湛えた客たちで溢れだす。そんな中、騒ぎが起き始める。一人の卑しげな男性が、女性に対してちょっかいをかけ始めたのだ。周囲の人々はしつこく付きまとう男を誰も止めようとはしないし、助けを求める女性に誰も応えない。
 酔った勢いで意を決し、カロリは木製バットを手に取って立ち上がる。彼に近づくにつれ、臆病な心が顔を出し始めながら、男の元まで歩いていくと、バットを掲げて全力で叫ぶ。
「こ、このクソまみれのポコッ、ポコチン野郎、彼女から手を離しやがれ! やがれ!」
 男はその決まらない罵声に対して振り返るが、顔にはイラつきを通り越して当惑の表情が浮かんでいる。カロリはこれでも駄目ならと、バットを掲げたまま、やたらめったらに犬の鳴き真似をして男の周りをヒュンヒュンと動き回る。そのウンコにたかるハエのような動きに半ば飽きれ果てたか、カロリを頭のおかしい狂人と思ったか、男は捨て台詞を吐いてその場を去る。
「ありがとうございます」
 女性は訛りの濃厚なエストニア語で礼を言う。東欧からの移民だとカロリは思う。スラブのエキゾチックな顔立ちはカロリの鼓動を早めていく。カロリはヴェイコを放っておいて、その女性と話し始める。名前はボグダナ、ルーマニアからやってきた移民らしい。何故この国に来たのかは教えてくれなかったが、訛りのキツさに反してエストニア語の文法はキチンとしているので住んで長いのだろう。それでいて彼女はひどく若く見えた。自分と十歳以上は離れているだろうとカロリは思う。
 しかし突然、ふとももを艶かしく触られた時にはカロリも驚いた。
「あなた、女だけど、客たちと同じ目でアタシのこと見てる」
 そう言われて驚きと同時に罪悪感も沸きあがりながら、それを見計らったかのように左手の甲を優しく撫でられる。
「別に変に思わないで大丈夫よ。そういう人だっているから」
 ボグダナは緩んだ笑顔を浮かべる。豆腐みたいな笑顔だった。
「あなたは優しいから、ねえ、何もなしでいいよ。あなたの車の所まで連れてって」
 カロリは気圧されながらも、全身に沸き上がる欲望を抑えきれずにいた。そしてじっと観察していたヴェイコの目も気にせず、ボグダナの手を引いて車へと躊躇いがちに向かう。しかし車に入った途端、ボグダナは猛烈な速度でカロリをキスする。獲物を狙う狼のような口づけに呑み込まれるままになりながら、初めて感じる快楽に身をグルングルンと悶えさせていた。
「あなたのしたいことは何、アタシに教えて」
 首筋をキスされながら、カロリは尋ねられる。溶けていく意識の中でも、しかし欲望は既に定まっていた。
「あなたのパンティの匂いを嗅ぎたい……」
 そう言った瞬間、カロリは自分の言ったことの突飛さに驚き呆れ、深い羞恥心の中で真顔に戻る。それでもボグダナは嘲笑わなかった。口許に仏陀のような薄い笑みを浮かべて、人差し指でカロリの唇を撫でる。
「いいよ」
 ボグダナはストリッパーのようなプロ意識で、緩急自在に服を脱いでいく。カロリの欲望を羽根で撫でるように、軽やかに鮮やかに、焦らしては満たし焦らしては満たし、全身の服を脱いでいき、小振りな乳房まで露にした後、やっとのことでパンティ一枚になる。刺繍が精緻に綴られた紫色のパンティだけ。そこからは一気呵成に、ボグダナはパンティを脱ぎさってしまう。そしてそれをカロリの顔へ投げつける。パンティはヒラヒラと舞いながら、最後にはカロリの鼻の上に落ちる。果てしなく甘ったるい、直情的なまでに甘美な匂い。カロリの性欲は今までにないほど荒ぶった。発情期の獣さながらパンティにかぶりついて、すぐさま頭にかぶり、匂いを嗅いだ。いてもたってもいられず、ズボンを半分脱いで、自身のパンティに手を忍びこませてオナニーを始める。その甘美さに腕の動きは最初からフルスロットルだった。しかしボグダナにその手を優しく止められる。
「そんなことする必要ないよ」
 その言葉を聞いてすぐ、パンティを脱がされたかと思うと、ボグダナはカロリの股間に顔を埋める。電撃が走ったのだった。今まで四十年、自身の股間を侵犯したのは自身の両手だけだった。それが破られた瞬間の感覚は、正に電撃としか言いようがなかった。しかしそれは序の口だった。しばらく電撃を股間に喰らわされているうち、それを数段越える電撃が股間を走ったのだ。皮を剥かれ、クリトリス本体を舐められたのだ。舌の妙技で快感に慣らされた後に、更なる快感を与えられる衝撃は半端ではなかった。感覚は鋭敏になり、ボグダナの舌の表面のザラつきまで感じることができる。もうどうしようもなかった。全てが溶けていき、白に帰っていく。そして視界の全てが白に染まった後、彼女は今までにない密度の絶頂に至った。そして薄れゆく意識の中、喜びに包まれながら、カロリは確信する。自分はレズビアンだと。

 夜中、後部座席でいちゃつきながら、カロリはボグダナの故郷の言葉を教えてもらう。
 c?c?cios クソッタレな
 rahat ウンコ
 derbedeu 無頼漢
 tarf? ビッチ
 fute-?i ファック・ユー
 そして朝になる頃、カロリとボグダナはRazzledazzleへ朝ごはんを食べにいく。ヴェイコはやれやれといった風に笑うと、何も言わずに二人にアメリカ風の朝食をご馳走する。幸せな時間だった。自分が何者かを知ってから初めての朝食は美味しいという概念を軽く飛び越えていた。
「カロリ、親御さんの所へは行くのか?」
 しかしそんな問いを受けた時、彼女は少し現実に引き戻されたような気がした。
「それは……分からない」
「戻らないのか? 二人ともかなり心配してるぞ。連絡すらしてないのか?」
「そう、してない」
「何かあったの?」
 ボグダナがそう話しかけてくるが、カロリは答えない。
 朝食を食べ終わり、カロリは先へと向かおうとする。ボグダナからはFacebookのアカウントを聞いた。今後また会うかは分からなかったが、少なくともいい友人関係にはなれる気がした。
「これ、忘れるなよ」
 ヴェイコからはモーニカの木製バットを渡された。もちろん忘れる訳にはいかなかった。名残を惜しみながらも、車に乗って彼らの死角に入ったのを見計らい、真っ白い大きなパンティの匂いを嗅いで自分の本分を思い出す。そして車は出発する。
 カロリはしばらく走った後、道の真ん中で車を停めた。この先の、自分の故郷へと至る道を行くか迷っていたのだ。彼女自身、モーニカの死から両親との関係性は終わったと思っていた。一緒に住んでいる間は同じ悲しみを共有する戦友として共に生きながら、カロリがタリン大学に通うため故郷を出た時からはほぼ没交渉だった。ヴェイコは「二人ともかなり心配しているぞ」と言っていたが、そんな関係ゆえに彼の言葉は怪しく思えた。
 熟考の後、彼女は故郷への道を逸れた。しかしそのまま走るうち、パンティの香りが薄れていくような感じがした。
 そして道を走るうち、そんな両親だとかパンティに対する懊悩とは全く関係ない思いがカロリの心に思い浮かぶ。彼女は昔、セックスを一番したくなる時はセックスをした直後だという言葉を聞いたことがあった。まさか自分の身体を以てそれを体験するとは夢にも思わなかった。しかし相手はいなかった。それでも尿意のように我慢できない所まで来てしまった。カロリは道端に車を停めて、後部座席に移動すると、頭に大きな真っ白いパンティをかぶり、オナニーを始めた。ここでは会社のトイレでの秒速オナニーが役立ち、数分で終わった。しかし性欲とは厄介なもので、まだムラムラを抑えられない自分に彼女は気づく。仕方がないのでもう一度オナニーする。そしてもう一度エクスタシーに達する頃、何の前触れもなく窓をノックされた。驚きすぎたカロリは勢いよく起き上がりすぎて、車の天井に頭をぶつけた。外には具合の悪そうな表情の、警官の格好をした老人が立っていた。窓を開けると「アンタ、大丈夫かい?」と尋ねてくる。その台詞そのまま返しますよ、そんな言葉は呑みこむが、その瞬間に自分がパンティをまだかぶったままだというのに気づく。ひどく焦りながら、しかし老人は気づいていないようだった。カロリは何食わぬ風にパンティを脱いだ後も、何も反応はなかった。
「なあ、アンタ大丈夫かい。苦しんでるように見えたが」
「いや、大丈夫です。少し気分が悪かっただけで」
「ならいいんだが。にしても、こんな所に女性一人なんて、いくら車に乗っていても危ないぞ。ここらへんはウンコたれ野郎どもが多いからな」
「はあ、気をつけます」
 と、老人はいきなりバランスを崩し、頭を車のドアに打ちつけてしまう。驚いたカロリは外に出て老人を助ける。そして車内に担ぎ込む。
「大丈夫ですか?」
「ああ、恥ずかしいとこを見せたなあ。大丈夫なんだが、最近色々あって疲れてるんだよ」
「お身体かどこかが悪いんですか」
「いや、身体じゃない、心の問題なんだよ」
 すると自己紹介をした後、アンドルスという名の男は老人に典型的な図々しさで話を始める。
「私にはカスパルという息子がいるんだ。今は四十才で消防団員として働く、私の立派な息子だった。だったんだよ。だがカスパルは結婚しようとしなかった。恋人すらもいた気配がない。私にはそれが謎で何度も問いただしてきたが、要領を得ない答えばかりが帰ってきた。だが、この前、カスパルは言ってきたんだーー自分は同性愛者だと! 私は何も言えなかった。ゲイなんて映画の中の存在としか思ってなかった。そんな同性愛者が私の隣で呼吸をし、食事をし、顔を洗い、眠っていたなんて! そして……私がカスパルが告白してくれた後、怒りのままにホモと罵って家から追い出したんだ。とんでもないことをやったと思った後にはもう遅かった。カスパルは私の前から消えた。住んでいるところは知っているが、近づけやしないよ。私は悪かったと思いながら、だが……」
 彼はそこで言い淀む。先が続かなかった。
「そうですか」
 カロリはそう言うとしばし考え込む。それから彼に尋ねた。
「いきなりですけど、ついてきて欲しいところがあるんですが」
 アンドルスはしばらく考えてから、ゆっくりと頷いた。カロリは運転席に戻ると車を発車させるのだが、逆走を始めた。森を抜けて、街並みを抜けて、閑散とした住宅地へと入っていく。そして彼女はある家の前で車を停めた。窓から舞い込んでくる風は勢いを緩めたかわりに、冷たさを増したような気がする。
「どうしたんだい」
 アンドルスはそう尋ねる。カロリはただ視線だけで大丈夫だと伝えると、車を降りる。ついで降車するアンドルスに先立って、目前の家へと歩いていく。ドアの前で彼女は俊巡するように佇む。風の音が聞こえる。鼓膜を冷たくも優しく撫でていく。
 カロリは玄関ベルを鳴らした。しばらく待つと服をふっくらと着込んだ老女が現れる。最初は怪訝そうな顔で、しかしカロリに気がつくとそこにまず驚愕を浮かびながらも、最後には頬が緩んだ笑顔を見せる。
「カロリ」
「母さん」
 カロリの母マレットはカロリを愛しげに眺めた後、何十年分の愛情を以て彼女を抱きしめる。
「帰ってきてくれて、嬉しい。でもどうして?」
「仕事の関係で近くに寄ったから。久しぶりに母さんたちの顔が見たくて」
 マレットの抱擁はさらに強くなる。
「嬉しいわ、本当に嬉しい。お父さんも今家にいるから。早く中に入りましょう」
 そう言ってから、マレットは初めてアンドルスの存在に気づく。
「この方はどなた?」
「アンドルスよ。色々と理由があって一緒に来てもらったの。そういうのは後で説明するから入ろう」
 家は健やかな木々の匂いで満ちていて、とても心地よかった。リビングには新聞を読んでいる父カリヨがいて、カロリの姿を認めるとマレットと同じように表情を移り変えた後、やはり緩んだ笑顔で以て彼女を抱きしめる。そして子供の頃にやっていたのと同じように、カロリの太い眉毛にキスの嵐を浴びせかけてから、その温もりを刻みこむように親指でグリグリと眉毛を押す。
 再会を喜びながら、カロリと両親は他愛のない、しかし愛おしい会話に華を咲かせた。部外者であるアンドルスがいても、些かの遜色もなかった。それでもカロリがここに来た真意を少しも反映してはいなかった。会話が進むうち、その真意を言おうとしながら躊躇う心がカロリの口を重くしていく。
「どうしたの?」
 カロリの様子に気づいたマレットを彼女の表情を伺いながら、そう尋ねる。カロリは右の人差し指で机を少し掻く。
「私、言わなくちゃいけないことがある」
 口の中がひどく乾いた。沈黙がリビングに影を投げかける。無言のままに時間は過ぎる。だが決意を握りしめたその時、カロリはその言葉を吐き出した。
「私、レズビアンなんだ」
 先とは違う種類の沈黙が、家族を包みこんだ。マレットとカリヨは容易には感情を読み取れない複雑な表情を浮かべていた。
「私、女性が好きなの。ずっと言えなかったことだけれど、つまりは同性愛者なの。自分でもそうだと確信したのは本当に、本当に最近のことで、だから今の今までふたりに言うことができなかった。でももう卑屈になっちゃいけないし、隠す必要もないと思ったから、カミングアウトしようと思った」
 そこまで言うと、深く息を吐きながらイスに沈みこむ。しかし言うべきことはまだ終わっていなかった。
「あとひとつ言わなくちゃいけないことがある。モーニカのこと。彼女は交通事故で死んだ。でも、それは……私のせい。私はあの時母さんから言われてたのに、モーニカから目を離して、実は一緒に遊んでたリーナと森の影に隠れて、キスしてた。たぶん私の初恋は彼女にだったんだと思う。最近まで分からなかったけれど。それでその後に、モーニカが……モーニカが事故に遭ったって知って……たぶん私が自分をレズビアンだと認められなかった理由はこの記憶にあると思う。妹を殺した罪悪感とレズビアンであることの後ろめたさがごちゃまぜになって、今の今までこんな……でも、分かった。もう分かった。全てを受け入れるには時間がかかるだろうけど、でも分かった。良かったと思う。ごめん、いきなりこんなこと告白して。重すぎるよね」
 三度目の沈黙が流れる。長い沈黙だった。
 と、突然カリヨが立ち上がった。そしてカロリの前で腕を大きく広げた。
「おいで」
 カロリは躊躇いながらも、しかし最後には立ち上がってカリヨの腕に身を委ねた。暖かく大きな身体がカロリを優しく包みこむ。
「ありがとう。私たちに告白してくれて。苦しかったろう、悲しかったろう。でも大丈夫だ。お前には私たちがついてる。大丈夫だよ、もう大丈夫だ」
 そんな言葉に、カロリの瞳からは自然と涙がこぼれて止まらなくなった。そして後ろからも抱きつかれる。マレットだった。温もりと優しさに包まれながら、カロリは人生で初めてあんなにも大きな声で泣いた。鼻水が洪水のように溢れでるくらいに大きな声で。
 そして全てが一段落した時には、今度はみなでダイナマイトの爆発音さながらの笑い声をあげた。素晴らしい気分だった。そんな中でひときわ大きく笑うカリヨが、未だに号泣するアンドルスを指差して言った。
「なあ、いいかげん教えてくれ。結局、あの男はいったい誰なんだ?」
 
 仕事があるので一旦戻るが必ず帰ってくると約束し、カロリは家を出ていく。車に乗ろうとした時、ついてきたアンドルスは言う。
「あの素晴らしい風景を見せるために、私を連れてきてくれたんだね」
 カロリは静かに頷く。
「ありがとう。君のおかげで目が覚めたよ。親が子供を愛してあげなくて誰が愛するというんだろう。息子に早く謝らなくちゃならないよ。今すぐにね。偶然なんだが、息子の家が近くにあるんだよ。これも神の思し召しかな。彼に謝罪しようと思う。どんな結果になっても構わないよ。いい結果になると有り難いんだがね」
 そしてアンドルスは右手を差し出す。
「本当にありがとう」
 強く握手を交わした後、晴れ晴れとした表情のアンドルスはカロリの元から去っていった。
 彼の背中が見えなくなった頃、雷撃のようにカロリの鼻に届く匂いがあった。肉々しくも甘やかな香り、確かにあの香りだった。彼女は車から急いで大きな真っ白いパンティを取り出して匂いを嗅ぎ、空気の匂いと比べてみる。確信は深まった。近くに彼女がいる。そして鼻をヒクヒク動かしながら匂いの元を辿ると、赤い屋根の邸宅が視界に入った。カロリはパンティを片手にその家へと近づいていく。匂いは加速度的に強まって、玄関の前に立つ時には噎せ返るようなレベルにまで匂いが濃くなっていた。恐る恐る玄関ドアに顔を近づける。すると匂いと同時に、不穏な物音が聞こえた。物が床に落ちるような音が微かにだが耳に届くのだ。
 カロリは決心を固める。車に戻って、モーニカの木製バットを取り、そして再び玄関前に戻る。両親にカミングアウトするのと同じくらい心臓の鼓動が早まる。しかしその動揺をパンティの匂いで落ち着ける。パンティは本当にいい匂いで、心が幸せで満たされていった。そんな時、パンティから声が聞こえた気がしたーーわたしをかぶって!
 そんな閃きのような言葉に狼狽えながら、それでもカロリは頭にパンティをかぶってしまう。いい匂いが顔中に充満する感覚があった。自分はもう無敵なのかもしれないとすら感じた。
 ドアノブをバットで叩き壊そうとして、鍵が開いていることに気づく。それを知った時、カロリは鼻で大きく息を吸ってから、匂いの勢いのままにドアを開いて部屋内に突っ込んでいった。がむしゃらにリビングまで突進すると、そこには男女がいた。男は女をテーブルに組み伏せて、ひどく乱暴にぺニスを挿入しながら、彼女の身体を平手打ちにしていた。一瞬その悍ましさに吐き気を催しながら、カロリは男の方へ突進し、そのままの勢いで、耳をつんざくような叫びと共に、彼の後頭部をバットでブン殴った。間抜けな悲鳴をあげながら、男は出来事を全く理解できないとでもいう風な惚けた表情を浮かべる。そしてびっくりするほどあっけなく床へと倒れこんだ。哀れな姿だった。
 その時初めてカロリと女の目があった。彼女は燃えるような赤毛を持っていた。あの時幻視した人物の姿と全く同じだった。運命に導かれた彼女たちはただただ見つめあった。
 カロリはおもむろに頭にかぶっていたパンティを脱いで、匂いを嗅ぐ。
「あなたを助けにきた」
 そう呟いて、パンティを彼女の方に掲げる。
「あなたを助けられたのはこれのおかげ。もう大丈夫だから」
 そしてカロリは女を抱きしめようとする。だがすさまじい力で拒絶される。
「誰よ、あんた! いったい何なの! 気持ち悪い! 変態! 変態! 変態! 変態!」
 その言葉の全てがカロリの予想とはかけ離れたもので動揺した。彼女は震える右手で彼女の頬に触れようとしながら、女はそれを振り払う。
「変態! 変態! 変態! あたしの前から消えて!」
 カロリは絶望に打ちひしがれた。彼女は敗残兵のように、この家から立ち去るしかなかった。

 呆然自失の状態でカロリは車を運転する。心の中には闇のように真っ黒な絶望しかなかった。さらに運の悪いことに、突然車が動かなくなった。エンストしたらしいが、カロリには治し方も何も分からなかった。車の傍らに立ちながら他の車が通るのを待つ間、カロリは大きくて真っ白なパンティの匂いを嗅いだ。芳醇な匂いは今も変わらずにカロリの心を満たしてくれたが、その意味は決定的に変化してしまっていた。カロリは思わず咽び泣いた。声を抑えようとパンティに唇を押しつけるが、逆効果だった。
 時間を忘れるぐらい泣いた後、彼女の頭上には夕暮れが広がり始める。何とか涙を止めることのできたカロリは、心を落ち着けようと自然の中の静寂に耳を傾ける。しばらくは安らぐような静けさに身を委ねられたが、ある時から妙な声が聞こえてきた。狼の低い唸り声にも聞こえたが、それは次第に苦しげな呻き声に変わっていく。森の奥から聞こえてきた。今森に入るのは危険にも思えながら、その声には放っておけない切実さが宿っていた。誰かを助けることは自分を助けることに繋がるかもしれないと、カロリは意を決して森へと入っていく。枝を掻きわけて、声のする方向へと向かう。ひたすらに森を進んだ後、彼女は何か動く物体を見つけた。動物ではない。人間だった。彼女は目を凝らし、その物体の正体を探る。
 物体が確かな形を成した時、最初に認識したのは雪を思わせる純白に包まれた尻だった。白くてプリプリな男の尻。その尻の下にはしなやかな足が二本伸びている。つまりは下半身丸出しの男性の肉体がそこにはあったのだ。肉体は動いていた。当初はその動きが何を意味しているのか分からなかった。しかししばらく考えるうち分かった。腰を振っていたのだ。男は大地に向かって腰を振りながら、呻き声を挙げていたのだ。
 うおお、うおおおお、うおおおおうおう。
 そしてカロリが心を落ち着けるためパンティを嗅いでいた最中、男はひときわ大きな呻き声を上げたかと思うと動くのを止めた。しばらく大地に横たわった後、彼はおもむろに立ち上がる。ぺニスは未だ固さを保ったまま、夕暮れの空に向かって屹立していた。カロリは全てを悟った。男は大地にぺニスを挿入していたのだ。それはオナニーなのか、セックスなのか彼女には分からなかった。だが思わず前に進んでしまった時、地面の小枝を踏んでしまい、微かな物音が響いた。それを敏感に聞き取り、男がこちらを向いた。髭を豊かに蓄えた山男といった風情で、芸能人で言えばウィル・オーダムに似ていた。
「誰かいるのか?」
 男は焦燥の滲んだ声でそう言い、下半身丸出しのままでカロリの方へと近づいてくる。カロリが後退できないでいると、男はすぐ近くまで来たのだが、おそらくカロリの姿を目視した後に歩くのを止める。
「見たのか?」
 その言葉が意味するものはひとつしかなかった。カロリは嘘をつくのも忍びないと考えて、かすかに頷く。男は何も言わない。しかし突然、その場に崩れおち、項垂れながら、顔を両手で覆った。
「何てこった。クソ。嘘だろ」
 動揺ゆえか、男の呼吸は激しく乱れ、惨めな姿が夕陽の中に浮かび上がっている。そんな中でカロリはその姿に同情を抱いた。変態的なオナニーを両親に見つかった後の思春期の青年のような男の姿が、いたましく思えた。カロリは危険を省みず、彼に歩み寄る。そしてしゃがみこんで、彼に大きくて真っ白なパンティを手渡す。それを見た男は最初狼狽えながらも、パンティを手に取り、顔に浮かんだ汗を拭き始めた。だがしばらくしてその匂いの甘美さに気づいたのか、布に顔を埋めながら深呼吸を始める。カロリはそんな小さくなった男の身体を優しく抱きしめる。男はやはり狼狽える。それでも最後は身を委ねる。そして泣き始めた。
 プリートという名前だという男が泣き終わった後、カロリは彼に付き添って森の中に設営したというテントに赴く。土と精液まみれのぺニスをティッシュで拭き、ズボンを掃いてから、プリートは誰に問われるでもなく自分について語り始める。さっきはカロリの見た通り大地にぺニスを突っ込んでオナニーをしていたこと、自分は大自然の中でオナニーをすることが好きなこと、その性癖は昔森で迷った時に不安を忘れるためしたオナニーが極上のものであったのに起因すること、彼の恋人であるマリアにもそれを告白したことがないこと、時々彼女に山へハイキングに行くと嘘をつきオナニーをしまくっていること……
 それを聞きながら、カロリは自分のオナニーについて自省した。同時に自分と同じく奇妙なオナニーに耽るプリートに共感の念を抱いた。それゆえカロリはパンティオナニーについて、プリートに告白した。驚きながらも、しばらくすると穏やかな笑みを浮かべ何度も頷く。そしてさっき匂いを嗅いだ布が件のオナニーに使っているパンティと知ると、爆笑した。互いに胸襟を開きあい距離を深めたふたりは、プリートの作ったカレーを食べながら夜を過ごした。
「今日は十時くらいからオーロラが見えるかもしれないんだが、カロリも見るかい?」
 プリートはそう尋ね、彼女は同意する。
 他愛ない会話を繰り広げるうち、すぐに十時になる。そしてプリートの言葉通り、オーロラが夜空に浮かび始める。緑と赤の色彩が混じりあうヴェールのような輝き、それが闇に揺らめく様はいつ見ても禍々しく美しいものだった。ふたりはしばしその風景に見入っていた。
「グミ食べます?」
「ああ、食べるよ」
 その後、奇妙な衝動に突き動かされてカロリは服を脱ぎ始める。
「おい、何してるんだ?」
「なに? あなたが言ったんでしょ。大自然の中でするオナニーは気持ちがいいって」
 カロリはあっという間に全裸になると、大きくて真っ白なパンティを頭にかぶってから、地面に大の字になって転がった。そしてプリートの目も気にせずに、クリトリスをいじり始める。確かに大自然と一体化しながらするオナニーは気持ちのいいものだった。顔中に充満する肉々しくも甘美な匂いも、こころなしかいつもより溌剌なものに思われる。
「プリート、あなたもオナニーしないの?」
 しばし沈黙が続きながらも、ガサゴソと音が鳴りだし、音が止んだかと思うとプリートの赤裸々な巨体がカロリの傍らへ勢いよく横たわる。そしてプリートはぺニスをしごくが、それはすぐに夜の闇に向かって屹立を始める。
 オーロラは更に鮮やかさを増し、オナニーをするふたりの肉体を包みこんでいく。その彩り豊かな温もりが皮膚に染みいるうち、カロリの快感も高まっていく。ボグダナに愛撫された時とはまた違う、ひとりで快感に浸る時の愉悦がそこにはあった。身体は痺れて、視界は快楽にぼやけていく。世界は極彩色に染まり始めていた。
 カロリはいともたやすく絶頂に達したんだった。その快感は今まで味わったもののどれとも違う激しさを伴っていた。そしてカロリのヴァギナからは液体が迸った。あまりの快感に潮を吹いたのだった。オーロラ色に染まった潮を見ながら、カロリは爆笑した。横のプリートも間髪いれずに笑い始めた。噴出する潮を彼も目撃していたんだろう。
「何だよ、今のは。あんなの初めて見たぞ」
「私だって初めてよ。自分の汁だけど、何あれ!」
 カロリはヴァギナだけでなく、身体全体をヒクヒクさせながら笑いを止められずにいる。それでも頭からパンティをかぶるのが好きな変態にとって、最高に幸せな時間だった。(終)


バルト三国の中でもエストニアは最もLGBTの権利において進歩していると言われている。事実、他二国にはないパートナーシップ制度が施行されているなどその文言は正しいように思われる。しかし同性婚が認められている訳ではないことに注意しよう(ついでに言えば日本も同じ陥穿に嵌まっていると言えるだろう)。ヨーロッパやラテンアメリカ諸国に比べると、その権利の進展は未だに遅れていると言わざるを得ない。そんな状況において、エストニアにおけるLGBTQをめぐる現在を描き出そうとしている小説家がカイア・ブラマニス(Kaia Bramanis)だ。

ブラマニスは1978年にエストニアのサーレマー島に生まれ、小さな頃から両親より様々な分野の教養を学んでいた。特にエストニアで最も偉大な小説家の一人であるオスカル・ルッツ(Oskar Luts)の研究者だった母アネッテの影響は大きかったという。そのおかげもあり、エストニアを代表する学府であるタルト大学に合格、ここでエストニア・アメリカ文学について学んでいた。

大学時代から創作を始めながらも、ここでは芽が出なかった。それでも彼女はこの時代が最も実りある時代だったとインタビューで語っている。最初二年間はもっぱら遊びに明け暮れ、若さの特権とばかりに男女問わず相当遊んだそうである。この時期に彼女は自身がバイセクシャルであると自覚し、性的少数者の権利改善のための活動を始めた。そして大学三年目で会ったのがコロンビア人留学生のフェリペ・イスラス・ロドリゲス(Felipe Islaz Rodriguez)だった。ロドリゲスに一目惚れしたブラマニスはたちまち恋人関係になり、彼のコロンビア帰国などの紆余曲折を経て結婚し、公私におけるパートナーとして二十年経った今でも仲睦まじい関係を保っている(ちなみにロドリゲスはエストニア語-スペイン語の翻訳家として活躍しており、エネ・ミケルソン(Ene Mihkelson)やカール・リスティキヴィ(Karl Ristikivi)らの作品を翻訳している)

出版社勤務の傍ら、創作を続けていたブラマニスだが、転機は2007年のことだった。執筆した短編『いらなくなった家電』が有名誌Kevadeに掲載され、そこから本格的な執筆活動が始まる。そして2009年に完成させたデビュー長編が『放浪者マリア・ニペルナーディ』だった。今作はエストニアで最も有名な小説の一つである『放浪者トーマス・ニペルナーディ』を元にした、バイセクシャルである奔放な女性が巻き起こす騒動をエピソード形式で描く作品だ。気まぐれで嘘つきなマリアはお世辞にもキレイと言えない男女に近づくと、嘘に嘘を重ねて困らせながら、最後には彼/彼女らは幸せになっていくという筋立てになっている。今作はエストニアの著名な文学賞であるタンムサーレ文学賞の新人賞を獲得、大きな話題となる。

そして2012年には第二長編『短い教訓』を上梓、こちらもやはりバイセクシャル女性が年下である女子大学生、そしてアフガニスタン移民である年上の男性との三角関係に悩む姿を、往年のハリウッド的であるスラップスティックな筆致で以て描き出した作品だった。なお今作は2013年にエストニア系アメリカ人の映画作家ケイト・パルノヤ(Kate Parnoja)の手によって映画化されたが、その際にブラマニスは脚本を執筆している。

今作『私はパンティを頭にかぶるのが好きな変態』は2015年出版の短編集『ルンドグレーンの波』に所収の一作である。この作品集に収められた短編はどれもブラマニスの奔放な想像力が魅力的に炸裂した作品と言え、女性たちの性的な冒険模様が描かれている。各話は緩やかに繋がっており、今作に出てきた“大自然でオナニーする男”の恋人が主人公となっている作品もあり(『教科書に書かれた文章よりも』)、大自然オナニーを告白された後に自身も大自然の中での性行為に目覚める様を描いている。ブラマニスは今作で2016年度のバルト三国連合文学賞を受賞。審査員長であったラトビア人作家マーラ・ザーリーテ(Mara Zalite)より“彼女の創造的な作品の数々は読者の世界を乱暴なまでに滑稽に、しかしながら力強く広げてくれる”という評を送られている。

ブラマニスの作品はどれも性的に抑圧的な立場にある女性たち(それはストレート・レズビアン・バイセクシャル・トランスジェンダーなど一つには留まらない)が、荒唐無稽な出来事を通じて解放の時を迎えるというものになっている。それは『私はパンティを頭にかぶるのが好きな変態』のようにかなり過激で滑稽なものから、逆に例えば彼女が敬愛する作家と名を上げる『オリーヴ・キタリッジの生活』エリザベス・ストラウト(Elizabeth Strout)のような滋味深い作品など多岐に渡る。彼女の作品はきっと日本でも熱狂的に受け入れられるだろう。早急に翻訳が待たれる作家の一人だ。





はい、最後まで読んでくれた読者の方ありがとうございました。私は1つ嘘をつきました。実はカイア・ブラスマニは存在しません。全て私の創作です。試しにKaia Bramanisでググってもらえば分かりますけど、小説家は一切出てきません。なぜこんな面倒くさいことをしたかといえば、自分は新潮クレストブックス&白水社エクスリブリスで育った外国文学好きであり、いつかは自分で日本語で“翻訳小説”というやつを創作したいと思っていました。そんな訳で、自分が訳したという体でエストニア文学を日本語で書いてそれを読んでもらったわけです。もしこれを読んだあなたが、今作を本当の翻訳小説と思ってくれたなら嬉しいです。面白かったら感想をください。Twitterとかで広めてくれたら嬉しいです。じゃあね!

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