希望の話

 パンドラの箱の伝説は有名すぎるくらいに有名なのでほとんどの方はご存知かと思う。

 開けてはいけないとされていた箱を好奇心から開けてしまった結果、それまでこの世にはなかった災厄や悪意が解き放たれてしまったのだが不幸中の幸い、箱の中にはまだ希望が残っていましたよというもの。
 その話を子供の頃に読むか聞くかして知って以降、はじめはほんの些細なモヤモヤだったなにやらヘンな気持ちは、しだいにはっきりとした疑問へと変わっていった。

Q1.箱を開ける前の世界には悪いものは何もなかったが希望も存在しなかったということなのか?

Q2.希望は今でも箱の中にあるのか? だとしたらそれは、今のこの世界に希望はないという意味なのか?

Q3.そもそも、なぜ様々な悪いものと一緒に希望も封じられていたのか? 希望というのは本当は悪いものなんじゃないのか?


 希望というものについて今まで色々と感じ考えてきた。ときには縋り、ときには憎んだこともある。
 そしてわかったことがある。希望が絶えることなどない。希望は常に心のどこかにあり続けるのだ。良くも悪くも。

 私はホームレスだったことがある。ギリギリ1年に満たないくらいの期間ではあったが、学生時代のある時期、私は住処を失って、トイレや公園で寝泊まりしていた。
 家がない身の上で一番つらいのは冬の寒さだ。パンツからコートまで合わせたら十数枚の衣服を着込んでいても、地べたに横たわればガタガタと体が震えてきて眠れないので寝袋も携帯していた。

 ある冬の夜のこと、事情は忘れたが普段は立ち入らない東京都心部を私は寝床を求めてうろついていた。
 建設中の建物を見つけ、忍び込んで寝ようと思ったら作業中の職人さんがまだいて慌てて逃げたり、24時間営業のコインランドリーの椅子に座ってうとうとしていたらオーナーがやってきて追い出されたり、やっと小さな公園を見つけたのだがなぜか横になろうとするたびに懐中電灯を持った見回りがやってきてあきらめたりした。

 それがホームレス時代で最悪の夜だったわけではないが、かなり散々な晩ではあった。何一つうまくゆかず、金がなくて腹が減ってて、寒さでバカになった嗅覚でもわかるくらいに自分が臭くて、生活道具一式を詰め込んだバッグは重いし、寒いし眠いし、情けないし悲しかった。それでもなぜか歩き続けた。

 行くあてはもちろんなかった。というかもう空腹と寒さと疲労で頭がまともに機能していなくて、自分が今どうなっているのかも、何をしているのかもわからなくなっていた。
 地面だけ見ていた。すると視界の下方から右・左と規則正しく、自分の靴先が交互に出てくる。なにか面白い他人ごとのようでしばらく見ていた。
 すると、すっと目線が移動した。意識した動きではなかったので何ごとだろうと思っていると、私の目は私に無断でキョロキョロと辺りを見回している。
 植え込みの陰、橋の下、ひと気のないビルの地下への階段、神社や寺。人がいなくてあたたかそうな場所を目だけが勝手に探し始めていた。

 これが本能というものなのかと思った。心はとうに疲れてしまって生きることさえほとんどあきらめているのに、体はそんなことお構いなしにただ機械的に生きようとしている。肉体というのはごく単純な生きる仕組みのかたまりなのだと実感した。

 たぶんこの働きは死ぬ瞬間まで続くのだろうと、なぜだかはっきりわかった。状況がどうでも、未来がどうでも、気持ちがどうでも、ただひたすらに肉体は生き続けようとする。

 とても強く無条件に作用し続けるが決して思うに任せない、肉体が持つ生命力というもの。私はこれこそが、希望の正体なのではないかと思っている。


 人の心は翻訳をする。体内と体外で起こっていることを感知して解釈して意味をつけて多少間違ってはいてもとにかくわかりやすいパッケージを見繕って着せる。希望というのはそのようにしてパッケージングされた生命力のことだと私は考えている。

 実は私もそうなのだが、自殺を試みて果たせなかった者はよくこう言う。
「どうしても最後の希望が捨てられなかった。絶望しきれなかった」

 それもそのはずである。生命力のスイッチを意思の力でオフにすることはできないのだから、自殺を遂げるにはどこまでも生きようとする肉体を完全に無視するか更に上回る気力でねじ伏せなくてはならない。死ぬのは大変なのだ。

 それがなんだかはわからないがどんなときにも強く動き続けていて私という存在を未来へと押しやる力。それが希望でありその正体は生命力だ。
 希望にはなんの根拠もない。なぜなら生命力は根拠も理由も意味も必要としないものだからだ。
 希望が与えるものは生の時間だけだ。生命力はアホだから、望ましい生き方などという価値判断とは無縁にただ生きる仕組みを休まず回すだけなのだ。

 希望=生命力は大切な強い力である。掴みどころはないけれどしっかりと人間の生を下支えしてくれている。明日もあさってもたぶん生きていられるだろうと根拠もなしに思えるのは、希望すなわち生命力が仕事をしているからだ。
 しかし便利なものではない。都合よく活用できるような動力源ではないのだ。希望は未来をもたらすものであるが、未来を明るくするものではない。希望だけを頼りにしている人間は、直進しかできない車のようなものなのだ。


 最後に、冒頭の疑問への拙考を記して、本記事の結びとしたいと思う。

Q1.箱を開ける前の世界には悪いものは何もなかったが希望も存在しなかったということなのか?
A1.ルールを守らないとえらいことになるよというただの寓話なので箱とか世界とかの設定面は気にしなくてよし。

Q2.希望は今でも箱の中にあるのか? だとしたらそれは、今のこの世界に希望はないという意味なのか?
A2.希望は生命力のことなので確実にある。しかし人間の手で便利に取り扱えるような代物ではないのだから、在り処のことも気にしなくてよし。

Q3.そもそも、なぜ様々な悪いものと一緒に希望も封じられていたのか? 希望というのは本当は悪いものなんじゃないのか?
A3.前半は物語の都合上のことなので気にしなくてよし。後半、希望とは生命力なので善悪とは無関係。しかし「希望とは幸せをもたらす良いものなのだ」というふうな勘違いをしていると失望する羽目になるので注意。根拠のない希望は失望の素だ。

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