池の水を抜く例の番組について

 今さら説明は不要かもしれないが『緊急SOS!池の水ぜんぶ抜く大作戦』というのはテレビ東京の人気特番シリーズで、日本全国の池沼(ネットスラングではない)の水を抜いて住んでいる生物を捕獲して分類し、在来種のみを元の環境へ戻すという活動を番組化したものだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%8A%E6%80%A5SOS!%E6%B1%A0%E3%81%AE%E6%B0%B4%E3%81%9C%E3%82%93%E3%81%B6%E6%8A%9C%E3%81%8F%E5%A4%A7%E4%BD%9C%E6%88%A6

 人気シリーズなだけに、お好きな方は多いだろう。そういった方にとっては、この記事はあまり好ましくない内容になると思う。私が今までこの番組を最初から最後まで通して見たのはたった1回だけなのだがそのときに感じたモヤモヤした気持ちをただ綴っていくだけの記事なのですみません。でも始めます。
 あと差別問題とがっつりリンクさせたりとかそういうのはしません。


 まずいちばん気になったのが、捕獲した外来種をその後どう処理したのかが一切明かされない点だ。料理して食べたよ(鉄腕DASHではそうしてた)とか、サンプルとして研究機関にあずけたよとか、今後は完全に隔離された施設で飼育するよとか、そういったふうに扱っているのならば番組内で言及しないはずはないと思うので、たぶん殺処分されたんだろうなと推定している。

 殺処分すること自体を問題視しているわけではない。集めた外来種を踏みつけたりザクザク刺したり干からびるまで放置したり焼いたり埋めたり袋に詰めて生ゴミ回収業者に引き渡したりしてる映像をお茶の間に流すのはちょっと……という事情もわかる。しかし、外来種は危険! 誰かが排除しなくては! という勧善懲悪的なストーリー上、悪者(外来種)が最終的にどうなったかというのはかなり重要な点なのにそこを隠されてしまうと、クリフハンガー的なモヤモヤはどうしたって残るではないか。

 だが番組はどんどん進行していく。出演者たちが現地を去ろうとする段になると地元の住人(とくに子どもたち)が感謝と熱狂で見送るシーンが挟まれた。それへ手を振って応える出演者たちはまるでヒーローのようだ。私はそこで、少しだけ底冷えのする気分を味わった。

「仲間はずれを探そう」というような課題を子どもの頃、やった覚えはないだろうか。陸の動物のイラストが並んでいる中に一つだけ魚の絵が混じっていたりするアレである。魚を探しだした子はよくできましたと褒められる。
 魚はどうなったのかな、どんな気持ちなのかな、どうして仲間はずれを探さなきゃいけないのかな、そんなことを幼い私はたまに思ってたのだがわざわざ先生に質問したりはしなかったので、私の他にも同じように感じている子がいたかどうかはわからずただなんとなく不安だった、そのときの気分を久しぶりに思い出した。


 次に気になったのは、外来種と在来種の線引きってちゃんとあるのかなという点だ。気になって検索してみた結果、以下のサイトが見つかった。

https://lowch.com/archives/13253

(コピペすいません)
在来種:従来からその地域に棲息・生育する動物・植物の品種・系統を指す分類群
外来種:元々その地域に棲息・生育しておらず、人為的に持ち込まれた動物・植物の品種・系統を指す分類群

 らしいのだが、「従来から」「元々」というのはひどく曖昧な物言いだ。厳密に「はい、現時点をもって在来種としてのエントリーは終了でーす」というようなジャッジがどこかの時代で行われたわけではなく、日本に根づいた経緯が不明だったりするケースもあり、在来種と外来種の区分けはそこまで明確ではないのだそうだ。

 現に、アメリカザリガニやウシガエルは外来種とされているのだが私が子供の頃、1980年代にはもうすでに彼らは田んぼの常連と化していて、ザリガニに関しては「なんでこいつ名前にアメリカって付いてんだろうな」と違和感があったし、ウシガエルに関してはその特徴的な鳴き声は私にとって風物詩的なものとなっていてそれにすっかり馴染んでいたので、外来種なんだということを知ったときはとても驚いたものだ。アメリカザリガニもウシガエルも日本に住み着いた経緯はどうあれ、私的には従来から元々から身近にいた自然の一部で今も顔なじみとしか思えないでいる。

 このあやふやな時代区分法以外に、人為的に持ち込まれた種であるか否かという判定基準もある。区分けする側としてはこれぞ決め手、黄門様の印籠級の有無を言わせぬ拠り所なのだろうが、私はそこのところもどうもちょっとよくわからない。

 人間という存在を自然に含めるのかそうじゃないのかという話だ。自然物というのは人の手が加えられていないもののことだが、なんでそこまで自然と人間を切り分けたがるのかがそもそも私にはわからない。渡り鳥の羽毛にくっついてきた種子が日本の土に落ちて芽吹いて繁茂するのと、渡来した外国人の靴の溝に挟まってた種子が日本の土に落ちて芽吹いて繁茂するのとでは、いったい何が違うというのだろうと思ってしまうのだ。

 明確な意図があるかないかだろうか。ある特定の生物を食用や害虫駆除用にするつもりで意識的に持ち込んだのかそうではないのか。でも、大型船のバラスト水と一緒に運ばれてきた水生生物が日本近海で繁殖すればそいつらもまた外来種として見なされるから、どうもそういうわけではないようだ。これは難しすぎる。

 人間が介在したかしてないか。人間の経済活動によるものか否か。このへんがポイントなんだろうか。でも人間だって地球上の生物の一種であり、単なる超賢い無毛の猿の子孫にすぎないと考えれば、人間の周遊も経済活動も大きな目で見れば自然の営みの一環なんだというふうにこじつけられはしないだろうかと昔から思っていた。

 それに自然というものは本来変わっていくものだ。寿命の短い一個人からしたら自然は泰然自若としていて揺るぎない存在のように思えるしそうであってほしくもあるが、それぞれの生物種も生態系も実は常に変化し続けている。そもそも生きるということ自体、変化することなのだ。成長し老いるし、細胞は(例外的な部位は除いて)どんどん入れ替わっていく。変化しないやつはたいがい生き物ではない。

 自然の一部である人間が自然の変化を食い止めようとする。多くの場合人間が自然界にもたらす変化は環境破壊的なものなので自然は保全すべきという意識があるのだろう。オニヒトデがサンゴを死滅させちゃったりイナゴの大群が稲を食い尽くしたり他の種だって実は結構元気いっぱいに暴れまわっているのだがここでもやっぱり人と人以外の生物の営みは分けて考えられている。
 たとえば増えすぎた生物が餌を食い尽くしたらその生物の多くは死んでやがてその種と餌は適正な個体数に戻る。だが人間はそうではない。そう簡単に環境破壊のしっぺ返しは喰らわない。ズルい。そのへんからくる後ろめたさみたいなものも関係しているんだろうか。


 話がずれたが、ここで新たに思ったことがある。結局はすべてやはり自然の営みなのではないか。人間が見慣れない生物をとっ捕まえてなるべく環境を保全しようとするのも含めて。人間はたまにそういうことをする変わった種なのだという、ただ単にそれだけのことなのかもしれない。
 しかしそれならべつに池の水を抜く例の番組を槍玉に挙げる必要はないんじゃないのということになるがせっかく書いたんだしこれも自然の一部である私の営みなので許してほしい。

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