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いつかはきっと

どうして「わたしが付き合って欲しいと言ったから付き合ってくれただけだ」なんて後ろ向きな考えが先に来てしまうのだろうか。そんなにも自分に自信ないの?ってびっくりしてしまうけど本当にわたしって自信がないんだね。相手から「好き」という言葉を聞いて付き合ったわけではなかったから、自信を持てる確証になるものがなくて、付き合えているのだからそれがすべて、と頭では分かりつつも心の大半は不安な気持ちですぐいっぱいになってしまう。(最近はだいぶマシになったんだけど)

わたしも大概、気持ちを言葉にすることや行動に表すことが苦手だが、相手も同じくらい苦手としていて、似たもの同士だから気持ちも痛いほどわかる。しかも、無自覚なことさえあることもわかる。伝わってるって思ってたのにな、、ってことをわたしは過去に幾度となく繰り返しては相手を傷つけたり暖簾に腕押しな気持ちにさせてきたから。だからこそ今の恋人に対しては極力気をつけて、時には自分の羞恥心をも差し置いて、言葉にすることを大切にしている。おそらく、私が言い過ぎ?って思うくらいが世の普通なのだろう。それに言いすぎて損することはない訳で。言葉は減るものじゃない。言葉にしすぎると価値が下がるなんて意見もあるけど、わたしは過去に言葉にしてもらい続けた結果、過度な自信喪失人間状態から脱却出来たから。相手を肯定し続けることは、時には相手を明るい場所に引き上げることもできる。そりゃもちろん慣れてしまうのだけど。言われずそこに立ち止まったままより全然いい。

そしてもう一つは見返りを求めないこと。自分ばかりが、、って思わなくていい。与えたいだけ与えれば良くて、いつかきっと周りまわって、あの時あんな風に言ってくれたな、そんな風に見ていてくれる人って貴重だな、と気づけばそれでいい。言葉にして伝える、ということは、自分はあなたのことをこうやって思ってますよという意思表明に過ぎないのかも。きっとそれでいい。

初めて相手の口から「好き」の2文字を聞いた時、泣きそうになるほど嬉しかった。好きな人に好きだと言われることが、こんなにうれしいものなのかと。相変わらず、わたしはわたしであの瞬間冷静な態度で振る舞ってしまったのだけど。ずっとこの人の口から聞きたかった2文字すぎて、こんなにも言葉には価値があるのかと改めて言葉にすることの強さと重みを感じた。50音の中のただの「す」と「き」の2文字でしかないのに。あの日から何度思い出しても鳥肌立つし、嬉しい気持ちで満たされる。あー、生きててよかったな!諦めなくてよかったな。一緒に過ごす時間が増えれば増えるほど、不器用な相手なりの愛情もちゃんと気づくことが出来るようになってきた。言葉にしなくたって、ちゃんと伝わることもあるし、それがこんなにも尊いことなのだなとちゃんと分かる。言葉じゃないからこそ行動のひとつひとつや、きっと私にしか気づけないだろうなというほんの小さなことが心の底から嬉しかったりする。この人はわたしが見ていて欲しいと思う部分をちゃんと見ていてくれているという実感。わたしはどれくらい、相手のことを見ていてあげられているだろうか。ただそこにいてくれることだけで十分で、色んな選択をしていく時に、心の隅にふっとよぎって、きっとこの選択を応援してくれるだろうなと思えたらいいし、相手にとってそんな存在になれたら、自分が生きてる価値見出せそう。

最近読んでた本に、「パートナーがいたからリスクある選択がとれた」という一節があり、そこまでいけたら最高だろうなと思う。自分ひとりではこわくてチャレンジできなかったかもしれないことも、この人は応援してくれるだろうし、結果だめでも励ましてくれるだろう、なんて思える人が側にいたら、ひとりでいるよりもっと前向きに成長出来るのかもしれない。自分ひとりでも、わたしは強く前向きに生きていく力があるし、今までだってずっと、仕事もそのほかのことも一生懸命やってきた。もう、誰かにしあわせにして欲しいなんて思っていないし、結局は自分が自分を幸せにしないといけないんだなってもう大人だから分かってる。自分を裏切らないのも自分しかいない訳だし。それでも、まだこんな可能性もあるのかと気づけたことが嬉しい。ひとりでも最高だけど、2人だったらもっと最高。好きな人に甘えるとか頼るとかダサいし、誰かを好きになって相手に合わせて自分が自分らしくいられなくなるのも嫌だなって、ネガティブに捉えてたけど、そうじゃない恋愛もあるのかもって。希望だ。わたしにとっては大きな希望。

相手が、自分がしあわせになるための選択をした時に、陰ながらお手伝い出来たらいい。ただ、そこにいるだけでも力になれるならそれでいい。

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