あなたの好きなオレンジ色のアタシ

 ジーンズのポケットに指をつっこんでから、にごりきった息を一気にはきすててから、アタシはやっと闇のなかへと歩きだせる。いつだって、自分は今日この夜にクソったれの変態野郎にブチ殺されるんだって思いが頭をはなれてくれない。家までの道筋に街灯はまばらで、数すくない明かりも死にかけの魚みたいに光をふるわせるばっかで、頼りになんかならない。
変態どもはどこに隠れているなんてわからないんだ。曲がり角のむこうでペニスの位置を調整しながらアタシを待ちかまえているかもしれないし、ドブのにおいがする息を殺しながら後ろからアタシをねらっているかもしれない。だからいつだってポケットに、折り畳みナイフをひそませている。もし変態の野郎がレイプしようとしてきたら、頸動脈にそれをブッ刺して、自分がいかに愚かな行いをしようとしていたかハッキリわからせてやるんだ。
でもけっきょく、そういうことじゃない。
 アタシがムカつくのは、その変態野郎が自分よりもヤバい人間に目をつけられるとかはすこしも警戒もせずに、のうのうとレイプできる相手を吟味できるってところだ。アタシは家に帰るにも、折り畳みナイフを握りしめなくちゃ落ちついていられないのに、やつらは何をするにも余裕綽々。べつにアタシがだれかをレイプしたいとかそういうわけじゃないけど、ただこういう状況でなにも心配せずに自由を謳歌できるっていうのが癪にさわるんだよ。
 道に犬のクソがおちてる。でも大きさからすると人間のクソかもしれない。どっちにしろ私はそれを避けて歩き、そして曲がり角にいたる。
ああ、アンドレア、いつものどおりこのクソったれの曲がり角にさしかかりましたよ、あなたは右に曲がらなくてはなりません、街灯もクソもなくうすぎたない月の光だけが視界を照らすこの曲がり角を右に……
 さっきとはまったく逆になるかもしれないけど、ここにきて心臓がバクバクいって破裂しそうになるのをかんじるたび、いっそ変態がアタシをブチ殺してくれればいいってそうおもったりもする。一瞬で息の根をとめてくれってさ。もちろん変態がすぐにブチ殺してくれるって保証はないし、むしろその可能性はゼロにちかいとすらおもってる。でもアタシはなぜだか死に関しては楽観的で、もし変態に襲われたとしたらアタシは一瞬でブチ殺されて楽に死ねるって考えをすてられない。それはつまり、アタシにとっての究極的な願望なんだ。
 ふとした瞬間に頭に浮かぶんだよ。
 何でアタシはこの世に生まれたんだ?
 何でアタシはこんなからだに生まれたんだ?
 不安と恐怖にさいなまれるためだけにアタシは生まれたのか?
アタシはこの世界に生まれたことを後悔している。アタシはからだもこころも、ぜんぶ引っくるめた"アタシ"って存在をうけいれられないでいる。でもそう言ったって自殺する勇気がないから、だれかがひとおもいにブチ殺してくれたらいいのにっておもうんだった。
 でもこの曲がり角にさしかかると恐怖がわきあがる。のどを紙ヤスリでけずられる感覚がアタシをおそってくる。自分はブチ殺されたいのか生きていたいのか、アタシは混乱するばっかりだ。それでも親指でナイフのさやをなでながら、アタシは大股で曲がり角を右に曲がったんだった。からっぽな暗闇、とおくには街灯が点滅をくりかえしてるのがみえる。昨日までは完全にこわれてたはずなのに。アタシは耳にひややかな痛みをかんじながらも、肝硬変でくたばった死体に浮かぶ黄疸みたいな色の灯りへと駆けていく。

 家にかえってきたら、みじめたらしいツラをさらしながら、アランが玄関にたおれてた。アタシの死にかけのおじいちゃま。自分のブチまけた寝ゲロを枕にしてたんだった。鼻の粘膜にヘドロさながらすいつく異臭。でもそれにもなれっこだ。アタシは溶岩みたいに真赤なアランの顔を横目に、なんとか彼のからだを持ちあげようとする。この状況とは裏腹にコイツの寝息はおだやかそのもので、この時ばかりは死にたいってきもちがコイツをブチ殺してやりたいって思いにとってかわる。
 胸に何十回もナイフを突きたてて殺してやりたい、腹に何十回もナイフを突きさしてブチ殺してやりたい。
 それでも血のつながりの見えない絆かなんなのか、アタシはアランのからだを引きずってしまうし、廊下をとおってリビングに置いてあるソファーまで連れていくくらいのことはしてしまう。髪と顔にはうすい黄土色の嘔吐物がベットリとついてる。勤め先のパブにやってきたニヤケづらのキモい男が、携帯でこういうたぐいのポルノを見せつけてきたのをおもいだす。
 アタシはとりあえず洗面所にいって布巾を何枚かもってきて、ゲロをふきとろうとする。その途中でアランはからだをビクつかせながら、いきなりゲロをブチまけやがった。黒いダウンコートにも、ホコリだらけの床にも、もちろんアタシの服にもゲロがかかる。自然と鼻息が荒くなるのをかんじる。人生は試練の連続っていうけど、神はここまで連続で試練をアタシの頬骨にたたきつけてくるっていうのか。
 アランは夢精した思春期のガキみたいにほうけた寝顔をうかべてた。ぽっかりとひらかれた口からは黄ばんだすきっ歯が見える。すきっ歯ってなんか、幸運の象徴らしいけど、アタシたちのこの状況をみてそんな戯れ言吐けるんだろうか。そんなことをおもっても自然とからだはうごくんだよ。ゲロのかかった服ぬいで、いそいでアランの顔とか髪からゲロをふきとって、彼からも服をぬがせて、リビングの床もふいて、玄関の床もふいて……
アタシはこの世で一番憎んでいる人間を介護するために作られたロボットってかんじだ。関節がうごかなくなるまで、動力源がなくなるまで働かされて、さいごにはお払い箱。アタシを介護してくれるやつはいないけど。
 洗面所でゲロまみれの布巾をあらう。洗剤をビチビチにひたして、においが消しとぶまで念入りにあらわなくちゃ気がすまない。そのあとは自分の手もあらわなくちゃダメだった。表面にはビッシリとシミがわいていて、そこに腐臭がまとわりついてたら、皮膚までくさりおちる気がするからだ。念入りに、手の全体がいたみにもだえるまでつよく洗う。
その途中でつかいふるしたペッパピッグのパジャマを着たミランダがやってくる。不機嫌そうな表情、それはねむいからじゃなくてアタシがこの家にいるからだ。だけど覚束ない足取りが心配になってしまって、アタシは彼女の手をひいてトイレまでつれていく。ミランダはアタシへのあてつけのように、いきおいよくドアをしめる。
 しばらくしてでてきた彼女の手をまたつかんで、上へとつれていこうとする。階段までたどりついたとき、背後のリビングからうめき声がきこえてきた。
「おじいちゃん、おじいちゃん」
 ミランダは私の手をふりはらって、リビングへ駆けだしていく。アタシはウンザリしながら追っていくと、血と糞尿のつまったズタ袋みたいな姿のアランに、ミランダがすがりついているのがみえた。電灯のうすぐらさもあって、その風景は一種の宗教画みたいで、アタシのほうが玄関にゲロをブチまけたくなる。
「くさいから近づかないほうがいいんじゃないの」
 そう声をかけると、アスファルトで干からびて死んでるミミズを見るような目つきで、ミランダはアタシをにらみつけてくる。状況のわかっちゃいないペッパピッグはアホみたいな笑顔をうかべてた。でもアランがかすれた声で彼女の名前をつぶやくと、ミランダはそっちに向きなおしてゲロくさい祖父のからだをだきしめる。つまりミランダはアタシを心の底から憎んでたんだった。アタシがアランを憎んでいるのとおなじように。

 右足のすねのあたりにむずがゆさをかんじて、まぶたをこすりながら起きあがったら、足のうえをゴキブリが這いずりまわってた。それでもなぜだか、アタシのこころは平静をたもっていて、足をひっこめながらシーツにボトリと落ちたゴキブリを観察する余裕すらあった。アタシはなんどもまばたきをして確認したのだけど、やっぱりその黒い塊はゴキブリで、ゴキブリはヨロヨロとベッドを這いずっていったとおもうと床におちる。身をのりだして、ゴキブリがよっぱらいのように進んでいく姿をただただながめる。べつにこういうことが日常茶飯事ってわけじゃない。むしろこんな経験はじめてだった。ゴキブリがアタシの体を這いずってるなんて。むかし、人間は一生のうちで三匹のゴキブリを寝ている間、無意識にたべているって話をきいたことがあって、その時はくだらないウソとしかおもわなかったけど、こういうことがありえるならゴキブリ喰ってたって不思議じゃないなって気持ちになりはじめる。でも今は午後二時で、ゴキブリのおかげでアタシはいつもよりすこしはやく起きれたわけだった。
 階段をおりて、洗面所にむかう。日に日に階段のきしみがひどくなっている気がする。道端にすてられて死にかけてる赤子が最後にしぼりだす泣き声、そんな音が一段一段を踏みしめるたびにきこえてくる。下にはミランダもアランもいなかったけど、廊下にいても昨日のゲロの残り香はなんとなくアタシの鼻にただよってくる。洗面所で顔をあらって、トイレでおしっこして、それから台所にいく。シンクには薄よごれた食器がうずたかく積まれていて、それをみるだけで吐き気がした。そのまわりには色とりどりのビール瓶が勢揃い、この一本一本でアランの頭を順繰りになぐりつける想像を何度しただろう。
 タスカーで一発、ラッキー・ブッダで一発、サミュエル・アダムスで一発……
 でも実際にはそんなことする勇気がないし、そうしたらあのクソ野郎とおなじ穴のムジナになる。
 アタシはシンクからキレイめの皿をとりだして、牛乳をそそいでからシリアルをブチこんで、クソあまくてクソまずいのを掻きこんでいく。アタシはチェリオじゃなくてケロッグの方が好きだけど、ミランダがごねるから家にはチェリオしかない。イギリスのシリアルはアメリカのより砂糖がおおく入ってるって、まるで9.11の陰謀論を語るような調子でベラベラしゃべってる客が前にいたけど、ほんとうなんだろうか。でもとにかく牛乳をふくんでグチョグチョになったシリアルが歯にひっつくのを感じながら無心でたべる。アタシはそうするしかない。
 昼食を食べおわって、アタシはこんなゲロくさい家にいるのはウンザリだから外にでる。でも特になにもすることがないので町をフラフラとさまよう。外壁がはがれまくって無惨な姿をさらす茶色い家の数々。どこもかしこも門はさびていて、風にゆれるとイヤミたらしい音ばかりがひびく。芝生がまだらに生えた遊び場にはガキ一人の影もみえないかわりに、焼けこげた三人がけのデカいソファーが放置されている。中から飛びでてる胃液みたいな色の綿、でもこの町には場違いな格調高さというか、大切にされてたことが分かるってそんな雰囲気が残る佇まい。あのソファーは、近所にすんでたマルクレスクってルーマニア移民の家族の家が火事で全焼して、みんな焼け死んだあとに置かれたものだった。
 いったい誰が何のために?
 そういうことはぜんぜん分かんないんだけど、とにかくアタシがあそこに座ったことはなかった。
 そしてアタシはある路地をとおりがかったときに、脇腹にサッカーボールをくらわされる。犯人は精子臭いジャージを着てるクソガキ集団だ。アタシがそいつらをにらみつける一方で、襲撃成功のハイタッチをみせつけるやつがいれば嬉々として中指を突きたててくるヤツもいた。アタシはアイツらのいる場所とは逆方向にボールを蹴るけどぜんぜん飛ばないし、足早にその場を去ろうとすると、うしろからヤジがとんでくる。だけど卑猥な言葉をバカの一つ覚えに言うだけで、ガキくささがまるだしってかんじだ。それでもアタシの自尊心ってヤツが確実にけずられていってるのが、わかるんだよ。
 すこし痛む脇腹をかかえて、ジェニングス・シネマに行く。暇をつぶすにはうってつけの場所だった。今日上映している映画がなにかも確認せずに席にすわる。スクリーンには小柄な女性が机にむかってタイプライターを打つ背中がうつっている。英語ではない言葉をしゃべっているけど、字幕がつかないのでこれは外したかもしれないとアタシはおもったりする。彼女は風呂にはいり、歯をみがき、タイプライターをうち、そんな生活風景がただ淡々とうつしだされていく中で、この家で彼女はなにかに気をつかいながら生活しているっていうのがわかってくる。そしてあるとき、彼女よりもずっと背の高い男が登場するけど、女性は彼を避けている風にみえる。恋人だとかそういう関係性にはないらしくて、つまり女性が気をつかう相手は彼なわけだった。彼女はほとんどしゃべらないし、カメラにうつる顔はいつだって不機嫌そうで、アタシもいつもこんな表情をうかべてるんじゃないかっておもえた。でも彼女にはアタシにはない愛嬌があった。彼女はやっぱりあの男に気をつかっていて、邪魔にならないよう朝食をいそいで口につっこんでいくのだけど、その時の身ぶり手ぶりはチャップリンとかバスター・キートンみたいな感じで言葉がなくてもわらえた。だけど話がすすむにつれて、内容がよくわからなくなってくる。男がいなくなって気をつかわずに済むようになったのに、彼女はなぜか塞ぎこみはじめて、彼が帰ってこないかをカメラまでセットして監視しはじめる。だれかといっしょに住んでいるのはつらいけど、いざひとりで暮らすのもさびしいってそういうことなんだろうか。そんなかんじでモヤモヤしたまま映画は幕をとじてしまう。次の映画は少年と娼婦の報われない愛を描いている白黒映画で、内容自体はあまり好きじゃなかったけど、2人が砂浜のうえでキスをする姿はせつなくてキレイだった。
 外にでると空気がひえこんでいて、ほおが痛くなるほどだった。それでもアタシはオレンジ色の空の下を早あるきですすんでいって、あるバス停にまでたどりつく。禍々しい悪魔が取りついていてもおかしくない、木が腐りきってボロボロになったちいさな建物。アタシはそのなかにあるベンチにすわって、夕日がしずんでいくのをみつめる。このバス停が役割をはたしていたのは、アタシが生まれるもっとまえ、ミランダが生まれるずっとまえの、イギリスが二つにブチわれてなんていなかった、もっとずっとまえの話だ(まあ、そもそもがバラッバラの国だったけど!)
 でも腐りきってなお、このバス停は形をのこしていて、アタシはここから世界がオレンジ色から薄紫にかわり、最後には黒にぬりつぶされるのを見るのがすきだった。こころのどこかでは、いつかここにちいさなバスがやってきてアタシを乗せてくれるんじゃないかっておもいもある。むかし観た映画の最後で、くるはずのないバスがやってきて、主人公を乗せてどこか遠くにまで連れてってくれるみたいに。あの描写はつまり主人公が死んだってことなんだって解釈があるらしいけど、別に死だってなんだってよかった。アタシ以外のだれかがここじゃないどこかに連れてってくれるなら、なんだっていいんだよ。

 あの日から、店にひろがる空気感がなんとなく変わってしまった。汗とホコリくささを服に着ているたぐいの粗暴なヤツらや、二十四時間いつだって家には居場所がない老人たち(ウチのアランと同じ類のジジイども)がビールをハラワタにたたきこみながら、脳髄アルコールづけでうかれさわぐっていう表面上の光景は変わってない。だけどその狂騒の裏側にドロつく猜疑心が編みこまれはじめてる。カウンターからアイツらのうごきを逐一ながめていると、親愛を表するボディタッチだとか、視線のふとしたゆらめきだとか、酒くさい息を連れだって仲間の耳になにかささやく瞬間だとか、そのなかにピリピリとした緊張感をかんじるときがよくあった。おもてだって事件が起こっているわけじゃない。それでも薄氷の上におもりがのって、ビキビキとヒビの入るような音がひびいてるんだ、破滅の時はちかづいているぞってさ。その予感が勘違いだとはおもってない。今まで仲よさそうにしゃべってたヤツらが、あの日から一回もしゃべってない、店で人々は世代をこえて交流してたはずなのにいつの間におなじ世代に固まりはじめてる、そういう些細なところに変化があらわれてるんだってアタシにはわかってるから。
 カーキのボロっちい帽子をかぶった男がアタシのところにやってきて、金をカウンターにたたきつけながらロンドン・プライドくれって舐めた態度でほざいてくる。アタシは無言でビンをとって、栓をあけて、彼に手渡すんだけど、男はアタシの手ごとつかんできた。ひどくヌルッとした感触。男のゆびさきがその感触とともにズルッと肌のうえをすべる。背筋がビクついて、アタシがおもわず手をゆるめてしまった瞬間、ビンが下におちていく。陳腐なスローモーションのなかで、アタシは黄土色のヒゲにつつまれた彼の唇がゆがむのにきづく。そしてとおくでアイツらがもうアタシをみてるってきづく。
 ビンが割れてビールのしずくが飛びはねる。男はわざとらしく被害者ヅラをうかべて、クソったれとアタシをののしる。なにか言いかえそうとすれば、相手はアタシに拳をむける。あくまで殴るフリだ。でもそれだけで喉から言葉がひっこんでしまう。男たちにとってこれは一種のゲームで、ここからはいかにアタシを言葉でなぐれるかの点数稼ぎなんだよ。エミネム気取りのバカが軽々しく罵詈雑言をつむいでいって、そのあいだアタシはポケットにしまったナイフを指でなでてる。このときのアタシは『セクシービースト』って映画でベン・キングスレーに言葉でボコられまくる日焼けデブ野郎みたいな気分だ。でもキングスレーに比べたらコイツらの罵倒なんか赤子の支離滅裂な泣き声レベルだよって自分をなぐさめる。それで男がいいたいこと全部ブチまけると、まわりのヤツらは口笛ふいたり中指たてたり、男を囃したてる。
 ああ、そうなんだよ。こういう時だけあの一体感がもどってきて、アイツらのこころが一つになるんだった。強いヤツにたいしては容易くバラバラになりながら、弱いヤツにたいしては一丸となって立ちむかえるコミュニティの絆、粗暴だけど仲間思いな男たちのうつくしい友情……

 ビールやら瓶やらを片してから、トイレで念入りに手をあらう。いきおい最大の水に手をつっこみながら、いくらこすってもヌメりはおちない。みじかい爪が骨にくいこむくらい強くこすってもダメ。
 いつものことだった。ここで働くのは男どもの射精を全身にくらうのとおなじなんだ。それに見あう金はもらえるし、この死にかけてる町で他にはたらける場所なんてないし、べつにいいって思ってるけど、町よりさきにアタシが死ぬ方が早いかもって思ったりもする。
 だけどカウンターにもどってくると、アタシは店の奥に彼女の姿をみつける。彼女はかならず三日に一回ビールを飲みにくる女性で、名前も知らないし、どこにすんでるかも知らないけど、何故だか勝手にしたしみをかんじてしまう人物だった。多分イランだとかそこらへんの移民だとおもうんだけど、まず目を惹くのはその髪色だった。そんなドギツくはないけど印象的なネオンピンクとネオングリーンが混ざりあってる髪色。むかし見た、アスファルトにしたたる油にうかぶピンクと緑のいろどり。彼女の髪をみると胸がザワつくような懐かしさといっしょに、そのいろどりを思いだすんだった。いまよりもっとガキだったアタシはあの油を何時間だってみていられたし、もうガキじゃいられないアタシはあの髪色を何時間だってみれる気がした。肌は浅黒くて、まぶたが広くて重たげな目にはあからさまな憂鬱の色。アタシはそこにシンパシーをかんじてる。アタシがこのクソッたれな人生にいだいてる憂鬱と、彼女がまぶたに乗せてるそれは同じたぐいのものだって、一方的に確信していたから。
 でもはなしかけたことは一回もない。彼女のまわりに集まってくるゴキブリどもとおなじ存在にはなりたくないからだ。ここはしずかにひとりの時間をすごすには最悪の場所で、それでも孤独のうつくしいヴェールをまといながら、いつだって彼女はビールをチビチビのんでる。周囲の人間も彼女のオーラに圧倒されているのかなんなのか、舌で静寂を転がす優雅なときを邪魔しないようにしてるんだけど、ときどきクソボケが彼女を口説こうとよってくるんだった。でもどんな口説き文句をいわれても、彼女は絶対に一言だってはなさない。視線はクソボケにむけながら、堂々と"あなたには私と会話できるほどの価値はない"って目でかたるのだ。大抵の場合は便所に落書きしてあるたぐいの言葉をなげつけて、クソボケはどっかにいって、彼女はまたしずかな孤独に身をゆだねる、そのくりかえし。ビールの銘柄以外の言葉が、ピアスのいかしてる彼女の唇からこぼれおちるときをアタシはしらなくて、だからアタシはいますぐにでも彼女の近くにいって、アンタってなんでこんなクソみたいな店にくるの?ってききたい。どんな答えが返ってくるにしろ彼女の声のひびきをききたいって好奇心をかかえてる。でも他のゴキブリといっしょで視線だけむけられて、無言をつらぬかれるのがオチだろう。だけどそれでもいいんじゃないかって、そんなおもいもあった、彼女と目があうなんてなかなかステキなことなんじゃないかって。
 アタシはそんなおもいを持てあましながら、結局はなにもしないままでいるし、今日もそうやって時間はすぎて、彼女は帰ってしまって、アタシひとりになる。
 家に帰ってリビングにむかうと、アランがアホヅラさらしてソファーでねむりこけていた、そのかたわらにはミランダもいる。アタシへの憎しみがうかんでいないとき、ミランダは天使みたいな顔をしている。いまだってそうだった。アランのひざを枕にねむる彼女の姿は無防備でゆるみきり、彼女をまもってあげなくちゃいけないって思いがふきだしてくる。でもそのたびに、こころが掻きむしられるような痛みすらかんじるんだった。愛おしさと忌々しさに、アタシのこころはズタズタに引きさかれてしまう。
 そのときミランダがちいさくクシャミをする。アタシは彼女のからだをしずかに抱きあげて、部屋をでる。からだにミランダの重みをかんじながら、細心の注意をはらって階段をのぼっていく。断末魔の声が彼女の耳にとどかないように、きしみの底にいる亡霊にひきずりこまれないように。
でもいっそ、彼女をこの場所から放りなげてしまおうか。
アタシはうしろをふりむいて、リビングの灯りがかすかに届く廊下をながめる。ミランダのほおはやわらかくて、プニプニしてる。

 鼓膜をなぐりつけるビート。
 脳漿を沸騰させるひびき。
 肌を焼きこがすネオンのきらめき。
 アタシははじける爆音に身をゆだねながら、一心不乱にからだを躍動させる。踊りかたなんてしらないし、だれに習ったこともない。こころがおもむくままに、アタシは全身をなげだしていく。
 脳髄が頭蓋骨のなかでシェイクされるのをかんじながら、頭を上へ下へ右へ左へ振りうごかす。瞼が痙攣するくらいつよく目をあけて目をとじるのを何度だってくりかえす。鼻毛が喉の奥にすいこまれるくらい大きく息をすう。鼻毛が前でおどってる女の首に飛んでいくくらい強く大きく息をはく。唇が裂けるほど大口をあけてバカ野郎ども!ってさけびまくる。
 首なんかゾンビみたいに引きちぎれてネオンブルーをはきだす照明までとんでってしまえばいい。両腕もブッとんでクソ野郎の後頭部をブンなぐればいい。十本の指だって全部ちぎれてナンパにいそしむヤツらの喉チンコに突きささればいい。このムダにデカい胸なんかどっかに消えうせればいい。
アタシはハラワタが内側から皮膚を突きやぶろうとしているのをかんじたい。
 腹のなかで子宮が爆砕するのをかんじたい。
 尻の穴から大腸が噴出するのをかんじたい。
 ふとももから骨が突きでてくるのをかんじたい。
 スネのムダ毛が燃えたつのをかんじたい。
 足が地面にたたきつけられて砕けちるのをかんじたい。
 糞尿と血潮が穴という穴から噴出するいきおいでロケットみたいにどこかへとんでいきたい。
 それがムリなら、このからだぜんぶが木っ端微塵に爆散してしまえばいい。
 そうやってからだを振りみだしているときのアタシは、この世界とはべつの場所にいて、すべてを押しつぶしてくる重力から自由になれている気がしたんだった。いつもアタシのからだは他の酒くさい男たちだとかもっとデッカイ目には見えないたぐいの社会ってヤツにうばわれてるってかんじてる。だれかとセックスしてるだとかそういう問題じゃない。パブでビールを手わたしてるときとか、夜道をビクビクしながらあるくときとか、朝起きたばかりで顔をあらってるときとか、あのバス停で道におちてたパルプ本をよんでるときとか、いつだってそうなんだよ。
だけど今このときだけは、私のからだは私のものなんだって胸を張って言えるんだった。
 そんなおもいも、うしろから尻を鷲づかみにされたときに、一瞬で消えさった。
 アタシは反射的にその手をつかむ。指の毛のザラついた感触。
 アタシはクソッタレの方を振りむく。ネオンにまたたくのは犬のクソを踏んだときに浮かべるたぐいの表情、でもそいつは強引に手を引き抜いて、アタシの体を突き飛ばしてから足早にその場を立ち去った。周りの奴らは思い思いに体を踊らせるばかりでアタシたちのことなんか気にも止めなかった。だからアタシだって何事もなかったかのように体を動かすことにしたけど、何か膜のような物にさえぎられて、もう向こうの世界には行けなかった。縄張りの証明のために犬にオシッコ引っかけられた柱みたいな気持ちだった。それでも何回もあの瞬間を取り戻そうって関節だとか肉とか骨とか髪とか動かしまくって、だけどそうすればするほど視界が狭まっていくのを感じる。子供向けアニメや昔の白黒映画で画面が黒みにすぼんでいくあの感じ、闇がアタシの世界をググッと押しせばめていくんだよ、ネオンの極彩色が遠ざかっていく、激しいビートが小さくなっていく、アタシのからだは牢獄、アタシのからだは呪い、どこにも行けない、どこにも行けやしない……

 でも視界に残るちいさな丸のなかに、アタシは彼女の横顔をみつけたんだった。一瞬だけ目があった、そんな気がした。すぐに人混みの奥にいってしまう彼女をアタシはわらにもすがる思いで追いかけていく。暴力的な肉の洪水がアタシの皮膚にうちつけるのも構わないで、アタシは彼女のいる方向へとつっこんでいく。
 そうして行き当たったのはバーテンのいるカウンターで、彼女はひとりでそこにすわっていた。アタシはバクバクと鳴る心臓をなだめながら、しれっと彼女の隣の席にすわる。横をチラッと向いたら、今度は完全に目があった。どうしていいか分からないアタシに彼女はショットを渡して、唇をうごかした。たぶん乾杯って言ったんだとおもう。そして彼女は勢いよく酒を喉にながしこむ、でもアタシはためらう。酒の熱に唇をゆがめている彼女は、こっちの様子に気づいてゆっくりちかづいてくる。口をアタシの耳に寄せて、
「飲まないの?」
 ってそんな言葉。
「酒は飲まないようにしてる」
 その返事に彼女は目をまるくして、でもどうせだからって感じでアタシの酒まで口にブチこんで、刺激にもだえてる。それから彼女は、
「少し外に行かない?」
って言ってきたんだった。
 外には狂騒の熱なんか、みじんも存在してない。毛穴のなかの油すらこおるくらいのさむさ。アタシたちはオレンジ色の光のしたにたたずむ。とりあえずアタシはタバコに火をつけようとするんだけど、ライターがブッこわれてるのか10回くらい押してやっと火がつく。
「ライター貸してもらっていい?」
 彼女がそう聞いてくる。
「……良いけど、つかないかもよ」
 アタシの言葉どおり、彼女が二十回押してもライターからは火花が散るばかりでどうにもならない。
「ゴメン、やっぱ無理っぽい」
 そう言ったら、彼女はタバコをくわえたまま、アタシに近づいてくる。
そうして自分のタバコの先端をアタシのタバコにくっつけたんだった。タバコ以外のにがさとあまさの混じりあうにおい。
「ほら、ついたよ」
 彼女は煙をはきながらアタシにそう言ったけど、なんて答えていいかなんて分からなかった。しばらくそのまま無言になって、アタシたちはそれぞれの肺で煙の感触をたのしむ。
「今日は仕事じゃなかったの?」
「……今日は休みで、だから、まあ、踊りにきてたっていうか、そういう……」
ツバのせいなのか舌がもつれて、アタシはちゃんとした返事をかえせない。
「ここにはよく来るの?」
「仕事がやすみの日はいつも、行ってる。たぶん毎週行ってると……うん、おもうけど」
「いままで会わなかったなんて信じられない」
 彼女はそんなこと言ったけど、アタシは、
「まあ人とか結構多いし……」
って、つれない答えしか返せなくて恥ずかしくなる。でもアタシはなけなしの勇気をだして、パブではずっと聞けなかったあの質問を彼女にしてみる。
「ねえ……なんでいつもアタシの店にビール飲みにくるの?」
「なんでって、どういうこと?」
 彼女の唇についたピアスがゆれる。
「こう……あの店は客層とかクソで、うざったい野郎ばっかり来るわけじゃない? ……しずかにビールを飲みにって、そういう場所じゃ全然ないし、なんでとか、そうおもうっていう……こと」
 彼女はすこし唇をへの字にまげて、かんがえこむような素振りをみせる。そして言ったんだった。
「あなたがいるから」
 アタシはもうなんて返していいか分からなくて、鼓膜をやさしくなでてくれるような声に、なんて答えていいかなんてまったく分からなくて、急に心臓の裏側がいたくてどうしようもなくなる。
「シャヒーダ」
 そんなアタシの心臓を、耳なれない言葉のひびきが包みこんでくれる。
「……なんて言ったの?」
「シャヒーダ、わたしの名前」
「シャヒーダ」
アタシはあなたの名前をいちどだけ口に出してみる。唇や舌がどう動いて、喉がどうふるえるのかをあじわってみる。そしてアタシはアタシ自身の名前を口にする、アンドレアっていう、いまいましい名前を。
でもシャヒーダはいい名前だって言ってくれたんだった。アタシはやっぱりどう反応していいか分からなかったけど、でもうれしかった。
「ねえ、シャヒーダ、アンタはどういう仕事してるの?」

 そしてアタシは彼女が勤めてるっていうネイルサロンに足をはこぶことになる。"Absolute FB"っていう名付けたヤツがどういうドラマが好きか一目瞭然なかんじで、内装もすがすがしいほどゴテゴテだった。居心地わるさをかんじながらも、うすいピンク色の制服を着ているシャヒーダがこっちに気づいて笑顔を見せてくれたときに、そんな気持ちはふきとぶ。中にとおされて奥の席で、アタシとシャヒーダは真正面から向きあうことになる。憂鬱をおびた重たげなまぶたに、どうしても目がいってしまう。
「ネイルとか、そういうの全然やったことないんだけど……」
 するとシャヒーダはアタシの爪をジッと凝視してきて背中がむずがゆくなる。
「爪、のばしてないんだね」
「……アタシの爪、まるっこくて不細工だから。のばすともっと見た目わるくなるし、だったらまあ、もうのばさなくていいやとかおもって……」
 そう言いながら、アタシはシャヒーダの爪をみる。彼女のもみじかいけど、手入れが行きとどいているからか形がキレイだし、エメラルドみたいな色合いがしっかりなじんでいて羨ましかった。でも一つだけ気になることがある。
「……なんで中指だけ赤くぬってるの?」
 彼女はすこし驚いたような顔をしてから、満面の笑みでアタシに両手の中指をつきたててきた。
「クソッタレに"肉片ブチ撒けられたくなきゃ、失せろボケ!"って一瞬でつたえるため」
 そうして二人でわらいあう。
「で、どうする? 何か要望とかある?」
「……こういうところ、ホント、全然来たことないからよく分かんないんだけど、とりあえずマニキュアとか、なんか……」
「いいよ、どういう色がいいとか希望はあったりする?」
「…………全然ないね。なんというか……なんかアタシに似合う色とかある?」
 シャヒーダはアタシの中でくすぶってる色彩をみさだめるってそんな意気で、こっちを見つめる。まぶたからは憂鬱もかききえていて、目つきはプロのそれだった。しばらくたって彼女は見るのをとめると、まずアタシの爪をなにかの器具でととのえていく。くすんでいた爪の数々があっという間にかがやきをとりもどしていく、少なくともアタシにはそう見えた。
 そして彼女がとりだした色はやわらかな青色、空や海をみたすあの色彩。どうしてこんなやさしい色をシャヒーダがえらんだのはわからなくて、とじた唇が恥ずかしさでゆれる。
 シャヒーダの手さばきはさすがの器用さで、爪が青のいろどりに満ちていく。でもなんだかその感覚がこそばゆくて、顔に不気味なニヤつきが浮かびそうになるのをアタシは必死におさえる。樹齢何百年の樹の枝みたいに貧相で、死人の顔面にかける布みたいに白い指。でも小さな爪が青くそまっただけで生きる力をとりもどしたように見えた。
 右の爪がすべて塗りおわったあと、何でこの色をえらんだのかってアタシはシャヒーダにたずねてみる。彼女は爪からこっちに向きなおしてからこう答える。
「わたし、午後の青空と夕暮れのオレンジがまじわりあう瞬間がすきなんだけど、あなたの髪の色がキレイな夕日色だから、爪が青空みたいな色だったら似合うかなとおもって」
 彼女とはすこししか話していないのに、なんて言葉をかえしていいのか分からない瞬間がおおすぎる、アタシはそう思うんだけど、でもそれは不愉快ってわけじゃなくて、むしろうれしかった。アタシはこの髪がきらいで、それはクソッタレのアランと同じ色をしていて、つまりこのクソ野郎の血から生まれたって証明ってことにほかならないからだ。アレルギーのせいで髪をそめることもできないし、いやがらせのように髪とおなじ色のシミがからだじゅうにうかんでる。頬で、肩で、二の腕で、背中であのクソジジイの呪いがアブラムシみたいにうごめいているのを、いつだってかんじてる。学校でもどこでもバカにされつづけて、この髪にかんしてはいいことなんてなにもなかった。
 でも右手をおそるおそる髪のちかくにかかげて、こっちがなにも言わないうちにシャヒーダがうなずいてくれたとき、アタシはこの髪を愛してもいいんじゃないかって、ちょっとだけそうおもえる。
 かえりみち、あざやかな橙色にそまる空のしたをあるいていくとき、今度は両手を宙にかかげる。爪にうかぶうつくしい水色、空にうかぶうつくしいオレンジ色。シャヒーダが好きと言っていた風景がここにはひろがっていた。アタシは拳をひらいてとじて、関節が自由にうごく感覚をあじわって、てのひらをこっちにむけてから、しばらくこぶしをとじたままにして指の腹や関節でひえた空気をにぎっている感覚をあじわう。そのあとに親指のさきで他の指の爪をさわってみたくなる。だけどまだかわいてないからなんとか我慢して、アタシは爪にあたる空気をなでていくんだった。

 テーブルでねむりこけるミランダを抱きしめて二階にあがる。階段のきしみはひどくなり、彼女のからだも悲鳴をすって重くなってきている気がした。アタシの部屋もふくめて、ほかの部屋はゴキブリやらネズミの巣窟でもおかしくないくらいきたならしいけど、ミランダの部屋だけはべつだ。電気をつけて部屋全体をながめるたび、どうしてここだけこんなにキレイなのか疑問に思うほどだ。うすいピンクの壁にはヤニの一片すらなくて、鼻の粘膜にひっつくようなホコリくささはかんじられない。床にだって下着もビール瓶もなにも散らばってない。この部屋は家に唯一存在する聖域のような場所だった。
 アタシは足をふみいれるのをいつだってすこしためらってしまう。ミランダがこの部屋にはいるのを拒絶するからだ。くるった野犬みたいにさわぐ姿は悪夢以外のなにものでもない。その記憶が発作のように頭にうかんでは脳髄をなぐりつけてくるんだよ。一歩ずつゆっくりとすすむ、足の指をすずかにバタバタとうごかす、一歩ずつゆっくりとすすむ、足の指をしずかにバタバタとうごかす。アタシはそれをくりかえしてベッドまでたどりつく。
このベッドだって不気味なまでにしつらえられている。これをやってるのはアランだった。部屋を掃除しているのも、壁紙を丁寧に手入れしているのも、オモチャをかたづけているのも全部アランだった。アタシもミランダもいない間に、ヤツは人知れずそれをやってのける。ゲロをブチ撒けないでもそれができてるのが不思議なくらいだった。アランが酒飲むか部屋片すか以外なにをやってるかアタシはしらない、知りたくもない。すくなくともわかるのは、彼女がミランダにだけはおじいちゃん面しようとしていて、その努力は一応のところ実をむすんでいることだけだ。
 電気をけして、スタンドのあかりをつけて、無邪気にねむるミランダの寝顔をみつめる。顔はできたてのパンみたいにふっくらしていて、そのやわらかさは赤ちゃんの時とかわらない。アタシはクソジジイの腕にだかれながら、まっかになって泣きわめくミランダの姿をおぼえている。生まれたばっかなのに不気味なくらい髪がフサフサで、その色は黒だった。ちょうど学校でアンドリューってクソったれが赤毛にツバひっかけてきたばっかだから――そのアンドリューは二年くらいたってから、トラックに轢かれて肉片になって死んだ、ざまあみろ――純粋にうらやましかった。
 アタシの父親はジェレミーって名前のクソで、アタシが三歳の時に家を出てった。だからクソ野郎についての記憶はほぼなくて、のこされた一枚の写真だけがクソ野郎の面をおがむ機会をアタシにくれる。森のなかで全裸で大の字になってる写真、なんでそれだけがのこってるのか分かんないし、アランにその理由をきいたことすらないけど、少なくともクソ野郎の髪の色がボイルされたクソみたいな焦げ茶色をしていたのは分かる。せめてその髪色をアタシに分けてくれたなら、憎しみのレベルは"脳髄叩き割って殺したい"じゃなくて"心臓にナイフ突き立てて殺したい"くらいだったかもしれない。
 でも親になる責任からきたならしいケツさらして逃走した意味ではミランダの父親の方がタチがわるい。なんせ恋人が妊娠したって聞かされた直後ににげたんだから。アタシは結局アイツの名前すらしらないままだったけど、二人で台所にいた時に右の手の甲で首をなでられたことは一生わすれないだろう。でもアラン家一族がもってた赤毛の遺伝子を駆逐して、ミランダの髪をブルネットにそめた事実はかわらない。その点じゃ、同じく父親にみすてられた同士でも彼女のことがうらやましかった。
 あとは母親のレイチェルのことだけど、このクソアマは赤毛で、アタシたちを放置プレイしたあと、どっかの男といっしょになって、この町から去った。もうこんなクソ家族のはなしなんかしたくない。
 リビングに戻ると、床にペンと一枚の絵がおちているのにきづいた。拾いあげてその絵を見てみる。つかわれているのは黒一色で、三人の人間がならんでいる。まんなかには一番ちいさな人間、ミランダ自身だ。足の関節がへんな方向にまがり、胴体には人喰い生命体のようなナリをしたペッパピッグが書かれている。彼女の右手は異様にながくのびてるけど、その手がつながれているのは二番目に大きくてひときわほそい人間、かたわらにつたない字でアランとしるされていた。彼女のからだはクソほどほそい、酒ばっか飲んでるクセにブクブク太ってない、病的にスリムな体型をちゃんととらえてる。でも顔面には絵文字みたいな満面の笑顔がうかんでいる。こんな顔面、実際にみたことがなかった。ゲロをブチ撒けるまえの顔のパーツが中央によりまくる表情、家に酒がないのにブチ切れた時の毛穴からマグマをたれながしたような怒りの表情。ここに書かれるべきなのはほかにたくさんあるのに、よりによってこんな表情えらぶなんてありえなかった。気味悪い。
 そしてミランダの左側にはアタシ、アンドレアって名前には大きなバツ印がしるされ、背丈は一番高いけどからだじゅう全部が暴力的なまでにぬりつぶされてた。とくに顔は表情がうかがえないほど念入りに、ドス黒くぬりつぶされてたんだった。そのいきおいは猛烈でいまにもインクのにおいが鼻にまでとどいてくるような気がしたけど、どうでもよかった、もうなれてた。これは毎度の宣戦布告なのだ。アタシがこれをみるのは織りこみ済みで、自分と祖父をきずつけるような真似したらブッころしてやるって布告。アタシはさっきまでミランダがすわってた椅子にすわり、ペンをもって、ミランダの首を一本の線で切り裂いてから、血しぶきをかいた。彼女がアタシをぬりつぶしたのとおなじくらいの熱量で真剣にかいた。まえ深夜にやってた日本のサムライ映画みたいなむごたらしさをめざす。敵のニンジャが主人公につめよったら、いきなり天井から棒がふってきて肩や脳天にブッ刺さり、白目をむくニンジャから朱色の血糊がビジョビジョ出るとかそんな感じのヤツ。
手首がいたくなってきた頃にはなかなかサマになってきていて、これをミランダの部屋に紙飛行機にしてなげこもうとおもったけど、そのときやっと裏にかかれている物にきづく。ちいさなちいさな字が、夏の日差しにやられ干からびて死にかけたミミズが、のたうち回るようにつらなっている。

 しねしねしねしねしねしねしねアイツなんかしね、アイツがいなければあたしはおじいちゃんと幸せにくらせるのに。アイツはあたしたちをくるしめるアクマなんだ、アイツはおじいちゃんのおなかをいっぱいパンチする、そしたらおじいちゃんはくるしくてくるしくていっぱいからだの中のものを口から出しちゃう、それは生きていくのにすごいいるものだから、アイツはわざといっぱい出させるんだ、それでころすんだ。おじいちゃんのすきなさけものませない、じぶんはコーラとかいっぱいのんでる、あたしものめないのに。アイツはしね、ここから出ていってしね、ばか、赤くてキモいアンドレア、クソっておじいちゃんもいってる、キモいキモいクソクソ、しね、しねしねしねしねしねしね、オマエなんかしね、しねしねしね…………

 次の日、アタシはこれをシャヒーダに朗読してあげる。真夜中の道には二人だけしかいなくて、アタシの声だけがひびく。いままで読んだなかでもホントに最高の文章だったから朗読にも熱がはいる。書き手を尊重して喉や唇を八歳児みたいにうごかそうかともおもったけど、それだとモノマネに苦心するハメになるからやめて、高校の授業でアンドレア・ダンバーの戯曲を音読――もしそんな授業あるならのはなしだけど――するみたいに文章をよむ。まず最初の死ねの連呼、一つ言うたびにすこしずつ音量をあげて最後はさけびみたいにはきすてる。シャヒーダは憂鬱げな目をおどろきにみひろげてくれて、この言いかたは成功だったとほくそえむ。そしてアタシはミランダがいだいただろう苦しみ、憎しみ、アランへのあわれみを思いうかべながら文章をよんでいく。アタシがすきだったのは"ゲロ"をわざわざ"からだの中のもの"と言いかえているところだ。ミランダのつつましさが端的にあらわれているから、アタシは吹きださざるをえなかった。そこからわらいで何回も文章がつっかえてしまう。しゃっくりみたいに笑いがこみあげてきてどうしようもないんだよ。まえにくたばったキャロライン・アハーンのネタよりもわらえた。"赤くてキモいアンドレア"なんてもう最高で、これくらいストレートにアタシをののしった人間なんておもいつかない。わらいがとまらないまま最後の死ね連呼にいきあたったけど、アタシは書き手の文章を尊重せず、かかれている以上に死ねっていいまくってみる。
 死ね死ね死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね。最高の気分だった。死ね死ね死ね死ね死ね死ね。
 そういいまくっていると、じっさい天に昇るようなここちで、天国でアハーンにこの紙をつきつけるのも可能じゃないかっておもえてきた。そして最高のさらなる最高潮に至ったころには涙すらでてきてこれもとまらなくなった、鼻水もデロデロでてきた。アタシはあの紙で鼻水をぬぐいとるんだけど洪水みたいに穴からたれていく。おもいうかべたら吹きだすほどの顔をしてたとおもうけど、アタシはもうわらえなかった。そのうち心臓が破裂するんじゃないかってほど痛くなって、呼吸もマトモにできなくなる。なにやってんだろアタシは、ってクソみたいなかんじだった。

 ふときづいたら、アタシの目にヤニみたいな色の壁がうつる。そしてそれは壁じゃなくて天井で、アタシはベッドかなにかによこたわってるって分かる。
「ああ、起きたんだ」
 横をみるとシャヒーダがいて、こころのなかがあたたかい安心感につつまれる。同時にいままでにやらかしたできごとが頭をかけめぐって、羞恥心に後頭部をなぐられるようなここちになる。でも彼女はなにもいわず、だきしめてくれた。髪をなで、背中をなで、アタシのなみうつこころを落ちつかせてくれる。
 彼女がもってきてくれたホットミルクをのみながら、自分のクソったれな人生についてはなす。母親もクソ、父親もクソ、妹もクソ、祖父もクソ、この町もクソ、マジで人生全部がクソなアタシのすべてを彼女にさらけだした。シャヒーダはアタシの目をみながら、ときどき右手の甲をやさしくなでながら、なにもいわずにきいてくれた。ウジムシのこびりついたアドバイスもカビだらけの正論も、なにもいわないでアタシのいうことだけをしずかにきいてくれた。途中で偶然おなじタイミングでホットミルクに口をつけたときは2人でわらいあって、すべてをはなしおわったあとにはもう一度だきしめあう。シャヒーダの体からはいいにおいがした。
 それからシャヒーダはアタシの手をマッサージしてくれるっていう。ネイルが乾かなくてできなかったことをいまするんだと。彼女はクリームを自分のてのひらにのせて、もう片方でやさしくおおう。
「なにしてるの」
「ボディバターを体温であたためてるんだよ。つめたかったら意味がないから」
 シャヒーダは両手でやさしくクリームをアタシのはだになじませていく。
指先から手の甲、そして手首まで。でも実際ははだというか産毛をなでるてのひらくらいの繊細さで、くすぐったくすらおもえる。つぎはもっとつよい、手首にちかい部分をアタシの肌におしつけて親指で円をえがくようにうごかしていくんだった。彼女のはだとアタシのはだが、かさなりあう感覚、それと同時に鼻にはさっきとはまたちがう香りがとどく。
「このにおいは?」
「モリンガっていうお茶のにおい。わたし、このにおいがすきだから」
そう言ってゆるんだ笑顔をうかべる。
 しばらくつよめのマッサージがつづいたあと、シャヒーダは指の一本一本をほぐしてくれる。指の根本から指先にむかってグルグルとこまかい円をえがくようなうごき。骨までアイスみたいにとけていってしまいそうなここち。だけど一回それがおわると、皮膚をひっぱるようなマッサージになって十秒前のここちよさが恋しくなったりする。一本終わったあとには、指のあいだを親指でギュッと圧迫される。
「いたい?」
「……ちょっとだけ」
「便秘ぎみじゃない?」
「…………何で分かるの?」
 次はてのひらをマッサージされるのだけど、アタシは彼女の手さばきにみとれてしまっていた。なめらかで、やさしくて、ときどきはここちよい痛みもある。でもそういった感覚以上に、アタシの手がアタシのもとに帰ってくるって感覚があった。あのクラブの狂騒のなかにじゃなくて、このやすらぎのなかに。そしてさいご、シャヒーダは二つの手でアタシの手をつつみこみながら、目をみつめる。
からだのどこかで火花がちる音がきこえる。それは鼻のおくでグルグルと混ざりあう。二つのあまいにおいに飛びちり、炎が燃えたつ。アタシのなかにあるすべてがとけていくんだ、でも心地よい。
なめらかな熱に視界がボヤけていくなかで、シャヒーダの香りがちかづいてくる、いやアタシがちかづいてっているのか。でも、そんなのどっちだってよかった。アタシとシャヒーダはキスしたんだから。
唇と唇がかるくふれあう時間、永遠にまでひきのばされた時間。
唇のほてりとピアスのひややかさがアタシのからだをピリピリとふるわせる。そして脳髄がとろけそうになるころ、アタシは両手で彼女のほおをなでながら、もっとつよく唇をおしあてる。つよく、もっとつよく、海でおぼれそうになってる子供みたいに、腹がへって死にそうになってるコイみたいに、シャヒーダの唇をむさぼっていく。彼女はそれをうけいれてくれて、アタシのからだをいだきながらベッドへとたおれこむ。ふとくてキュートな眉毛、憂鬱そうなまぶた、先がまるっこくなっている鼻。
 下唇についてるピアスにキスの嵐をあびせて、そして浅黒い肌がうつくしくしなる首筋にかぶりついたとき、我慢できなくなったシャヒーダがせつない声をあげる。
 ぜんぶぬがしあってはだかになって、アタシたちはけものみたいに、たがいにくらいついていく。シャヒーダの髪をアタシの鼻で感じるとき、アタシのつまさきをシャヒーダのすねがかんじてる。シャヒーダの乳房をアタシのてのひらがかんじるとき、アタシの脇腹をシャヒーダの手首がかんじてる。シャヒーダの性器をアタシのふとももがかんじるとき、アタシの乳首をシャヒーダの人差し指がかんじてる。
それが目にもとまらないはやさでくりひろげられて、下になって、上になって、グルグルとアタシたちはまわりつづける。そして何十回目かにシャヒーダが下になった時、うるんだひとみで彼女はいう。
「なかにはいってきて」
 彼女はアタシの右手をとって人差し指と中指をくわえると、二本をツバでしっとりとぬらす。アタシはシャヒーダの唇をなでてから、彼女のまたぐらに指をはこんでいく。そして割れ目に指をいれて、ヌルヌルした感触をあじわいながらシャヒーダのなかを掻きまわしていく。
 でも指先がなかにふかく触れたとき、彼女は、
「いたい!」
ってさけんだんだった。その瞬間に、アタシはどうしていいかわからなくなった。頭からひやみずをブッかけられたようなかんじで、さっきまでの幸福感は完全にきえさる。みじめさに頬骨をブンなぐられてから、アタシは二本の指をぬいて彼女にあやまって、それからベッドのあいてる部分にドスンってねころがる。そうするしかなかった。
「ねぇ、怒ってる?」
 彼女がそうきいてくる。
 べつにと返事しようとしたら、そのまえにシャヒーダが、
「こっち向いて」
といってくる。アタシは羞恥心なのか怒りなのかよくわからないモヤモヤをかかえながら、彼女のほうにからだをむける。
「あなたと、もっとやさしく愛しあいたい」
 そういって、シャヒーダはアタシの手をにぎる。
「やさしくって……どうすればいいの?」
「もっと、自分のからだを自分で愛するみたいに、私のからだを愛してほしいってこと」
「……アタシは自分のからだを愛したことなんか、いちどもない」
 その言葉は本心だったけど、それをきいたシャヒーダは哀しげな表情をうかべた。そのあわれみが、いまのアタシにはあてつけのようにしかおもえなくて、イラつきをおさえることができなくなる。
「じゃあ……どうすればいい? アタシはどう……自分のからだを愛せばいい? こんなクソったれな世界に生きてて、どう自分のからだを愛せばいいんだよ? アタシのからだなのにアタシには所有権もクソもなくて、まわりにうじゃうじゃいるクソ野郎の頭のなかで勝手にこねくりまわされて、ペニスしごかれて精液ブッかけられる。なにも妄想のなかだけってはいわないよ。アタシはパブの客に精子ついた手で右手をさわられて、あのヌメヌメしたのを取るためにずっと手を洗いつづけなくちゃいけなかった。そんなんでどうやってアタシはアタシのからだを愛せばいいの? どうやってアタシはアタシを愛せばいいの? ねえアンタならわかるの、ならおしえてよ、おしえろよ……」
 アタシはシャヒーダの胸のなかで泣いた。彼女のうすい胸からは心臓の鼓動がきこえてくる。ぐちゃぐちゃな気持ちをおちつけてくれるようなひびき。そしてこみあげてくるのは、ふかい後悔だ。彼女だってアタシのいったこといたいほど経験しているハズなんだから。
 すこしずつこころが落ちついてきたころ、シャヒーダがアタシにゆっくりおおいかぶさってきてキスしてくる。そして左手をとってアタシ自身の性器にそれをもっていく。性器にふれるアタシの左手とそれをつつみこんでくれる彼女の指。アタシの手の感触がどうなっているのかやさしくたしかめるように、その指は肌の表面をながれていく。キスが濃厚になってくると、がまんできずにアタシの指がうごきはじめる。アタシは指先で性器の感触をたしかめていく。
 やわらかいところ、すこしかたいところ、なめらかなところ、ザラついたところ。
 クリトリスだとか、それをおおってる皮だとか、名前なんか全然しらない部位だとか、そういうものの感触を知ろうとするごとに、興奮はたかまっていく。
 彼女に手の甲をなでられながら、アタシの指はアタシのなかへとはいっていく。興奮にあつくぬれた皮膚をなでると、快感が下腹部でうずをまく。そのときシャヒーダはアタシの髪の毛に鼻をうずめてきた。
「あなたの髪がすき。夕日みたいな、炎みたいなあたたかな色。初めて見たときからこの色をずっとかんじたかった」
 鼓膜にそんな言葉がふれるたび、髪の毛の一本一本に電流がはしり、皮膚は快感にマヒしていく。唇のすきまからなまぬるい息と声をもれでるのをおさえきれない。そしてきこえてくる彼女の笑い声によろこびがにじんでいるのが、アタシにはわかったんだった。
 シャヒーダの唇は髪から耳、ほおからアゴ、首筋から鎖骨、肩へと無邪気な少女みたいにかけぬけていく。シミだらけの肩、なのに彼女はそこを入念になめて、くわえて、かんで、キスして、指全体でつつんできて、肌をやさしくにぎって、なでていって……でも恥ずかしさがすこしずつほどけていくのをアタシはかんじるんだった。こわばっていた筋がすっとゆるまり、虫たちのうごめきはいとしいくすぐったさに変わっていく。この肩をいままでアタシのものなんておもったことはなかった、おもえたことなんてなかった。でも今は脳髄以上に、このみにくいはずの肩とアタシのこころがつながってるって、そんな気がした。
 全身の毛穴がひらいて汗がふきでる。額からこぼれた汗が眉間をつたって、鼻の脇をとおり、口のなかへとすいこまれていくころ、アタシはもうホントの意味でイキそうになる。指のうごきがはげしくなって、あえぎごえもバカみたいにおおきくなって、意識を全部もってかれそうな恐怖とシャヒーダがいてくれてるって安心感がごちゃまぜになったまま、必死に彼女をだきよせて、そのままつよくつよくだきあいながら、アタシのからだは爆発したんだった。

 視界がまっくらになってるのにアタシはきづく。肋骨の存在をかんじるくらいおおきく深呼吸して、呼吸をととのえても世界のくらさはかわらない。アタシは無重力の闇になげだされた宇宙飛行士ってかんじで、そのなかをプカプカとただよっている。最初はぬるま湯のなかをただようようなここちよさがあったけど、それはすぐにみじめたらしい孤独にとってかわった。アタシはからだをとにかくうごかすけど、ふれられるものなんてなにもない。だれもいない。でも、涙をながすまえに呼ぶべき名前があることをアタシはおもいだす。
「シャヒーダ」
 舌のうねりをかんじながら、喉のふるえをかんじながら、肺のおくからあふれだす息が唇をとおりすぎていくのをかんじながら、彼女の名前をよぶ。
「シャヒーダ、シャヒーダ、シャヒーダ」
 指のあいだにみちわたるあたたかさ。アタシはそれをゆっくりとつかむ。なめらかなはだ、そのおくにあるコリコリとした骨、ほそいけれどしなやかな指、皮膚の表面にながれる産毛、肉づきがよくてプニプニしているてのひら、逆に骨の感触がちからづよい手の甲。あまえるようにベタベタとその手にふれながら、もういちどだけ彼女の名前をよぶ。
「シャヒーダ」
 そしてもう一言だけ、だれにもいったことのなかった言葉をつぶやく。
「愛してる」

 その日から、アタシとシャヒーダはひまをみつけては、はだをかさねるようになる。せまいベッドのうえで、発情期の猫みたいな声をあげながら愛しあったり、逆になにもしないでただただ裸でギュッとだきしめあったり、それなのにシャヒーダがひとりでイッてしまって、恥ずかしさに泣きそうになっている表情があまりにかわいくて、そのあと何度もイジめて何度もイカせたりするときもあり、二人とも仕事がやすみの時は朝からセックスして、耳の穴とクリトリスを同時に刺激されながらイッたり、足のうらと脇のしたを同時に刺激しながらイカせたり、その合間にあまったるいシリアルを、シャヒーダはビール、アタシはダイエットコークで胃におしこんでから、そのままキッチンでだきあったり、とにかく正気の沙汰じゃないくらいのいきおいでセックスして、ソファーにねころががってギリシャの変態映画をみながらたがいの穴という穴を愛撫しあって、汗まみれのままベタベタして、シャワーで汗をながしあいながらキスをして、夜には全身ひからびた魚の死骸みたいにベッドによこたわって、それでもたがいにたがいを愛しつづけた。
 そしてセックスとおなじくらいアタシたちはしゃべりまくった。セックスのあいだはどこが気持ちいいのかを言葉でつたえあって、シャヒーダにクンニされながらアタシは昨日見た夢のはなしを夢心地でつぶやいた。ラズベリーソースのかかったケーキが急にたべたくなってお菓子屋を色々まわるけどどこにもない。実はそれはクソッたれの紫タイツ泥棒のしわざで、あるケーキ屋に寄ったときにちょうどそいつと鉢あわせするのだけど、相手はものすごく速く走れるクセして、自分はまるで水のなかをいくようなかんじで全然うまくはしれない。だけど道端にアップルパイがおちていたからそれをたべて、なにかがまたおこりそうな予感のなかでその夢はブチッととぎれる。
 シャヒーダは映画がだいすきで、仕事やアタシとセックスしている以外の時はずっと映画をみているらしい。彼女はそうしてみた作品について、気圧されるほど饒舌に身ぶり手ぶりをまじえながらはなしてくれた。日本人の青年が自分よりもつよい人間を探してボコなぐりにしたりボコなぐりにされたりする姿を延々えがいた映画について。一夫多妻制のセネガルで、ある男の第一婦人と第二婦人が愛しあう姿をえがいた短編と編みあげられた髪に二人がたがいに指をとおすうつくしい場面について。第一次世界大戦が終わったあとのヨーロッパのどこかで一人の少年が独裁者になるまでをえがく作品とその作品がいかにつまらなすぎるかについて。第二次世界大戦中のロシアでパルチザンがドイツ軍と戦いを繰り広げる映画とその監督が女性であるがゆえにいかに過小評価されているかについて。
 シャヒーダがそういうことをはなすとき、口や表情以上に手がめまぐるしくうごくのにアタシはきづく。空気をまきあげるような手のうごきで劇伴が騒々しすぎるのを表現したり、言葉がでない時にはゆるく拳をにぎりながら手首をグルグルとまわしたりするんだった。そのなかで彼女が中指にぬったあざやかな赤がひらめく瞬間があって、アタシはそれをみるのがすきで、映画のはなしがおわったあとにその指がアタシのなかにはいってくるのをかんじるのもすきだった。
 そしてせまいベッドにねころがったふたつのからだ以上に、アタシたちのこころが近づいていくころ、彼女は自分のことをはなしてくれる。パキスタン系移民の家庭にうまれたこと、両親は食料雑貨店を経営していること、彼らやコミュニティの閉鎖性がいきぐるしくなって十五歳で故郷の町をでていったこと、そのままいろんな町をわたりあるいていること。アタシは家族だとかそういうものにしばられないで、自由に生きている彼女がうらやましかった。
「こんなクソったれな町から、アタシをつれだしてくれない?」
 あるときシャヒーダにそういってみる。半分冗談で半分本気だった。
「いっしょにこんなクソったれな町から出ていこう、っていうならかんがえてもいいけど」
 シャヒーダのそんな返事。アタシはすぐにでもそういおうとするのに、ためらいがねばっこい痰みたいに喉にへばりついて、声をあげられなくなる。けっきょくアタシをあの家族に、この町にしばりつけているのはアタシ自身なのかもしれない。そうおもうと自分は世界一愚鈍なマゾ女なんじゃないかって気がして、みじめな気分になる。そんな気分をとりつくろうようにシャヒーダにキスをして、彼女を胸にいだきながらねむりにつく。

 昼、家にかえってくると、まずきこえてきたのがミランダのすすりなく声だった。リビングに足をふみいれ、陰鬱なうすぐらさのなかで床にうずくまりながら泣きつづけるミランダの姿を見たとき、アタシは背中を滅多刺しにされるような気分になる。彼女にちかづいていき、シャヒーダにそうするようにだきしめようとするけどミランダは腕をふりまわしてアタシをこばむ。
「なんで泣いてんだよ」
 自分ではかるくたずねたくらいの声におもえたのに、彼女は屠殺されるのを知った子ブタみたいにビクつく。
「なんで、泣いてるの?」
 唇や舌をゆっくりとうごかそうと意識しながら、またといかけてみる。ミランダは鼻水をすすりながら、アタシをにらんでくる。泣きやんだかわりになにもいわない。風が窓をなぐりつける音ばかりがひびく。でもそのとき、屁がケツの穴からもれるようなまぬけな音がきこえてきて、すぐにそれが彼女の腹が鳴る音だってきづいたんだった。ミランダのまっかに染まった顔がアル中のクソアマじゃなくて熟したイチゴにみえてきて、アタシは彼女のほおを右の手でなでようとするけど、つよく払いのけられる。
 アタシはミランダのためにとりあえずスクランブルエッグとトマトやレタスが入ったサラダをつくって、しなびたパンといっしょにたべさせる。テーブルでむかいあいながら、アタシはミランダのたべる姿をしずかにながめる。かたくなさががにじむクッキリとした眉毛は、アランの眉とそっくりだったし、眉間にきざまれている歳不相応なシワもそうだ。あのクソジジイとは、アタシへの憎しみで共鳴しあってるってわけだった。でも肉づきのいい頬はヤツとは似ても似つかない。小振りのリンゴが2つくっついたような両ほお。たべものを口にふくむとき、プックリとふくらむほっぺた。アタシは彼女が眠っているときにしかそれをさわることができない。
 ミランダはアタシの視線を確認すると、わざと眉間のシワを濃くしながら、自分がおもう最低にマズいものをくった時にうかべるだろう表情を顔にはっつけてくる。敵愾心むきだしなのに、おさなさが先立ってデフォルメされたアニメのキャラみたいな表情になっていて、ただひたすらにかわいかった。その皮膚の裏側にある憎しみが本物だということはイヤというほどわかってるけど。
「アランはどこいったの? かえってないの?」
 アタシはそうたずねる。ミランダの顔にうすい影がかかるのにきづく。
「うるさい。おまえには関係ないじゃん」
「そりゃあんなクソジジイと関係したくもないけど……アンタがあんな泣いてたら、気にせずにいられないから」
「おじいちゃんは"はじしらずの"お前とはちがうから。すぐかえってくるし」
「そんな強がりいって、あんなみじめたらしく泣きわめいたのはだれだよ? アタシがいなかったらオシッコからなにまで全部ブチ撒けてたんじゃないの?」
 その言葉をきっかけにミランダがトマトを顔になげてきた。さけられずモロに右目に当たり、アタシはカッとなって皿を床にブンなげる。そのあとアタシたちはしばらく沈黙のなかで、たがいににらみあう。彼女はこっちの言動に萎縮することもなく、するどい眼光でアタシの頸動脈にナイフをつきつけてくる。最初はこっちもそれ相応の怒りでもってにらんでたけど、だんだんむなしさのほうがおおきくなってくる。
 バカげてる、完全にバカげてる。
 アタシはたちあがって、そのときミランダはすこしからだを震わせたけどそれだって気にせず、床にちらばったトマトやスクランブルエッグを皿にのせて、それごとゴミ箱のなかにつっこみ、すねのあたりがかゆくなったから右手で掻きながら、きたならしい台所で顔をあらう。うしろからミランダがきて、執拗に掻いたばかりのすねを蹴ってきたけど、アタシは気にしなかった。下唇をかみながら、気にせずにいようとした。
 そのとき、ある音が騒々しくひびく。玄関のドアが乱暴にひらかれる音。
「おじいちゃん! おじいちゃん!」
 ミランダはアタシのすねなんかどうでもよくなって、玄関へとかけだしていった。顔をあらうのをやめて、アタシはなんとなくちかくにあったビール瓶を手につかむ。
とおくから何度も何度もおじいちゃん、おじいちゃんとミランダの声が聞こえてくる。それがちかづくごとに声はおおきくなり、悲壮感がましていく。そしてリビングに入ってきたアランの顔は地獄の悪魔そのものにみえる。
ペンキが毛穴からほとばしっているような鮮烈な赤み。ひとみも血に染まり歯茎もむきだし。いつしかヤツの面はウィッグを被った勃起中のペニスにも見えてくる。アランは台所の戸棚という戸棚全部をブチひらいて、シンクにおいてある食器の山を床にブチ撒けて、嵐のようないきおいで台所にあるすべてを破壊していく。
 酒はどこだよ、酒はってたぶんそんな言葉をわめきちらしてたけど、正確には判別不可能なくらい言葉の数々はビリビリにやぶれてた。ミランダは廊下のあたりで、かわいそうなくらいからだをビクつかせている。アタシはまわりでおこる大破壊をさめた態度でみてる。破片がこっちにとんでくるのもきにせずにいる。そのうちアランはアタシが持ってた瓶をひったくって、大口あけてビールをそそぎこもうとするけど、そんなものはいってるわけないから、ただただヤツの姿は無様で、ちいさなころにみたZ級映画にでてくるつぎはぎだらけのチュパカブラみたいにみえる。
 ビールなんかはいってないとわかると、アランはビンをむかいの壁にブンなげる。破片がギラギラととびちる。そしてアタシのほうにつめよって呪詛をまきちらす。不感症をきどりながら、携帯で彼女の顔面を撮影してネットに拡散したいなんて冗談を頭にうかべようとしたけど、じっさいアタシは恐怖をかんじていた。いまにも爆発しそうなほど赤く染まり、ふくれあがったアランの顔。アタシのはだのあちらこちらにツバがとび、鼻には粘膜をくさらせるくらいにキツい酒の悪臭がただよってくる。年をとっているとはいえ、その迫力は鬼気迫るものがあった。
 こわかった。でもその圧力以上に、アタシは将来このクソジジイと同類の人間になるんじゃないかって恐怖があったんだった。この世で一番憎んでいる人間にみもこころも同化してしまうんじゃないかって恐怖。でも表情筋がすこしでもうごけばクソジジイにそれを勘づかれる気がして、必死になって感情をおしころす。そしてアランは罵詈雑言をはきちらしながら平手打ちをかましてきた。薄氷が砕け散るようなひびき、自分のほおからそんな音がでるなんてしんじられないでいると、熱をおびた痛みがこみあげてくる。アタシはそれでも無表情のままでいる。それがきにいらずにまた平手打ち、平手打ち、平手打ち、平手打ち……
 アタシは爪をなでる。シャヒーダがぬってくれた水色の感覚をあじわう。でもその手がかすかにふるえはじめているのに自分でもきづく。
はやくおわってくれ、はやくおわってくれ。
 何度も何度もその言葉をこころでくりかえすうち、いい加減ウンザリしたらしいアランがリビングからでていこうとする。アタシはホッと息をつくんだけど、ミランダがヤツにすがりつく姿をみて一瞬でこころがひえた。
 おじいちゃん! おじいちゃん!
 バカのひとつおぼえみたいな叫び。ミランダは泣きながらアランの服をひっぱりつづける。クソジジイはわずらわしげにうめいて、彼女をつきはなそうとするけど、ミランダは絶対にはなれようとしない。だからクソジジイはミランダの頭を真上からブンなぐって、ちいさなからだに一発蹴りをいれた。彼女の倒れるさきにはガラスの破片が、砂粒のように敷きつめられていた。

 やすらかな寝顔、でも頭は包帯でグルグルまきにされてミイラみたいになってる。彼女はあれからおきあがってくれない。傷はあさいって医者はいってたけど、それを信じることができない。ミランダとはぎゃくにアタシはあれから一睡もしていなかった。ねむることなんか無理だった。心臓が不安にわしづかみにされて、胃には絶望感がよどむ。トイレにいって吐こうとしたけど、ねばった唾液がでるばかりで胃にたまった汚物はでてきやしない。だからアタシはミランダのかたわらで、彼女がおきるのをずっとまってる。
 横にはイラつきまじりに足をゆらしつづけるクソジジイ。なんで自分がこんな面倒臭い事態にまきこまれなくちゃいけない?ってツラをうかべてる。そして何回も外へ煙草を吸いにいっては席にもどってくるのをくりかえす。そしてクソジジイの老人臭がどんどんキツくなっていくのをかんじた。ヤツの横にずっとすわっているのは最悪の経験だった。
 あるとき、アタシはトイレにいく。おしっこして、ブルッとからだをふるわせて、念入りに手をあらって、すこしずつツヤをうしなっていく水色を名残惜しくおもいながら、病室へともどる。部屋にちかづく声がきこえてくる。そのうち悲鳴にも似たさけびがどんどんおおきくなっていく。病室をのぞくと、クソジジイが無様な顔面をさらしながらミランダを抱いているのがみえた。目からはなまぬるい水を、鼻からはどろついた粘液をたれながしながらクソジジイが泣きじゃくってるのがみえた。人は泣きわめくとき、なんで酒に酔ったときとおなじように顔があんなに真っ赤になるんだろうか。ほかのヤツの場合がどうだかは知らないけど、あのクソジジイがどうしてそうなるかは分かる。自分に酔ってるからだ。
 どこにそれを隠してたかもさだかじゃない、色とりどりの謝罪の言葉をクソジジイはならびたてる。その姿は正に往年の演技派俳優にふさわしい風格だ。たぶん自分のことをヘンリー・フォンダだかモンゴメリー・クリフトだかにかさねあわせてるって風な姿。いまクソジジイは舞台のまんなかで一世一大の演技をくりひろげてる。自分のよわさで最愛の孫娘を傷つけたゆるされざる祖父、天にまします神へ赦しを乞う愚かなおじいさま。お涙ちょうだいの演技の数々は、はたからみればクソッたれ以外の何物でもなかったけど、すくなくとも二人にとってはちがった。
 みじめな姿をさらす祖父。その背中にミランダはぎこちなく手をまわして、そして堰をきったように号泣しはじめる。そしてカタルシスがおとずれ、物語はハッピーエンドにおわるというわけだ。
 こころあたたまる洗脳風景。何回もみてきたし、最初のころはアタシの手で滅茶苦茶にそれを破壊してきた。でもクソジジイはそれをアドリブでのりきり、魅力的な物語をつくりあげてきた。2人の間の愛は苦難をへてより強固なものとなり、アタシにたいする憎しみはよりふかいものとなる。アタシはそれがたえられなくなって、いつしか彼女たちの物語をただ端からみつめるだけになった。ただ圧倒的な無力感がある。
 演技をひととおり終えたあと、クソジジイは涙をぬぐいながら病室をでていく。そのとき一瞬だけアタシを見たけど、ヤツはなにもいわなかった。病室にはいって席にすわる。どうしようか迷ったすえに、アタシはベッドによこたわるミランダにちかづこうとしたけど、彼女は死ねっていった。それでもほおだけでもなでたくて手を差しのべて、ミランダに振りはらわれそうになる。でもそうされるってわかってたから、振りはらおうとする手を逆につかんでやった。彼女はながくのびた親指の爪をアタシの皮膚につきさしてくる。指はグリグリとうごいて、どんどんくいこんで奥の骨までいたくなる。でもアタシははなさない、ずっとにぎりつづける。その時間は永遠にもかんじられたけど、あるときミランダは抵抗するのをやめてアタシにさわられるがままになった。ちいさな手、しろくてほそくてやわらかな手。ずっと、ずっと触っていたい。でもその手はすぐにふるえはじめたんだった。
 席にすわりなおして、ミランダのかたわらで時間をすごす。いきなり彼女がアタシにとびついてきてビックリしたけど、それが夢だったってすぐにきづいた。そのあともミランダが猫のマネをしてアタシをわらわせてくれたとおもったら夢で、ミランダがおきあがってトイレにいきたいってアタシの手をひいたかとおもえばそれもまた夢で、夢と現実が奇妙にまざりあう時間がしばらくつづいた。目の前にはあんなにしあわせな風景がうつしだされるのに、それに手をのばした瞬間すぐにけしとんでしまう。アタシはあの幸福感がまやかしだってきづいていながら、何度もねむってはつかのまの幸福にひたり、そしてにがい幻滅をあじわうことをくりかえした。夢の中にいるミランダは目まぐるしく表情をかえながら、学校での出来事をツバなんかとばしながらアタシにかたってくれて、夜の闇のなかに化け物がいるってアタシにだきついてくれて、うすい紙にクレヨンで彼女とアタシが晴れた町をあるいてる姿をかいてくれて、もうあのクソジジイなんかきらいってアタシに泣きついてくれる。
 でも、めざめるとミランダの青白い寝顔だけがそこにある。だからアタシはねむる。多分これがヤクにハマる感覚なんだって思った。町の路地裏でヨダレ垂らしてくたばってるアタシと同い年くらいのヤツらは、この感覚のなかで死んでってるんだっておもった。アタシも死にたかった。でもそのまえにあじわえるだけ幸福をむさぼってから死にたくて、ねむりつづけて、そのうち夢もなにもかもすべてがきえた。

 仕事があるから、アタシはこの病室をでなくちゃいけなくなる。両手をポケットにつっこんでドアまでいって、もういちどだけミランダのほうをふりかえる。彼女はふやけた寝顔をうかべて、クソアマがどっかいってくれてよかった……って安堵しているみたいだった。
 白色灯の点滅する廊下、光と闇が蛾のはばたきみたいにまたたく不気味な空間。
 アタシはナイフの鞘をなでながら、あゆみをすすめる。まえをとおりがかった病室からは老人のうめきごえがきこえてきて、それに気をとられてたらあやうく床のゲロをふみそうになる。鼻にとどくのは薬品とホコリのまざったにおい、ガラス片でできたヤスリで粘膜をけずられるような気分になる。
 エレベーターをまっていると、ミランダよりもっとちいさな少女をつれた女性がきて、アタシの横にならぶ。エレベーターはこない。少女は待つのにあきて母親の手をふりはらい、アタシたちのまわりをおぼつかないあしどりでグルグルとまわる。ベッタベッタとへんな足音がひびくなかで、女性はこっちをむいて居心地わるそうな笑顔をうかべる。彼女が娘をとめようとしているとエレベーターがきた。
ドアがしまって下にいくと思ったら、一回おおきくゆれてとまってしまった。無性にイラついてドアを軽くける。
「いつもこんなですから、すぐうごきますよ」
 アタシをみかねてなのか、女性がそういった。うごかないあいだ、理由もなく一階のボタンを連打する。そうしたら少女がこっちにやってきて、ボタンを指さしてくる。アタシは彼女をボタンが押せるところまでだきあげると、少女はくるったように一階ボタンをおしまくってわらった。そしてまたおおきくゆれたかとおもうと、エレベーターがうごきだす。速度はアホみたいににぶい。少女は母親のもとにもどっていき、かとおもうと大声で歌をうたいはじめる。ミランダもみてる教育番組の歌で、カバとアリクイがかけっこをして最後には土星で宇宙人と友達になるって歌だった。母親もいっしょにうたいだすんだけど、エレベーターの揺れがいいかんじで、うたのリズムをとってくれている。アタシもちいさな声でくちずさんでしまって、だけどそのあいだもナイフでこの二人を滅多刺しにしてブチ殺す妄想が頭にうかんで消すことができない。
 エレベーターはやっと一階にたどりつく。少女がまっさきに走っていって母親がそれをおいかけていく。アタシはいつもの歩調ですすんでたけど、突然母親が床にうずくまったかとおもうと、鼓膜をひきさくほどおおきな声でなきはじめた。ふりかえった少女はしばらく無表情のまま棒立ちでいて、それからおしりを掻きながらよろよろと母親のもとにちかづいていく。病院のスタッフたちがあつまってくる。でもアタシはなにも関係ないという風をよそおって、手のふるえをおさえながら廊下をあるき、病院をでていく。
 パブにはアランがいた。建設現場の作業員たちはバカわらいをさらしながら、ヤツの口にビールをブチこみまくっていた。老いの茶色にぬりつぶされた首の薄皮。ビールをガブ飲みするたびに、そのしたでは喉仏と血管が誕生寸前のエイリアンみたいに脈打っている。でもそそぎこまれるビールを全部のみほすなんか無理で、口の端からすこしずつ滴があふれていくかとおもうと、こわれかけの噴水さながらビールがぶっとんで、空中で爆発して、まわりには琥珀色の雨がふる。すると男たちは拍手喝采で、店内は異常な高揚感につつまれる。
 アランは全身ビールまみれにして、満更でもないって顔でまわりのヤツらに笑顔をむける。そしてまたヤツの口にビールがそそぎこまれてビールが空中で爆発する、そのくりかえし。アタシは呆然と立ちつくしてるしかなかった。でも何度目かの爆発のあと、アランのほうがこっちにきづく。夢心地な笑みをうかべて、千鳥足でアタシのところにきて、アランは酩酊で骨抜きになった手を植物のツルみたいにまきつけてくる。
「いま、俺は最高の気分だよ……」
 からだにアランのおもみがかかる。それはまぎれもなくアタシにとっての呪いだった。 
「ここで働いてるって知ってたからよぉ、おまえのおごりで飲んでるんだ。良いだろ?」
 アランはヨロつきながらうしろにふりむき、アタシの胸によりかかりながら、
「今日はこのクソビッチさまが全部おごってくれるってさ!」
 って最高に陽気な気分でさけんで、ムサい男たちが野太い声で快哉の声をあげる。その轟音のなかでアランはまたこっちをむいて、アタシの胸に顔をうずめたとおもったら、尻をもみしだいてきて、最後にこんなこといってくる。
「おまえ、こういうのすきなんだろ?」
 そして顔めがけてツバをはいてきた。
だからアタシはルイチェルの右のほおを一発ブンなぐったんだった。最初は妄想のなかのできごとかとおもったけど、その瞬間、なぜだか世界はスローになりはじめて、これが現実のことだってきづく。人差し指に中指、それに薬指の第二関節がアランのほおの肉にくいこむ、その感触はヘドロにこぶしをつっこむみたいなイヤな感触。でもいつしか指がそのおくにあるアゴの骨にまでとどく。そしてゆっくり、ゆっくりとめりこんでいき、それと同時にアタシの骨に衝撃がつたわってくる。音の波が骨にしみるような衝撃がだ。ゾクゾクするような快感とおぞましいくらいの吐き気がこころの奥底からわきあがってくる。アタシは人生ではじめて人をなぐったんだった。
 アランは状況がよくのみこめないって顔で床にたおれる。左手でからだをささえながら、右手でなぐられた部分をおさえてるクソジジイ、その姿は最高にみじめだった。アタシは馬乗りになってもう一回、こんどは親指をグッとにぎりながらブンなぐった。こぶしはさっきよりもすこし上をとらえて、最初からモロに拳骨と頬骨が激突する。そのとき激痛がはぜたかとおもうと、電撃みたいに腕全体をかけぬけた。脂肪の痙攣、筋肉の緊張、骨の断末魔。でもアタシはアランの唇からビールじゃなくて、赤黒い血が出てくるのをみた。その色が脳髄をそめて、右腕に電気信号をおくってくる。
 ブンなぐれ! ブンなぐれ! クソジジイの顔面が原形をなくすまでブンなぐりつづけろ!
 アタシはブンなぐりつづけた。腕だけじゃなく腰の筋肉までうねるのをかんじながら、吐き気をおしつぶすほどの怒りと快感のなかで、アランを執拗になぐってなぐってなぐりつづけた。拳骨が砕け散るまで、筋肉がつかいものにならなくなるまで、ずっとブンなぐってやるっておもった。ブンなぐって、ブンなぐって、ブンなぐって、アタシの骨がアランの骨にくいこんで、ブンなぐってブンなぐってブンなぐる。アランの顔は赤いペンキを頭からかぶったみたいで、アタシが右ばっかりなぐってたからそこだけ紫色に膨張していて、口の端からはポコポコと気泡がうかんできていた。
 怒りの激熱にさらされて、とうとうそのときが来たっておもった。このクソアマの息の根をアタシの手でとめてやるってときが。
 アタシはポケットからおりたたみナイフをとりだして、刃をだす。アランは血をのみながら、気味わるいうめき声をもらす。銀色のひらめきがアタシをつきうごかす。
 これから頸動脈にナイフをブッ刺しておまえをブチ殺してやる。まず最初はおまえからだよ。それからアタシをこんな世界にうみやがった母親と父親をブチ殺して、それから、やっと、やっとアタシの人生はほんとうの意味ではじまるんだ。まずはおまえからだ。頸動脈から血液ブチ撒けて死にさらすおまえの姿をみとどけてやるよ、クソッタレ。ブチ殺してやるブチ殺してやるブチ殺してやるブチ殺してやるブチ殺してやるブチ殺してやるブチ殺してやる。
 でも、鞘をおさえる右の親指に、アタシが見つけたのは爪をそめる水色だった。かすれて、血にまみれて、それでもまだ輝きをうしなっていない水色がそこにあった。
その瞬間、怒りがスッと掻ききえるのをかんじた。怒りにぬりつぶされた世界が元の形をとりもどしていった。
 まわりを見わたすと男どもはただただバカ面下げてアタシたちのことをみてた。顔面蒼白で、アルコールは全部ふきとんでたみたいだった。そのなかにカーキのボロい帽子をかぶったあの男がいた。アタシはそいつのところまで行って、眼球をブッ刺そうとする。男はなさけない声をあげながらあとずさって、あげくに尻餅までついてた。
「おまえが拳を向けるときのアタシの気持ちがわかったか、クソ野郎」
 アタシはおりたたんだナイフを男の鼻の穴にねじこみ、アランのダウンをつかんでひきずって、パブをでていく。
 地べたにケツをこすりつけながら、気泡と血ヘドを交互にはきながら、アランは昔のことをはなしつづけてた。"Honey Park"って移動遊園地でアタシといっしょにメリーゴーランドにのったときのこと、どしゃぶりの雨のなかで家までいっしょに走って帰ったこと、アタシを足の上にのせて手をつなぎながらトニー・べネットの"Who Can I Turn To"にあわせておどったこと……クソジジイはまたオスカー俳優気取りでそんな思い出をかたるけど、もはやB級ゾンビ映画の登場人物が死ぬまえにお涙ちょうだいのセリフを吐くようなくだらなさだった。
「そんなのとっくにわすれたよ」
 アタシがはきすてると、アランは泣きはじめる。
 アタシは病院につくと、クソジジイをおぶってからエレベーターにのる。密室に血のにおいが充満して最悪だったけど、空気をよんだエレベーターは事故ることもなく上まであがっていった。ミランダの病室にはいり、すすりなくアランを椅子になげすてる。物音でめざめたミランダは、ヤツの姿をみるとすぐにふるえだした。
「アタシが全部やったんだよ。こいつの顔を何回もブンなぐったんだ。そうしたらこうなった。ほら、アタシの右手も真っ赤」
 ミランダは悲鳴をあげながら、枕や時計をこっちになげてくる。全部あたったけど特にいたくはない。
「アタシ、この町をでていくから。このクソアマといたら、この町にいたらアタシがアタシがなくなってく。アタシのこころが、アタシのからだが、アタシのものじゃなくなっていく。だからもうこの町にはいられない」
 親指の爪をこすりながら、そんな言葉をしぼりだしていく。
「アラン、アタシはアンタをまだ殺さないってきめた。アンタはアタシのじいちゃん以上に、ミランダのじいちゃんでもあるから。ミランダはアンタを、アンタを愛してるらしいから。でもいつかアタシはこの町にもどってくる。まずはクソッタレの母親と父親をブチ殺してからこの町にもどってくる。そのとき、もし……もし、もしアンタがちゃんとこころを入れかえて、あんなクサレ俳優みたいな虐待や洗脳をしないで、酒もすこしずつで良いからとめていって、ミランダをまっとうに育ててくれたら……そのときはアンタを殺さないでやる。でもいまの状況がつづいてたなら、絶対におまえを殺してやる。この世にアタシをうんだこと、この世にお前がうまれたこと、そのすべてを後悔しながら、地獄の苦しみをあじわいながら死なせてやるから覚悟してろ」
 アランの赤毛をわしづかみにして、アタシの顔にうかぶ怒りをみすえさせる。彼女は弱々しく頭を上下にふる。そしてアタシはミランダの方を見る。
「ねえ、ミランダはどうなの? アンタ本当にこのクソジジイを愛してるの? あんな生活でいいとおもってるの? アタシといっしょに来る気はない? きらわれてるのはわかってる。アタシがこのクソジジイを憎むように、アンタがアタシを憎んでるってわかってる。でもいっしょに来てくれるなら、アタシは責任もってミランダをそだてるよ。アンタが大人になるまでずっといっしょにいる。説得力ないかもしれないけど、絶対に約束するから」
 アタシは左手をさしだす。ミランダは顔と左手を交互にみやって、しばらく何もいわずにいた。でも彼女はおそるおそる手をのばしてくる。アタシはそのとき、喜びがこころのおくからこみあげてくるのをおさえられなかった。だからアタシの手にヘアピンがズブリとささったのが、なぜだか全然分からなかった。
「お前がおじいちゃんを殺しにきたら、わたしがおまえを殺してやる! 早くわたしとおじいちゃんの前から消えろ!」
 アタシが痛みにうずくってるとき、ミランダは声のかぎりそうさけんだ。ヘアピンをぬくと穴から血がわいてでてくる。服のそでで傷口をおさえながら、病室からでていくしかなかった。背後からアタシの死をねがうさけびがきこえてくる。その呪詛は背中にいくつも突き刺さり、ドロドロとした汁が皮膚をはいずりまわるのをかんじた。アタシは無力だった、でももうこの町にはいられない。

 ボロボロのアタシをみたとき、シャヒーダの顔は世界の終末を目撃したような表情になる。でもそんなの関係なしにアタシは部屋になだれこんで、たおれこんで、玄関の壁によりかかって、自分の馬鹿らしさにすこしわらう。
 シャヒーダはタオルや水をもって、こっちにきた。
「なにがあったの?」
 血まみれの両手をみて、瞳に涙をためながら彼女はそうたずねるけど、そのときはなにもいえなかった。応急処置をしてもらってから、アタシはバスルームへいく。とびっきりあついシャワーを全身にあびると、からだのなかにうずまく負の感情がすべてとけていくような気がする。すこしおくれてシャヒーダが入ってきて、なにもいわずに、アタシをうしろからだきしめてくれる。
 風呂のなかでアタシたちはからだをちぢこまらせながら、むきあう。シャヒーダが手をのばしてきて、アタシもまた手をのばす。指をからみあわせながら、ゆっくりとお湯のなかへとはいっていく。ここちよいぬくもりにつつまれながら、たがいの指の感触を、手の甲の感触を、産毛の感触を、皮膚の感触を、骨の感触をあじわう。血の呪いにこりかたまっていた手がやさしくほどけていく。ただ声がかれるまで、涙がかれるまでなきつづけた。
 風呂からあがってすぐ、シャヒーダはいろあせたアタシの爪をすぐにうつくしく塗りなおしてくれる。それから彼女は、
「わたしの爪も塗ってくれない?」
って、うっすらと桃色にそまる爪をさしだして、そういうんだった。もちろん最初は拒否したけど、上目遣いでシャヒーダにたのまれたら最終的に承諾するしかなかった。
 爪の表面がとりあえずかわいたあと、アタシははじめての挑戦にうってでることになる。自分の爪すらぬったことのない人間が、ましてひとの爪をぬるなんてさ。様々な色のマニキュアが入ったケースを物色して、ある色をみつける。
「これでいいかな?」
「ああ、アンドレアの髪とおなじ色!」
彼女はアタシがおもったのとまったくおなじことを口にしていて、うれしさとはずかしさでからだがむずがゆくなる。
 ビンをとってフタをあけて、おそるおそるマニキュアをすくってみる。ハケ全体をおおうくらいとったら、シャヒーダが笑う。
「なんだよ! はじめてだからなにもわかんないんだよ、アタシは!」
「とりあえずそれは……おおすぎ」
「コツとかおしえてよ」
「量はハケの片面にはんぶんくらいで十分。容器の先端にハケをおしつけて、扇形にひろげていきながら調整してくの」
 そういって彼女はハケを器用にしごいていく。
「ちゃんと手とり足とりおしえてあげるから安心してよ。それに、べつにグチャグチャになったって大丈夫だから。むしろグチャグチャにされたいから」
 そういって、シャヒーダは意地悪な笑顔をうかべる。
 包帯のまかれた左手で彼女の手をにぎっておさえながら、ふるえる右手でハケをもっていく。いままでにない緊張感、口のなかが妙にねばった唾液でいっぱいになる。まずは親指をぬろうとおもって、ハケを爪の根本あたりにおこうとするけど早速爪をはみだして肌にベチョっとマニキュアがつく。その瞬間にほんとうアタシはクソッたれな人間だって気になってしまう。
「そんな世界がおわるみたいな顔しないでよ。肌についたって、あとで簡単に落とせるからさ」
 彼女はのこった左手でほっぺたをなでてくれる。それにはげまされながら、ふるえる手でネイルを先端までひいていく。ふとい線なのにふるえが無惨に反映されていてイヤになる。だけど難関はこれからだった。一息ついて呼吸をととのえ、左のかどにハケをおいてみる。そして可能なかぎりゆっくりと動かしてみるけど、問答無用で皮膚にマニキュアがくっついていく。ひとつぬりおわったあとには、アタシの自尊心がズタズタになってる。こんな簡単なこともマトモにできやしない、いままでどんな生き方してたんだってかんじ。
 でもシャヒーダはさっきよりもやさしく、子猫をなでるような手つきでアタシをはげます。そしておでこにかるくキスしてくれたあとにうかべるふっくらした笑顔に、アタシはもうちょっと頑張ってみようって気になる。だけど人差し指はマニキュアが余裕ではみでるのはもちろん、ぬったあとの色ムラが気になり、何回も厚塗りしたせいで不恰好になってしまう。ひとつとばして薬指はシャヒーダのアドバイスを聞いて筆数をなるべくすくなくしてみるけど、そうすると親指や人差し指とのかねあいが気になってムカムカする。小指にいたっては無駄にマニキュアをつけたせいか、よれて不気味なネイルができあがる。自尊心はマイナスに突入して、表情筋がセメントでぬりかためられていくような気分。
「人差し指だして」
 シャヒーダがそういったから、アタシは左の指をさしだしてみると、彼女はそれを唇でくわえてきたんだった。指は唾液におかされて、皮膚を舌でチロチロとなめられる。性器に顔をうずめられるくらいムラムラがわきあがってきて、指がひきだされたときに唇からねばった糸がのびているのをみたら、もう下半身が爆発しそうになった。でもそんなアタシを尻目に、シャヒーダはぬれた指を小指の爪へともっていく。
「こうやって指でゆっくりならしていけば、よれても大丈夫。あとでトップコート塗ればごまかせるし」
 その後もウッドスティックやコットンではみだしたマニキュアを落としていったり、アタシにやり方を解説しながらなれた手つきで爪をキレイにしていく。
「失敗すればいいよ、何回だって何十回だって何百回だって。やりなおせるんだから、いつだってさ」
 そしてアタシはもういっぽうの手にうつる。ふるえはすこしおさまっている。意識をハケの先端に集中してまず親指だ。爪の根本からすこしはなれた場所にゆっくりとハケをおいて、爪のさきまで一本線をぬりこむ。そして根本にそって、マニキュアを左にのばしていく。すこし肌についたけど、とんでくる落胆の刃は大丈夫って言葉ではねかえしていく。それから厚塗りするんじゃなく、おおくマニキュアがついている場所をのばすような感覚で調整していく。そしてできたネイル、完璧とはいいがたいけどさっきのに比べれば全然いいじゃないかっておもえたりする。
 人差し指に薬指、小指。途中でよれたりしたけどシャヒーダのいったとおり、指でならしていくと案外うまくなじんでくれる。はりつめていた緊張はゆっくりとほどけ、うごきもかろやかになっていってる気がしたし、アタシはこのときはじめてシャヒーダの指を本当の意味でみている気がした。褐色の肌はにぶくかがやいてて、そのうつくしい彩りをまとった指はやわらかなやさしさもやどしている。
 そして最後、アタシは二本の中指へたどりつく。彼女が一番大事にしている指。動脈からほとばしる鮮血みたいないつもの色をぬろうかってアタシはきいてみるけど、シャヒーダは二本ともオレンジにぬってほしいってそう言う。ハケをもつ手がまたふるえはじめるけど、これはさっきとはちがう、彼女をきずつけてしまうんじゃないかっておそれてるからじゃない、彼女にふれることができてうれしいから、ふるえてるんだ。ハケを爪にのせて色をひいていく、シャヒーダがうつくしい橙にそまっていく、アタシの人生があたらしい色にそまっていく。
 アタシたちは手をひろげて、十個の青いかがやきとオレンジのかがやきをならべていく。ほおがゆるむのをおさえきれなくて、でもシャヒーダの方をみたら、彼女もおなじような顔をしてたんだった。そしてアタシたちはシャヒーダのかわききっていないマニキュアがはげないように、本当にゆっくりと指をからめわせていく。この指にずっとふれられながら、この指にずっとふれながら、いきていたいっておもった。だからあのときいえなかった言葉を口にしてみる。
 アタシといっしょにこの町をでていこう。

【了】

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