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「クソ喰らえ、クローン病!」第1話~キクラゲが食べたい

 俺が世界で1番ダサいと思っている映画批評家のTwitterページを眺めていると、そいつが豚骨ラーメンの写真をアップしていた。実に旨そうだった、死ぬほど食べたい。だがその時、俺の瞳に映っていたのは艶やかに煌めく麺でも、意地の悪いまでに大量の脂が浮かんだスープでも、歯に切り裂かれるのを待つ極太のチャーシューでもなく、その脇にひっそりと置かれ、黒衣の貴人さながらの佇まいをするキクラゲだった。美しいキクラゲ、歯応えが抜群で魅惑的なキクラゲ。これを書いている今も、キクラゲを噛んだ時に口腔に響き渡るだろう小気味よい音が、俺の脳髄で炸裂している。だが食べられなかった。キクラゲ、その内部に詰まった不溶性食物繊維が炎症でボロボロになった俺の腸にどれだけ甚大な影響を与えるか予想できないからだ。キクラゲは今の俺に地獄の苦しみを味わわせる、そんな悪しき可能性の獣だった。

 先日、俺はクローン病と診断されたんだった。
 覚えている限りだと半年ほど前から腹部に異変が起こっていた。コロナ禍で変わってしまった日常のなかで痔瘻が悪化したり、肺が一時的におかしくなったり、腰痛に襲われたりと、俺は自分の肉体が老いていくのを感じていた。そこに腹部の異常が現れた。いつものようにコーラや冷えたお茶を飲むと腹痛に襲われ、ラーメンや肉を食べると下痢になる。最初はすぐに終ると高をくくり放置していたのだが、良くなることはなく、この異変による食欲不振が加速していった。挙句の果てには食事そのものが苦痛になるまでの状況にまで追い込まれる。
 だが頑ななまでに病院には行かなかった。何故か。俺は一応映画批評家と、かつ奇妙なことにルーマニアでだけ認められたルーマニア語の小説家という肩書を持っている。だが実際のところはそれじゃまともに金も稼げない癖に、これまで10年付き合い続けている慢性の鬱病と一生治らない自閉症スペクトラム障害のせいでほぼ労働もできず、実家に引きこもって両親に寄生し続けるだけの穀潰しだった。NetflixやMUBIに払う1000何円だけは確保するも他に金はなし、金を稼ぐ意欲すらもはや失われている。だが金のない状況が続きに続くと何もかもを我慢せざるを得なくなり、自尊心も加速度的に摩耗する。そうして"自分は病院に行く価値がない人間だ"と思い詰める卑屈な存在になる。その末路が俺だ。
 そんな中で母親に「痩せたね」と言われて、自分の肉体が変化し始めていると悟らざるを得なくなる。1度風呂から出た後に、洗面所の鏡で全裸の自分を見ると、肋骨の浮かびあがったゾンビ1歩手前の状態で心底驚いた。俺は80-90kgほどの、贅肉に満ち溢れながら筋肉は一切ない貧弱な俺の肉体を嫌悪していたが、その時の俺は贅肉も筋肉もほぼ存在しない貧弱以下の肉体だった。後で、初めて病院に行った際に久しぶりに体重を測らされたが、俺はいつの間にか50kg後半になっていた。異変から目を背けるうちに俺は20-30kgも痩せていた。そしておそらくだが、今後70kg、ましてや80kgを越えることは一生ない。
 それでも上述の理由から病院には行かなかったが、ある日、もはや習慣のように、紫の瘴気のような倦怠感に苛まれながら夕食を何とか唇に押し入れていた時、本当に、本当に寡黙な父親が「お前、もう病院に行け」と静かに言った。この時、身体が震えるほどの恐怖を感じた。今まで何度も母親からは「健康診断受けろ」だとかそういうことを言われた。だが何と形容すればいいか、彼女との関係性は友人関係に近く、しかもお喋りな気質だったので、彼女がその言葉を何度も何度も繰り返し、その度に曖昧な言葉と薄笑いでスルーするうち、慣れてしまった。簡単に無視するようになってしまった。だが父親は母親とは違い、無口で言葉をほとんど発さない故に、俺にとって圧倒的なまでに理解を越えた存在、無音で聳え立つ権威としてそこに在った。そんな存在にあの言葉を突きつけられ、俺は骨の髄まで恐怖していた。俺は自分の小説を"反社会的"と評されて悪い気分は感じない類の、安全圏から反権威主義者を気取った人間だった。そんな自分のなかに父権への従属心と、その裏側にある母親を含めた女性たちの真摯な言葉や態度への侮りがあると、この時にハッキリと気づかされた。
 そして俺は病院に行った。取り敢えず整腸剤や食欲不振に効く薬をなどをもらい、それらを飲むと状態が改善していくように思われた。だが次に来院した時、血液に明らかな異常があると医師に通達される。赤血球や血小板が異様に多く、かつ炎症や感染症を調べる指標であり、0.3が基準値のCRP値が9をブチ抜いていた。俺の肉体は明らかにヤバい状態にあった。巨大な病院に行って精密検査を受け、そして大腸の内視鏡検査(これは本当に人生で1,2を争う壮絶さだったので後で纏めて書きたい)を経て、クローン病だと診断された。
 患者であって専門家ではないのでクローン病を説明するのは難しい。そこで炎症性腸疾患(IBD)の専門サイトであるIBD-LIFEから一部引用したい。
 
 "クローン病は炎症性腸疾患のひとつで、主に小腸や大腸などの消化管に炎症が起きることによりびらんや潰瘍ができる原因不明の慢性の病気です。主な症状としては、腹痛、下痢、血便、発熱、肛門付近の痛みや腫れ、体重減少などがあります。また、さまざまな合併症が発現することがあります。クローン病は、厚生労働省から難病に指定されていますが、適切な治療をして症状を抑えることができれば、健康な人とほとんど変わらない日常生活を続けることが可能です"

 "おいおい、これはなかなかヤバそうだな"と思った方、実際ヤバい病気だ、これは。常に下痢や腹痛の危機に晒されており、外出する際など近くにトイレがないとかなり致命的だ。ついでに尻は難治性の痔瘻に冒されて、下着にナプキンは必須で座ることにも神経を使う。悪化すると腸が閉じたり、逆に穴が開いたりして激痛や大量出血が起こり、そのまま腸摘出の緊急手術を行う羽目になる時も在り得るという。それでいてこのクローン病が完治することはない、ただ具合が良くなる、つまりは寛解するに留まる。安倍元首相がそうだということで、潰瘍性大腸炎という病名を聞いたことがあるかもしれないが、この2つは同じ炎症性腸疾患にカテゴライズされる難病だ。だが潰瘍性大腸炎が大腸に留まる疾患であるのに対し、こちらは小腸や十二指腸も炎症を起こす可能性があり(実際俺の場合は、十二指腸の炎症が確認されている)且つ前者が寛解時は厳しい食事制限がない一方で、後者は常に厳格な食事制限を強いられる。そしてこれは完治することがない病気ゆえに、この食事制限は一生続く。
 そう、この食事制限という事実と対面させられる度に、顔面に下痢便を塗りたくられるようなクソみたいな気分になる。詳細なことは自身が暗中模索中ゆえに書くことはできないが、余りにも大きすぎる制限は脂質を30gほどに抑えなければならないことだ。簡単に言えば、大部分の肉(馬肉や鶏肉以外)やラーメン、揚げ物、チョコレート、ケーキといったものは、食べられないとは言わないが、もはや食べるべきではない。少なくとも細心の注意を払って、食べた後の影響を念頭に入れながら、ごく少量だけを摂取するという必要がある。今後一生ファストフードは喰らうべきじゃない、食べたら腸が炎症でブッ壊れる恐れがあるというのは、正直マジにショックだ。別にそう頻繁にマックやKFCに行っている訳ではなかったが、それでももう満足に行けないという事実は舌が漠砂さながら乾ききるほど辛い。他にもごぼうやワカメなど不溶性食物繊維が多く含まれている食材や、唐辛子やアルコールなどの刺激物は完全にアウトだ。喰らうと何が起こるか分からない、今の俺には未だ点火はされていない爆薬にすら思える。
 死ぬほど辛いのはもうコカコーラを含めた炭酸飲料が満足に飲めないことだ、いや俺は本当死ぬほどコーラとか飲んでたよ。小説とか書く時には、アメリカの小説家にとってのコカインとかマリファナみたいにコーラを肉体にブチ込んで、それで創作意欲をブーストさせてた。そしてコーラ色の屁をドゥブウドゥブウとブチ撒けてたんだ。映画館に行く時は、まあ映画館側に悪いけども事前にコカコーラの1.5Lボトルを買って、あのフカフカの座席に座りながら、その後に映画館で買ったポップコーンを喰って、それを大量のコーラで流しこんでた。そりゃいつだって最高の経験だった。今度だって「モンスターハンター」とか「ブラックウィドウ」を観る時は、そうやってポップコーンと一緒にコーラを貪るはずだったんだよ。こんな感じだったから勿論トイレには行きまくってた訳だけど、今後は別の意味で、つまりは迫りくる腹痛と下痢の脅威でトイレへ追い立てられることになる、一生だ。泣けるよ、惨めだな、マジで。
 そしてこの難病は海外渡航も頗る困難にする。俺は実は海外になんて1度も行ったことはなかったし、28年生きてきて東京と千葉以外に行ったことは50回を越えないだろう。その癖、映画批評家という職業上、同じ批評家や映画作家らとの繋がりは多くある。オランダ、アゼルバイジャン、タイ、チリ、ミャンマー……自分でも驚くが、友人は世界にいる。自分が東欧映画が好きなのもあり、東欧にはひときわ多く友人と呼べる大切な人々――例え1度も実際に会ったことはないとしてもだ――がいる。彼らとは"コロナ禍が終息したら会おう!"と言葉を交わしてきたが、もう自分から彼らに会いに行けそうにはない。
 そしてルーマニアだ。俺の第2の故郷であるルーマニアに関しては、もう説明するとそれ自体で1冊の本になるので取り敢えずはこのエッセイを読んでほしいが、ここには特に大切な親友が多い。ルーマニア語で小説を書いているのも相まって、将来は移住したいと漠然とした希望があったが、希望は絶たれた。ルーマニアは医療の腐敗がヨーロッパでも悪名高く、クローン病を抱えての移住というのは正直余りにリスクが高すぎる。その現実を考慮すると、シビアな判断をせざるを得ない。

 3月初めに病院へ行き、そこから嵐のように日々が過ぎ去っていった。こうして未だ多くあった可能性の数々が凄まじい勢いで潰されていく様に圧倒された。しばらくはもう灰燼のような有様で、ほとんど何もできないまま、ただただYoutubeのクソゲー実況を眺めるしかできなかった(特に実況者のおにやとからすまの、下らなさに対する話術と慧眼には救われた)だが今少しずつ、本当に少しずつだが現実を受け入れ始め、映画も観られるまでには回復した。クローン病は間違いなく難病であり一生治らない、だが幸運なことに死に直結する病気じゃあない。だから今の俺にやれることをしたい。俺にできることとはただただ書くことだけだ。だから俺はクローン病のことを、俺自身のことを書いていきたい。今はまだ"ありのまま受け入れる"とか"共存する"とかそんなことは言えない。だからせめて中指を突き立て、食べられぬキクラゲに涙を呑み、そしてお前の鼻穴に切っ先をブチこみながら言うのだ。
 クソ喰らえ、クローン病!

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【済藤鉄腸のすぐに使わざるを得ないルーマニア語講座その1】
Futu-ți, Boală Crohn!
フトゥツィ、ボアラ・クローン!

(クソ喰らえ、クローン病!)

☆ワンポイント・アドバイス☆
"Futu-ți"の"ț"は日本語で言うツァ行だよ。"Boală"の中の"ă"という文字の発音は、便宜上"ア"で表現しているけど、実際は英語の"apple"の"a"みたいに"ア"と"エ"の間で曖昧な感じで発音するやつなんだ。君が実際にクローン病と診断されて、その虚無と絶望とやっとのことで対峙し、この難病と闘う準備ができた時、このルーマニア語を叫んでみよう。ちょっとだけ元気が出るよ、例えこけおどしだとしてもね、例えこけおどしだとしても言わなくちゃやってられない時が来るんだよ……


私の文章を読んでくださり感謝します。もし投げ銭でサポートしてくれたら有り難いです、現在闘病中であるクローン病の治療費に当てます。今回ばかりは切実です。声援とかも喜びます、生きる気力になると思います。これからも生きるの頑張ります。