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「京都の風土」智積院・東福寺に権力の痕跡をみる

京都の歴史や今に残る京都の神社仏閣を追っていくと、必ずなんらかの権力にぶち当たります。有名な神社仏閣は、ほとんどがそのときの支配者と密接に結びついているからです。

というのも、近代以前においては「権力を持つことイコールお金を持つこと」だったので、その財力にまかせて自分の権力を都にて権威付けすべく、京都にその痕跡を残そうとしたからです。

そういう意味では、京都という街の文化遺産は、日本の中でも唯一、過去の数多ある権力が、神社仏閣等の形で犬のようにマーキングしたその痕跡ともいえます。

以下、梅原猛の『京都発見』を参考に、そのマーキングの代表例を二つみてみます。

▪️「智積院」

秀吉の痕跡を、家康が抹殺した寺

NHK大河ドラマでとりあげられている徳川家康。秀吉が亡くなった後、家康が権力を握るに至るその狡猾さをこれからどうやって演出するのか、とても楽しみです。

そんな時代を象徴するのが智積院。梅原によれば、智積院は豊臣家の栄華の跡を抹殺するために作られた寺院ではないか、との言。

第一に

家康が、秀吉の侵略によって新義真言宗の拠点「根来寺(和歌山県)」から追い出され、行き場のなかった客方(根来寺の主に関東出身の学問僧)に対し、秀吉を祀った豊国神社の片隅に智積院の地を与えたこと。

→秀吉によって徹底的に殲滅された根来衆の再興=新義真言宗智山派の旗揚げ

第二に

秀吉の初子で、彼が溺愛した鶴松夭折の冥福を祈って造った祥雲禅寺の建物を智積院に与えたこと。

→智積院が保有する国宝、長谷川等伯の障壁画は、秀吉が鶴松のために等伯に描かせた一級の芸術品。

第三に

その建物が灰塵に帰した後に徳川秀忠の娘であり後水尾天皇の女御であった東福門院の御殿が移されたこと。

→秀吉の建てた建物をそのまま再建せずに、家康の孫でもあり、信長の妹お市の孫でもある東福門院の御殿を移築。

このように、秀吉が京都に残した数ある遺産のうちの一つである豊国神社と祥雲禅寺をなきものにせんとしつつ、秀吉が徹底的に排除しようとした新義真言宗を復活させ、自分の痕跡を智積院としてその地に創建させるという、秀吉に対する家康の執念が具現化した寺ともいえます。

そんないわれを持つ智積院ですが、学侶(学問僧)のお寺だから、その実態は学問寺で、宗教民俗学者「五来重」によれば、新義真言宗の祖「覚鑁(1095〜1143)」がはじめた伝法院の伝法会を今も行っている真面目な寺院。

境内をくまなく見学した梅原も

東寺や仁和寺など、他の名刹のように目ぼしい美術工芸品はなく(長谷川等伯の障壁画除き)、この寺はひたすら学問を究める学問寺としての伝統を見事に生き続けるように思われた。

『京都発見7』204頁

と述べています。

*新義真言宗智山派について

空海の真言宗を起点に覚鑁を始祖として誕生した新義真言宗ですが、中でも智山派は関東に成田山新勝寺、川崎大師(金剛山平間寺)、高尾山(高尾山薬王院)を有するなど、お布施の多い寺(=儲かる寺)を大本山として配下におくため、経済的にも相当余裕があるらしい。しかも上述のように学問がメインで贅沢もしないでしょうから、お金も相当貯まりそう。梅原曰く

今の能化(=住職)の宮坂師がおられる智積院の宗務庁は、私の勤めていた京都市立芸術大学の建物。私は移転問題に取り組み、智積院に講演を頼まれたおりに、大学敷地購入を依頼したところ、智積院はすぐに宗会を開いて買収決定。真言宗智山派には成田不動で有名な新勝寺や川崎大師で有名な平間寺があって、お金には不自由しないということだった。

『京都発見7』203頁編

▪️「東福寺」

貴族が武士におもねった寺

臨済宗の東福寺ほど、興味深いマーキングはないのではないかと思います。というのも、摂関家が鎌倉幕府におもねるために、彼らの最も重要だった氏寺の一つ「法性寺」のあった地に創建した寺だからです。

この地にもともとあった天台密教の寺、法性寺(ほっしょうじ)は、宇多天皇&菅原道真との権力闘争に勝利した藤原時平(871〜909)の弟、藤原忠平(880〜949)が924年に建立。1006年には藤原道長(966〜1028)が五大明王を境内に造営し、藤原忠通(1097〜1164)(法性寺入道)の時には、広大な寺域に大伽藍を構え、京洛21ケ寺の1刹に数えられていたらしい。

しかし、以後の兵火により、堂宇は悉く焼失してしまう。

そののち、北条氏の機嫌を取ろうとした藤原家の一派、九条道家(1193〜1252)が、天台宗の法性寺を禅宗の寺「東福寺」に変えてしまったのです(ウィキによると梅原の見解と異なり、当初は天台・真言・禅宗の三宗兼学だったらしいのですが、これは他宗派からの攻撃を回避するための戦略だったらしい)。

ちなみに九条家とは、鎌倉幕府の計略により、藤原北家が分家した五摂家のうちの一つ(近衛家・一条家・九条家・鷹司家・二条家)。

なお鎌倉時代に分裂した天皇の二系統「持明院統」「大覚寺統」も、鎌倉幕府による天皇家の力を弱めるための計略の一つ。

九条道家は、奈良の東大寺の「」、興福寺の「」をいただいて東福寺と命名。禅僧の円爾を迎え入れるなど、禅宗を尊崇する北条家に近づきます。

そしてついに自分の息子「九条頼経」を征夷大将軍(第四代鎌倉殿)にすることに成功。その後も息子の将軍即位を契機に北条家に食い込んで、摂関家の権力を維持・拡大しようと目論んだものの、最後には頼経の追放と合わせて道家も北条家からそっぽをむかれてしまいます。

そんないわれのある東福寺ですが、今は禅宗、京都五山の一角としてその威容を今に残す。梅原曰く

東福寺の傍につつましく残る尼寺・法性寺で、巨大な天台密教の寺だった法性寺を禅宗・東福寺に変えてまで北条氏の機嫌をとりながら、鎌倉幕府の将軍になった我が子・頼経が追放され、九条家の権威を失墜させた九条道家の無念さを思った。

(『京都発見5』10頁)

このように、ときの権力者が、さまざまな形で京都にその痕跡を残していますが、これも今の権力者、アメリカが京都を原爆投下候補地にしてくれたおかげともいえます。

もしそうでなかったら、京都は太平洋戦争で間違いなく焼夷弾で焼け野原になっていたはずですから。。。

今の京都を私たちが観光できるのも、アメリカによる日本占領の偶然の為せる技なのです。

*写真:東福寺HPより


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