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会話ではなく、言葉の「ま」

以前、自分のことを語る上で、こんな話をしたことがある ↓ ↓ ↓

新たに解ったことがあるので、補足の意味で追記したい


関東圏に引っ越してきたばかりの頃、他人と話をするときはいつも「あぁ機嫌悪いんだな」って感じていた。それはわたしの言葉が訛っていたり、語気が粗かったりするから、無意識に不快感を与えているのかもしれないと思っていたから、それも仕方のないこと…と納得することにした
だれと喋ってもそうだったから、いつしか「都会の人はみんな機嫌が悪いような話し方をするもの」なのかという認識が自分の中に定着しつつあった。そんなとき、電車に乗る機会があり・・・・

電車の中で聞こえてくる他人の会話も「機嫌が悪い」ことに違和感を覚え、ようやっと合点がいった。友だち同士の会話が「機嫌悪そう」に感じるっておかしいよね?
だから、別にわたしと喋っているから「機嫌が悪い」わけではなく、ここに住んでいるひとたちは「早口」なのではないか…と解釈したのだ

正しくは、標準語を話しているから、文字と文字の間に余暇がなく、それが「早口」に聞こえていたのではないかと気づいた
地方に住んでいる「訛り」のあるわたしたちには「鼻濁音」が自然だ。鼻濁音は発音するときに文字の前に見えない小さな「ん」が入ったり、語尾のあとに小さな母音が入ることがある

だから⇒だがら、だがら

標準語はキレイな言葉の並びで、多分テンポも一定なのでしょう。比べて地方の言葉には独特のリズム「イントネーション」があり、それらが発せられるときは、標準語にある一定感はない。ひとによっては早口だったり、おっとりしていたりすることもある。だから、自分の言語と違う土地のひとと喋るとそういう誤解が生まれるのだと思った

同じ話を娘にしてみると、あからさまに感情を露わにしていない限り、話し方だけでは相手の感情までは「感じられない」といった。娘が関東圏に来たのは11歳の時。娘のイントネーションこそ指摘されこそすれ、娘がここの友人たちに違和感を感じることはなかったと言った
でもそれは、当たり前なのだ。クラスメイトにはかしこまる必要がない。わたしたちは大人で、他人と話をするときは少なからず緊張するし、丁寧に言葉を話そうと意識する。でもみんな、自分の持つ言葉のリズムまで変えることはない。それが違和感になるのだ
子どもは遠慮なく、みんながそれぞれ自分のペースだ。ある子は早口で聞き取りにくいかもしれないし、ある子はとても静かに話すかもしれない。またある子は耳障りな音を出しているかもしれない。でもそこには、違和感も緊張感もない。なぜなら相手の顔色を窺わなくてもいいからだ。なので一定のリズムも必要ないし、気にならないというわけ

わたしが他人と話をするとき「機嫌が悪いのかな」と感じるのには、明らかに相手の様子をを窺っているからなのでしょう。初めての相手、子どもの学校の先生、ママ友、旦那さまの両親など、友人のような会話ができない相手はすべて、である
大人って面倒くさいね。でも、理由が解れば次からは緊張しなくて済むでしょう

つまりは、ずっとあの時感じた「機嫌悪いのかな」は、ただ単に早口なのだと解釈していたけれど、言葉の「ま」だと今になって気づいた。わたしの言葉の速さが1だとすると、引っ越し当時のこちらのひとたちの言葉が1.3倍の速さだった…というわけだ。単語と単語の間に無駄なスペースがない、その語感の違いが怒っているように感じられたということだ
あとは、ただ単に、長く住んでいる中で慣らされてきた…ということもある。現に、地元に帰ると、同じようにしゃべっているつもりでも「訛ってんなぁ」って感じるから、わたしの耳だけは標準語仕様なのでしょう

ここにたどりつくまで長かったなぁ…でも、スッキリしたわ



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