vol.1 漆と高分子化学の入り口

漆と言えば日本漆器でよく使われる.塗料としてはメジャーではなく,ほぼ日本でしか精製されていない.

ポリウレタンやラッカー,アクリル,エポキシなど,様々な樹脂塗料が存在するが,自然の中で採取できる塗料は数少ない.漆は生漆に含まれるゴミを取り除くだけで塗料として活用できる.

しかし,塗装の条件は厳しい.温度25度,湿度80%で最も早く硬化が進む.それでも指でも触れる乾燥までに10時間はかかる.乾燥させるのに室(ムロ)と呼ばれる低温多湿な環境を作らなければ漆は硬化せず,塗料としての役割を果たさない.

僕は情報メディア(3DCGや音楽音響)などが専門分野なのにどういうわけか漆を研究することになった.漆は分野で言うならば,高分子化学と材料力学の複合体になる.

漆の素晴らしいことは,自然界に存在する中で複雑性極まりない性質を持つことにある.アクリルやポリウレタンのような合成樹脂とは違い,シンプルで非常に美しい構造を持つ.

上の図は,漆の原料となるウルシオール(Urushiol)と呼ばれる物質の構造式になる.六角形はベンゼン環であり,2つのOH(酸素と水素)が結びついている.このOHをヒドロキシ基と呼び,ベンゼン環と2つのヒドロキシ基をあわせてカテコールという物質になる.

カテコールは様々な物質の元になっている.代表的には神経伝達物質のドーパミンやアドレナリン,お茶に含まれるカテキンがカテコールに頼っている.また,カテコールは様々な生命体の基礎になる物質になっている.

2つのヒドロキシ基の隣にRという文字がある.元素周期表を見てもRはない.Rというのは,高分子化学で側鎖を省略するために記載される.側鎖は基本的にアルキル基と呼ばれる物質のことを指す.

ウルシオールはカテコールをベースにアルキル基を側鎖に持っている.アルキル基はアルキル基同士で仲良くしている.硬化していない漆の段階では,アルキル基がぐちゃぐちゃに引っ付いているおかげで液体になっている.この段階ではウルシオール同士は結合せず,アルキル基と仲良く宙に浮いている状態になっている.

液体の状態から固体の状態に変化させるのがラッカーゼ酵素になる.ラッカーゼが働くことでウルシオール同士が結合して安定した固体に変化する.

ウルシオールはラッカーゼ酵素が働くことで硬化する.ウルシオール同士がくっつく現象は非常に興味深く美しくもある.これらの反応があることで塗料としての漆が成り立つという事実だけでも,自然界の壮大さ,不思議さが垣間見れる.

例えば,漆は硬いだけでなく,表面がツヤツヤしている.ツヤツヤするには,びっしりとウルシオールが結合せねばならない.ツヤがないのは表面が凸凹しているせいになる.ウルシオールは紫外線で反応し,劣化分解する性質がある.ツヤがないのは劣化した証拠でもある.これではまるで侘び寂びではないか?

世界は自然を中心に動いている.偶然,人間の感性と科学的な美しさが結びついた先が漆というのは非常に興味深い.探求することに対する面白みが漆には含まれている

漆が様々な要因が重なって人を魅了する.僕は漆の魅了に取り憑かれてしまったので,しばらく漆について考えをまとめるがてら,投稿を続けようと思う.

普段は研究していて生活が厳しいのでサポートしてくれる方がいるととても嬉しいです.生活的な余裕が出ると神が僕の脳に落書きを残してくれるようになります.