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コーランをそのまま実践するとISになる?『イスラム2.0』飯山陽著 私評


<概要>

ネットやSNSが普及したことで、イスラム教の啓典が直接信徒が触れるようになったことでイスラム原理主義が増大していることを「イスラム2.0」と表現。

この結果「コーランをそのまま読めばISになる」とした、イスラム教過激論を紹介。

著者の一貫した主張には原理主義的な、きな臭いニオイを感じますが、インドネシア、エジプトなど各国の宗教事情の解説や最後の「イスラム教と共存するために」などは興味深い内容となっています。

<コメント>

これまでずっとイスラム関連の著作、コーランの通読、実際にアラブ諸国、そして今回のトルコ共和国と、イスラム関連について勉強・体験してきましたが、飯山陽さんという新進気鋭のイスラム専門家がいるらしいということで図書館で借りて、さっそく読んでみました。

⒈言語は一義的ではない

ちなみに多くのアラビア語を母語としない既存の多くのイスラム教徒同様、私はアラビア語で書かれた『コーラン』は読めないので、日本語訳版を通読しましたが、これを読んで著者のいう「コーランをそのまま読めばISになる」というふうにはとても思えませんでした。

全般的には、毎日礼拝して寄付をして他者を助けるなどの善行すれば、来世は酒池肉林の天国に行けますよ、ということなんだろうな、という感じです。

また、私の場合は無宗教者なので、アッラーのいう通りだとすると「このまま死んだら私は地獄に落ちるのかな」という感じです(詳細は以下参照)。

ところが、著者によれば以下の通り『コーラン』を字義通りに解釈すれば、イスラム原理主義者になる、というのです。

『コーラン』第9章41節には「軽装備でも重装備でも良いので出征し、あなた方の財産と生命を捧げて神の道においてジハードせよ」とあります。

本書50頁

(ご参考までに該当部分の『コーラン』訳文のせておきます)

身軽な者も荷重の者も出陣せよ。神の道のために生命と財産をなげうって戦え。おまえたちにわかりさえすれば、それが自分のためにもっともよいことである。

中公クラシックス版『コーラン』第9章41節

つまり著者の場合は「『コーラン』の考え方とイスラム原理主義の考え方は一致する」とし、『コーラン』を字義通り読めば、攻撃的・侵略的になって異教徒と戦って(自爆テロ含む)、イスラームを拡大しイスラームの世界を実現させたい、という気持ちになる、というのです。

ちなみに他の『コーラン』では、以下の通り、自殺含む殺人や所有権の強奪を禁じていますので普通に読めば侵略戦争は禁じられているわけです。

191 おまえたちの出あったところで彼らを殺せ。おまえたちが追放されたところから彼らを追放せよ。迫害は殺害より悪い。しかし、彼らがおまえたちに戦いをしかけないかぎり、聖なる礼拝堂のあたりで戦ってはならない。もし彼らが戦いをしかけるならば、彼らを殺せ。不信者の報いはこうなるのだ。

192 しかし、彼らがやめたならば、神は寛容にして慈悲ぶかいお方である。

193 迫害がなくなるまで、宗教が神のものになるまで、彼らと戦え。しかし、彼らがやめたならば、無法者にたいしては別として、敵意は無用である。

中公クラシックス版『コーラン』:雌牛の章

29  信ずる人々よ、合意のうえでの商売でないかぎり、たがいのあいだで、いたずらに財産を傷つけてはならない。また、たがいに殺しあってはならない。神はおまえたちにたいして慈悲ぶかくあらせられるのだ。

同上:女人の章

しかしこれも一義的ではないし『コーラン』自体もこのあたりは明確になっていません。だからイスラム法学者の解釈や『コーラン』以外のハディース(ムハンマドの言行録)が必要だ、ということになっているのです(これらを称して著者は「イスラム1.0」という)。

そこで、私が思い浮かべるのは、ヴィトゲンシュタインのいう「言語ゲーム」の考え方です。

言語は一義的ではありません。言語はその時代・場所によってその意味は大きく変わっていきます。

『コーラン』なども然りで、『コーラン』に書いてあることを自分の主張の都合にいいように解釈することは自由ですが、それをもって一義的に「コーランに書いてある通りだとこうなる」と言うのは、あまりにもナイーブすぎます。

しかもそれを著者は「唯一の事実」だとして言い切ってしまっているのです。

ところが著者の発言は大変興味深く「より客観的なのが自分の主張だ」としているところですが、本書で書いてあることは真逆です。だから「ある意味」面白い。

私は研究者として、自らの主張の客観性と第三者による検証可能性を重んじています。「気持ち」を全面に出し、それへの共感を煽る行為は私の研究者としての矜持にもとります。

本書9頁

啓典は、読む人の解釈で大きく変化していきます。だから宗教はどんどんウイルスのようにその時代の要請に合わせて分化していくのです(詳細は以下動画参照)。

キリスト教のプロテスタントがいい事例です。特にプロテスタントは聖書に書いてあるものそのものを信仰しようとしますが、それでも各派に分派しています。

ちなみにローマ・カトリックは、常にローマ教皇庁が一貫した解釈をするので、分派しません。

IS(著者は「イスラム国」と記述)も、自分たちの都合のいいように解釈しているわけです(サウジアラビアもカタールもエジプトも他の国も、シーア派もスンニ派もですが)。なのでISの考え方も一面では正しいと思います。

東京女子大学学長のキリスト教専門家、森本あんりがいうように、そもそも宗教のオリジナルは、イエスもシャカもムハンマドも反体制的なものですから。

⒉宗教は「暴力的であり、平和的である」

著者が「はじめに」でも書いている通り、私も勉強させていいただいた中田考や小杉泰、内藤正典、などのイスラーム専門家は、どうしてもイスラームをポジティブに解釈しようとするので、たぶん彼らを評して「日本ではイスラーム教は平和の宗教だと誤解している」と著者は指摘しているのかもしれません。

でも私たちのような一般読者は、そんなことさえも知らないでしょう。

私の考えでは、基本的に宗教に「戦争と平和」の相関はありません。

歴史を見れば明らかですが、どんな宗教でも平和的であり、暴力的です。そういう意味でいえば、著者のいうことは一面だけを見れば正しい。でも「イスラーム教は平和な宗教」と言っている専門家も一面的には正しい。

仏教もキリスト教もヒンズー教も、過去に歴史を紐解けば暴力だらけです。イスラーム教だけではありません。

だからこそヘーゲルのいう「自由の相互承認」が必要なのです。

⒊特定の集団を敵視して、分断を煽る

どんな宗教だって異教徒とは考え方は違うし、自分たちだけが絶対正しいと思っているのは当然です。

信念対立は永遠になくなりません。ましてやこの分断の時代において、ネットが普及するこの時代において個々の信条の「信念補強」は加速するばかりです。

だからこそ、どんな思想信条であれ、文脈を読む限り著者も「是」と主張する啓蒙主義的考え方が必要なのです。

これだけは、一般意志として合意しないと、皆不幸になるばかり。

なので、イスラーム教の一面だけを切り取ってそれが事実であるかのような主張を、私たちのような初心者が読む新書において展開するのは、いかがなものか、と思います。分断を煽るだけで何のメリットもないのではないでしょうか?

これは事実ではなく、著者自身が批判する著者の「気持ち」そのものだと思います。

日本におけるイスラム教についての解説は解説という体裁をとった「気持ち」の表明である場合がほとんどであるため、一般の人々がそれを解説として読んだり聞いたりしても全く腑に落ちないのは当然です。

本書はじめに:4頁

私の場合は、飯山さんの主張が腑に落ちませんでした。。。

⒋イスラム原理主義者の価値観は伝統的部族社会に由来する

著者が本書でイスラム原理主義者のさまざまな事例を紹介してくれています。

2013年には国連が発表した報告書では、99%以上のエジプト人女性がセクハラ被害に遭ったことがあると回答しています。

本書99頁

実際は、どんな服装をしていようと男性親族に付き添われていない限り卑猥で侮辱的な言葉を投げつけられ、売春婦扱いされ、セクハラされ、ひどい場合にはレイプされるということを、イスラム教徒の女性たち自身はよく知っています。

本書69頁

などなどです。しかしこれらはイスラーム教の考え方からくるのかといえば「そうではない」とした説もあります。

 民俗学者ジェルメーヌ・ティヨンによれば、アラブ社会におけるヴェールや女性隔離、女性への相続権の放棄などの慣習はイスラームという宗教がもたらしたものではなく、古くからの北アフリカ・中東社会における「部族社会=イトコたちの共和国」を守るためのルールがもたらした慣習だというのです。

地中海世界におけるキリスト教世界においても、ちょっと前までは同じような慣習だったのです(詳細は以下ブログ参照)。

過去10年ほどの観光の発展の前までは、スペイン、ポルトガル、南フランス、コルシカ、南イタリア、ギリシャ、レバノンにおいて、女性がスカーフなどで髪の毛を包まずに教会に入ることはスキャンダルであった。

『イトコたちの共和国』195頁

フランスでは、北部においてさえも、ローマ法、カトリック教会およびナポレオン法典を媒介として、地中海地域の特徴が方向づける。数年前(1960年ぐらい)まで既婚女性は、夫に対して、父親に対する子供と同じ状況に置かれており、夫の許可なしにパスポートも銀行口座も請求することができなかった。

同上198頁

またアフガニスタンのイスラム原理主義組織タリバンに関しては、NHKディレクター高木徹の取材によれば、タリバンの原理主義的価値観は、アフガニスタン南方の田舎の保守的な慣習に基づくもので、イスラム教とはまったく関係ありません。

具体的には女性抑圧や男女ともの素肌の露出禁止、喫煙禁止、歌舞音曲禁止、ひげなし男禁止、西洋風髪型禁止など。。。(詳細は以下参照)。

たとえば日本でも穢れ忌避の観念から明治時代初期までは、生理中の女性は、別棟に隔離するという習慣がありました。

民俗学者、宮本常一の調査に基づく愛知県北設楽郡設楽町での事例。

このあたりはごへいかつぎ(※)が多うして月のさわりをやかましく言うところで、もとは一軒ごとにヒマゴヤがありました。そうしてさわりがはじまるとそこへはいって寝起もし、かまども別にして煮炊きしたものであります。いっしょにたべたのでは家の火がけがれるといって。
                   ※ごへいかつぎ=迷信深いこと

宮本常一著『忘れられた日本人』名倉談義

女はヒマのときは男の下駄をはいてもいけないものでありました。いまでもわたしらのような年寄は腰巻は日のあたるところへはほしません。

同上

しかし明治時代以降、近代化が進むとこの風習は廃れ、具体的には「車の通る道」が出来たことがきっかけだったといいます。

つまり民俗学的には、近代以前の社会では、昔ながらの部族の慣習などが彼ら彼女らの価値観なので、一般に上記のような女性を隔離したり、忌避する慣習は、イスラム教などの特定の宗教によるものというよりも、共同体の一般的な伝統的慣習によるものだ、ということなのでしょう。

⒌ウヨクもイスラム原理主義も同じ構造

極端なウヨクもイスラム原理主義も、行動経済学的には、いわゆる内集団バイアスで同じ構造=教条主義です。

一般的に敵をつくって他者を排除しようとする極端な思想(教条主義)は、その思想を信仰する集団に強力に支持されます。トランプ然り、イスラム原理主義然り、共産党然り、そしてネトウヨ然りです。

本書はネトウヨを意識した、イスラム専門家のポジショントークなので、一部の人に一定の支持を得ていると思いますし、実際著者の著作は、よく売れているようです(古谷経衡によるとネトウヨに阿る書籍や雑誌はよく売れるらしい)。

したがって本書を読んで気持ちがスカッとする人も一部にはいると思います。なぜなら内集団バイアスを強化する言説は、その信条を支持する人たちにとって、とても心地よいからです。

そういう意味では、著者の主張は逆説的で、極端なウヨクがイスラーム化するとイスラム原理主義化するかもしれない、という典型的な事例かもしれません。


*なお、以下アマゾン書評にまったく同感。イスラームに関してだいぶお詳しい方のようなので時間のある方は、ぜひお読みすることをお勧めします。


*写真:イスタンブール:博物館からモスクになってしまった「アヤ・ソフィア」(2023年7月撮影)

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