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富士山と神仏と国立公園

「切手」が教えてくれた国立公園
 私は日本の山々を歩いてきた。とはいえ、「日本百名山」のうちまともに「自力で登った」のは富士山や筑波山、大山、三瓶山等、わずか数か所で、またロープウェイや車で中腹まで登ったり、下から遥拝したものをふくめても半世紀で百か所中三分の一に過ぎない。一方で国立公園はというと、小笠原と尾瀬と利尻礼文サロベツを除き、九割がた訪れている。今回は国立公園として訪問者数が最多の富士箱根伊豆国立公園のうち、日本人のこころの山としてもあがめられる富士山その他の「郷土富士」を歩きながら「日本人にとって山とは何か」ということを考えてみたいと思う。
 「国立公園」という概念が自分のものとなったのは、おそらく小学校二年生、つまり1979年頃だと思う。当時小学生の多くが切手収集をしていたが、私が生まれる前に亡くなった母方のおじのコレクションがうちにあり、その膨大かつ貴重なコレクションを私は譲り受けた。私は毎日飽きることもなくそのコレクションを眺め、ピンセットで一枚一枚アルバムに移し替えたりして楽しんでいた。今思えば実に多くのことを切手から学んでいた。特に歴史や地理、美術や建築などは、毎日見ていたのでそれらについてもっと知りたくなり、図書館で調べたりもしていた。「好きこそものの上手なれ」とは言ったもので、私の通訳案内士試験学習の先生は切手たちだったのだ。
 その中でもシリーズ切手として興味をひかれたのが「国立公園シリーズ」であった。これは戦前1930年代から50年代にかけて発行された「第一次」と、60年代から70年代にかけて発行された「第二次」に分かれているが、コレクションは第二次の終わりの数種類のみ揃っていない。おじが交通事故で亡くなったからだ。
 このシリーズの中で第一回、1936年に発行されたのが単色刷りの「富士箱根国立公園」である。思うに私はこれによって「国立公園」の存在に気づいたに違いない。島根県安来市の実家からは鳥取県側の「大山」がよく見えるが、そこが「大山隠岐国立公園」の一部であると知ったのも切手のおかげだ。私の国立公園の旅は、この切手収集という「旅マエ」から始まった。そして今回はそれらを名山に限り「旅アト」としてまとめようと思う。

国立公園発祥の地、イエローストーンから富士山まで
 アメリカ人の訪日客を富士山麓に案内するたびに、私は国立公園発祥の地はどこか問う。なぜか「富士山」と答えるゲストが多いのだが、彼らの母国、アメリカはイエローストーンであるというと意外な顔をされることもある。
 日本でいえば明治初年の1870年、ロッキー山中で連邦政府から派遣された探検隊がキャンプをしながら、この雄大な自然を保護すべきか、観光や資源として活用すべきかで論争を繰り広げていた。その結果1872年、「イエローストーン国立公園法」が成立し、自然保護を基幹とした世界初の国立公園が成立した。なぜ自然を保護すべきなのか。その背景にあるのは白人によるあまりにも露骨な自然破壊と、自然と共存してきたインディアン制圧への反省があったのだろう。そしてそれを支えた思想的バックグラウンドが19世紀の思想家、エマーソンやソローの自然回帰の思いだったのだろう。
 ちなみにアメリカに自然保護を目的とした国立公園法が成立した三年後、北海道ではアメリカの農業を導入すべく札幌農学校が開校したが、自然保護の発想とは程遠く、その時から開拓使による森林伐採や自然と共存してきたアイヌ人の「教化」という名の民族抹殺が本格化した。同じころ海の向こう、カリフォルニアではスコットランド系のナチュラリスト、ジョン・ミューアが大自然を歩き回り、一木一草、森羅万象みな繋がっていることに気づいた。奇しくもそれはアメリカや北海道の先住民たちの「常識」ですらあった。知らぬは白人ばかりなり。そしてこうした研究と運動の結果1890年に生まれたのがヨセミテ国立公園である。
 
国立公園法成立=自然保護<観光促進
 同じころ、すなわち明治時代の日本の山々は荒廃しつつあった。乱開発に加えて、富士箱根や日光などですら寺社の運営基盤が悪化していたからである。一方でわずかとはいえ訪日客は増加しており、1873年には現在まで続く訪日客用のクラシックホテル、日光金谷ホテルが1878年には箱根の富士屋ホテルが建設されていた。とはいえそこに行くまでの道路などは整備されておらず、両地域は1911年に国立公園設立を国会に請願したのである。その目的は自然保護と観光促進であった。そしてこの二つの対立は現在、国立公園を考えるうえで現在、そしてこれからも続いていく構造となる
 大正時代を通して保全か活用かで関係者が二分化したが、総じていえばアメリカの自然保護という側面と比べると、その後の国立公園法はいかに自然を国民全体のレクリエーションとして供するための法律となりつつあった。時代が大正デモクラシーのころでもあり、一部の富裕層や文人墨客のための物見遊山の時代から「大衆の行楽」に移るのが「正義」であったこと、そしてそれ以前の話として国民の側にもまだ環境保護という概念がいきわたっていなかったことなども考えられる。ちなみに毎日東京から来る多くの観光客を「はき出し」ては「おさめて」いく富士急が「富士山麓電気鉄道」として開業したのはこうした最中の1926年である。
 とはいえその直前の25年には国会で予算不足のために国立公園法は見送りになったのだが、六年後には反転して通過した。予算が取れたからではない。極めて低予算ででも国立公園を整備する必要に迫られたからだ。それは1929年10月より始まる世界恐慌が日本をも巻き込んだためであり、外貨獲得のために「現金化」できる観光地が必要だったのだ。こうして1934年10月に国立公園法が制定された。その特徴を図式化すると、①活用>>>保護、②超低予算で高収益、③文人趣味>理系的知識の三点である。そしてそれは21世紀のインバウンド政策と大きな変化がないことに驚かされる。
 
国立公園×アシ×ヤド=カネ¥
 世界恐慌の起こったその月に日本商工会議所は「国立公園を設置して外客の遊覧に便ならしむること」を政府に提言している。その後、急速に法制化に向かって進んでいった。そして各地で交通機関や宿泊施設が整備されていった。現在リゾートホテルが見られる河口湖周辺も、当時は避暑地として夏だけ限定で宿泊施設となっていき、観光船の舟運が盛んになったという。どんなに素晴らしい風景があってもアシとヤドがなければカネにはならない。自然保護は安定して観光客を取り込む手段なのであって、目的ではなくなった。果たして今もそうではないと言い切れるだろうか。
 富士山では漁港もあり工業化もしている静岡県側よりも、これといった産業も見当たらない山梨県側、特に富士五湖を中心とした「郡内」にその観光業に偏重する傾向が強くみられる。富士河口湖町や富士吉田市の観光施設を訪れると、圧倒的に日本人が少数派であり、事実上の「共通言語」は英語か中国語である。

冷や飯を食わされるガイド
 次に、当時の訪日客に対してサービスを提供するガイドについてほぼ議論がなかったことも現在とそっくりだ。これだけの訪日客が年間を通じて押しよせている昨今ではあるが、通訳案内士の活躍は特にアジア系においてそれほど目立たない。厳密にいえば観光庁はそれなりの予算を使ってはいる。ただそれらのほとんどが訪日プロモーションという「旅マエ」にかけるのであり、訪日客にとって「本番中」である「旅ナカ」の仕事を担う我々通訳案内士にかける予算は雀の涙以下である
 2010年代以降の「観光白書」を見ると、露骨なまでに効率よく海外の富裕層を連れてくることばかり強調され、その最前線で最も顧客と接するはずの通訳案内士には予算はほぼかけないことが分かる。そして何よりも不可解なのが、観光庁は現場の案内士を増やす気がほぼないことだ。2018年に法改正して通訳案内士資格がなくても参入できるようになってからというもの、無免許ガイドが大活躍となっている。
 国立公園法が制定された1930年代に、米国では各公園にレンジャーが配属され、自然の魅力や価値を伝え、自然保護に努めていたが、百年後の日本がそのレベルに達しているかというと心もとない。ただ、外貨はほしい、というメッセージだけは露骨である。逆にいえば今の日本の観光業に携わる人々のマインドは百年前の大恐慌時代とほぼ変わらないのかもしれない。いかにガイドが冷や飯を食わされているかが分かる。

国立公園=文系>>>理系
 そして最後に、全国の国立公園が地質学的・生物学的価値などを理解する「理系的」な楽しみを発信することはまれである。私から見れば富士山は一大ジオパークでもある。例えば西(さい)湖、精進(しょうじ)湖、本栖(もとす)湖はかつて東西に横長の湖だったが、噴火による溶岩が入り込んで分断され、せき止められた「堰止(せきとめ)湖」であるらしい。あるいは伊豆半島などから富士山を拝むと、3776mの富士山ではあってもその下の駿河湾の最大水深が2500mほどというから、それも含めれば6000m級の山だったかもしれない。山を、地上部分のみ見るのではなく、水面下にも続いているという地学的知識があると、「日本」を感じる以上に「地球(ジオ)」の動きに興奮してくる
 あるいは植生でいうと、標高800mー1000mほどの五湖周辺や青木ヶ原樹海ではブナのような常緑樹とヒノキなどの針葉樹が混在しているが、標高2300m台の五合目に向かうにつれてどんどん植生が変わっていき、落葉針葉樹のカラマツ等に変わっていく。それらを見るだけでも寒さが感じられてくる。そして六合目から上は森林限界で、土と岩だらけだ。そうした植生の垂直分布に注目して歩くだけでも、自分たち人間と同じく気候によって生かされている生き物の存在に思い至る。これがネイチャーツーリズムの醍醐味であろう
 しかしほとんどの観光客は日本人をふくめてそうではない。昭和初期の法制定時においても、山紫水明の水墨画的、和歌的な風景を満喫するに限られていた。少なくとも「昭和の日本人」たちはそこに「富士の高嶺に雪は降りつつ」や「富士には月見草がよくにあう」を思い出し、北斎や広重をかさね合わせたことだろう。しかし令和の現在そのような「富士山リテラシー」の低い、いやほぼない訪日客は、河口浅間(あさま)神社天空の鳥居にせよ、新倉山浅間(あらくらやませんげん)公園にせよ、長い列に並んで写真をとったらほとんどがすぐに立ち去ってしまう。
 もちろんそれが悪いわけではない。問題は、国立公園という場所は単なる風景を愛でる場所ではなく、自然のもつ価値、地球のもつダイナミズムなどをじかに感じられる場所であるべきだろうが、日本の文芸について暗いのは致し方ないにせよ、ユニバーサルな「理系的価値」を知ろうとしないのだとすると、なんのための国立公園なのだろうか

国立公園VS陸軍の痛み分け
 しかし様々な問題をはらみながらも、国立公園法は施行された。ただ、富士箱根国立公園は1934年、最初に指定されたグループ(瀬戸内海・雲仙・霧島)には含まれてはいない。それだけでなく同じ年の秋に追加指定されたグループ(阿寒、大雪山、日光、中部山岳、阿蘇)にも含まれていない。実は富士山麓の軍事演習場設置問題で、陸軍からクレームが来ていたのだ。こうして国立公園と軍事演習場が併存するかいなかという「痛み分け」交渉が長引いたため、日本の象徴たる富士山の国立公園化は1936年にずれ込んだのだ。ちなみに同時に指定されたのが、鳥取県の「伯耆富士」大山および水力発電所建設問題を抱えていた十和田湖と吉野熊野であった。こうして「我らが富士山」はようやく「富士箱根国立公園」となり、戦後1955年には伊豆半島を編入し「富士箱根伊豆国立公園」となった。

河口浅間神社へ
 富士五湖周辺に訪日客を案内する際、東京から高速道路を下ると、あるポイントで富士山があらわれる。その場所は日によって異なるし、全く見えないときもある。ただ私はその日はじめて富士山が見えたら反射的に合掌礼拝する。自然と両手が動き、手を合わせているのだ。しないではいられないのだ。そしてそれはおそらく子どもの頃に時々見た、ふるさとの「伯耆富士」大山に向かって手を合わせているお年寄りの背中を見て学んだものだと思う。とはいえ全ての山に対してするわけでもないことに最近気づいた。視覚的に富士山のような二等辺三角形に近い山に対しては、または里山から山に入るときも自然に手が合わさる。それなのになぜか連山に対しては意識しないとできない。これは私だけなのか、日本人の多くがそうなのかはよく分からない。
 スケジュールにもよるが、私は最初に「浅間神社」を案内することが多い。場所によって「せんげん」と読んだり「あさま」と読んだりもするが、いずれも登山者たちが拝んでから山に入る神聖な場所だから、スタートはここにしたいのだ。現在山梨、静岡両県あわせて七か所もの「浅間神社(大社)」が世界遺産の構成資産にもなっている。その中でも私のお気に入りが河口浅間神社である。「三国一之山」と彫った扁額が見下ろす鳥居をくぐると、樹齢千数百年の杉の巨木が参道にも奥にもずらりと建ち並ぶ。外の世界とは明らかに異なる空気をたたえている。
 これらの樹木は神々が宿る依代、ご神木と言われるが、信州諏訪の御柱や善光寺の回向柱もその意味では依代だろう。柱といえば神々を数える際も「ひとはしら、ふたはしら」と数える。私が二等辺三角形に近い山に対して自然に手が合わさるのも、樹木の形に似ているからかもしれない。
 本殿で富士山の女神、此花咲耶(このはなさくや)姫に手を合わせて神社の裏道を登る。2019年にこの裏山に「天空の鳥居」ができたが、いつ行いってもほぼ訪日客で占められている。とはいえ、彼らは鳥居で写真を撮るだけで、本殿は山の下のこの河口浅間神社であることは知らないのか、いつも山の上の一割ほどしか参拝客がいない。

バイク青年と田舎の年寄りと私をつなぐもの
 つづら折れの一車線道路を対向車とすれ違いながら登りきると、小さな公園が現れる。丘の向こうに富士山が見え、手前に赤い小さな鳥居が建てられている。思わず一礼して小公園に下りる。「富士山遥拝所」とあるが、訪日客たちは拝んだりせずに鳥居と富士山の写真を撮り、SNSで拡散するのに必死である。長い列に並びはするが、撮影時間は一グループ三分間と決められている。大体そこではゲストと雑談に興じながら数十分間待つのだが、誰一人として富士山を遥拝する者はいない。ここは物見遊山の展望台ではなく「遥拝所」だ。
 その中で一人だけ忘れられない人物がいた。バイク用のレザースーツを着た三十歳くらいの男性だ。ヘルメットを地面に置き、ひとり深々と富士山に向かって頭を下げる。周りの訪日客はみな彼を見ている。まるで香港かサンフランシスコで日本人の行動を見ているかのように。かしわ手を打ち、さらに深々と頭を下げる。それが終わってからおもむろに写真を一枚だけ取って後ろに並んでいた外国の若者に会釈をしてからヘルメットを持ち直して去っていった。さらに後ろに並んでいた私も会釈をした。
 私たちの番が来た。ゲストと一緒に二礼二拍手一礼をして立ち去った。それだけのことだが、そこに子どもの頃ふるさとで見た大山を遥拝するお年寄りと、それを受け継いでいた私と、そしてたまたま見かけただけの私より二回りほど若い世代のバイク青年だ。山を見ると衆人環視のもとでも頭を下げるというこころをだれからもらったのだろうか。ふと「民族性」ということばがこころに浮かんだ。この言葉は極めて恣意的なものであることは分かっている。しかしふるさとのお年寄りとバイク青年と私をつなぐもののコアにあるものは、仏教とか神道とか宗教以前のところにあった天地(あめつち)を畏れ敬うこころではなかっただろうか。そしてそれを先祖たちは「カミ」と読んだのだろう。

日光三山と輪王寺三仏堂
 「カミ」としての山というと、日光国立公園の日光三山とふもとの輪王寺を思い出す。大谷(だいや)川にかかる神橋の上をわたると、身も心も清められるようだ。この清流は霊山日光三山の主峰、男体山(=二荒山、別名「日光富士」)に注いだ水がラムサール条約に登録されている戦場ヶ原の湿原を潤し、中禅寺湖からこぼれ落ちた水が流れ流れてここまできたものである。
 神橋の北側の道を上がると、輪王寺の赤い本堂が見える。東日本最大の木造建築、三仏堂である。「三仏」とは千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音を指す。中に入ると黄金色に輝く三体の7.5メートルの大仏が我々を見守って下さる。興味深いことに、このうち千手観音は日光三山のうちの男体山、阿弥陀如来は女峰山、馬頭観音は太郎山の本来の姿なのだという。。富士山での私は山を神宿る依代のように思って拝んでいたが、ここでは山は仏なのだという。仏教寺院なのに山々を仏として拝むという「神仏習合」はここでも浸透しているのだ。そしてそれはそこからさらに500mほど北西に位置する二荒山(ふたらさん)神社にいくと、さらに面白いことになる。

二荒山神社ースーパーマンとクラーク・ケント
 二荒山神社では二荒山=男体山を神として祭る神社であり、その境内はここから日光三山全体にまで及ぶ。そして三柱の祭神は、大黒天として知られる大己貴(おおなむち)命が男体山、天照大神と須佐之男命から生まれた宗像三女神の一人、 田心姫(たごりひめ)命が女峰山、そして味耜高彦根(あじすきたかひこね)命が太郎山だという。キーコンセプトとなるのは、三つの山をそれぞれ仏教の諸仏の化身だとみるのと、出雲の神々として見ることの違いである。これも平安時代前後に「本地垂迹(ほんちすいじゃく)説」というコンセプトに基づくものだ。山を中心にまとめるとこうなる。
 男体山(=二荒山)=千手観音=大己貴(大国主命=大黒天)
 女峰山=阿弥陀如来= 田心姫
 太郎山=馬頭観音=味耜高彦根
 これは例えばウルトラマンやスーパーマンや仮面ライダーがいきなり我々の前に現れたらどう思うか。助けてもらえるというよりも恐怖心、警戒心を抱かないだろうか。だから彼らは我々と接するときには普通の人間の格好をしている。仏さまも同じである。いきなりインドの諸仏が現れたら、平安時代の人々は恐れおののく。そこで我々になじみのある出雲の神々の形を借りて我々の前に現れる。そして崇拝する対象を見慣れない神像ではなく、日光の山々にしたのである。こうして特に密教系の宗派では、神仏習合が進んでいった。

華厳とは頑張る私たちが作りあげる世の中
 第二いろは坂を登って明智平のロープウェイに乗ること三分で展望台である。ここもいつも訪日客であふれている。右手に男体山、中央に中禅寺湖、そしてそこから華厳の滝が下に落ちる。まずは成層火山の男体山に手を合わせ、改めて湖と滝にも手を合わせる。見下ろす格好になるのがなにやらもったいないが、これで火の神と水の神に手を合わせたことになるのだろう。そして二万年前の男体山の噴火が作り出したこの雄大な光景を目に焼き付ける。
 さらに登って華厳の滝を見上げる観瀑台にエレベーターで降りる。間近に拝む華厳の滝はマイナスイオンであふれている。やはり滝は下から見上げて拝むものだ。ちなみにここはジオパークとしても興味深く、滝の周りの岩肌の迫力を感じないではいられない。実はあの岩肌も日々少しずつ崩落しているということを知ると、やはりここも地球の一部であるということを実感する。
 かつていかにも知識人といったゲストに、「ケゴン」とは何かと問われたことがあった。これは大乗仏教の正典の中でも、特に輪王寺のような天台宗では最も重視されている「華厳経」から来ている。「華厳」とは「雑華厳浄(ぞうけごんじょう)」または「雑華厳飾(ぞうけごんしょく)」の略であり、意味するところは「雑華」とは様々な花、つまり頑張る私たち一人ひとりを、「厳浄(厳飾)」とは厳かに清めるという意味らしい。私たち一人ひとりが持てる力を発揮することでこの世をよくしていこうという意味らしい。そして華厳の仏は「奈良の大仏」として知られる毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)というが、これは密教の最高位の仏である大日如来と同じ仏とされ、宇宙の中心にあって隅々まで照らし、守って下さるという。

「一隅を照らす」
 さらに、華厳の教えで「一即多、多即一」という思想がある。例えば今目の前の滝の水は一本に見えてはいるが、無数の水滴の集まりだ。これが「一即多」である。それでいて全体で一本に見える。これが「多即一」の意味だ。見方を変えれば、私たちが滝だと思っている目の前の「現象」も、そもそも天から降ってきた雨水が男体山から戦場ヶ原の湿原に流れ、そこから龍頭の滝経由で中禅寺湖に流入して今目の前の滝という現象を起こしている。それが大谷川となって先ほど渡った神橋の下をくぐり、その後は鬼怒川と合流し、さらに利根川に合流して太平洋に流れ出る。つまり目の前の滝はこの壮大な過程(「多」)のうちの「一」つであるが、山、湿原、川、海、そして滝という「多」がそれぞれの役割を精一杯果たすことでこの水の流れという壮大な「一」を形づくっているのだ
 そういえば輪王寺で「一隅を照らす運動」のポスターを見た。「一隅を照らす」という言葉は他の多くの天台宗寺院で見かけるが、伝教大師最澄が「山家学生式(さんげがくしょうしき)」の冒頭に述べた名言である。つまり毘盧遮那仏に照らしてもらうだけでなく、「我々も自分ができる限りでいいので世の中を照らしましょう」というのだ。この山も、湿原も、川も、海も、そして滝もみな「一隅を照らしている」のだ。
 そのことを思い出してから改めて華厳の滝を見ると、自然そのものに対する古神道的な畏れとは別の哲学的な目でこの滝を見つめている自分に気づいた。そしてそれは富士山を見るときには全くなかったものだ。 

富士山曼荼羅
 富士山には二ヵ所の世界遺産センターがある。山梨県側は富士急ハイランドのすぐ近くにある。また静岡県側にも富士宮市の浅間大社の門前に、プリツカー賞受賞の建築家坂茂設計の「逆さ富士」をかたどったユニークな建物が目立つ。ちなみに富士吉田市にはそれらとは別に「ふじさんミュージアム」があり、いずれも民俗学的見地からみた富士山について学ぶところが多い。特に「霊峰」としての富士山を考えるにあたって私が注目しているのは富士宮本宮浅間大社所蔵の「富士山曼荼羅」の複製である。
 16世紀に描かれたこの曼荼羅は、「曼荼羅」とはいっても弘法大師空海が唐から持ち帰ったような定規とコンパスで描かれた幾何学的、抽象的なものではない。誰が見ても富士山の頂上に極楽世界があることが一目でわかるものだ
 色々なバージョンがあるが、縦長の掛け軸の下三分の一はこの世、上三分の一はあの世、その間は聖俗のあいだとして描くものが一般的である。最下段に横長の島があれば、それは江戸時代に砂嘴(さし)となる前の三保の松原であり、また三重塔があれば興津の清見寺である。その上に浅間大社に参拝する人々が見える。境内で体を清めている人があれば、富士山の伏流水が湧き出る湧玉池である。そこで身を清め、祭神此花咲耶姫にあいさつしてから山に登るのだ。ただ女人禁制だったため、女性の姿は絵の中央までしか見られない。
 上三分の一はいよいよ富士山の稜線がはっきりと見え、白装束の人々がジグザグに歩きつつ、蟻のように連なって登っている。向かって右側の空には太陽が、左側には月が見える。そもそもサンスクリット語で「マンダラ」とは「宇宙の本質」を諸仏の配置によって意味するものという。それは例えば「水金地火木…」という太陽系の惑星の配置図にも似ている。太陽や月が見えるのも、これが単なる富士山という日本の一地方の山を描くのではなく、宇宙の根本原理をそこに描いているからだ。

山頂の仏たちとかぐや姫
 そして頂上は三つの峰に分かれており、真ん中に阿弥陀仏、脇仏としては諸説あるが、向かって右に大日如来、左に薬師如来が描かれているという。なるほど、中央に阿弥陀如来があるのは輪王寺の中央に阿弥陀如来があるのと同じだ。ということは山の頂上は極楽浄土ということを意味するのだろう。そして本来は宇宙の中心にあるべき大日如来が向かって右(東)にあるというのも、本来は日光三山の主峰である男体山の本来の姿という千手観音が向かって右わきに置かれているのにも似ている。
 ちなみに薬師如来が向かって左にあるのに注目したい。不老長寿の薬を求める秦の始皇帝が、徐福に数千人の少年少女を連れて海を渡らせ、東海に浮かぶ蓬莱島に使いを送った「徐福伝説」が到着した地の一つが富士山麓であるという。その不老不死の薬とは温泉を意味するとか、コケモモを意味するとか言われるが、この地で亡くなったとされる彼は長寿の象徴、ツルとなって空高く舞い立ったという。郡内一帯が昔「都留(つる)郡」と呼ばれていたのはその名残という。そして富士吉田市の福源寺には彼を顕彰して鶴塚が残っている。不老不死の薬がなにだったかはさておき、向かって左の峰に「薬」師如来があるのは偶然とはいえまい。なにせ富士を「不死」と表記することもあるほど不老不死の薬と縁の深い土地柄なのだ。
 「不死」というと、「竹取物語」ではかぐや姫が月に帰った後、帝はかぐや姫に残された「不死の薬」を、富士山頂で焼いてしまったため、その煙がいつまでもたなびいているという。富士市にはかぐや姫ミュージアムという施設があるが、そこの展示によると地元ではかぐや姫は月ではなく富士山にのぼったことになっている。さらに江戸時代の白隠禅師によると、かぐや姫は富士山頂に上り、阿弥陀様になったのだという。こうした道教的神仙思想と仏教、そしてそれ以前の古神道があいまって楽しませてくれるのがこの富士山曼荼羅なのである。 

マルチタスクの御師
 こうした富士曼荼羅は、なにも神社仏閣のみに飾られていたわけではない。江戸時代に一世を風靡した「富士講」の御師(おし)がそれらを持ち歩いて東日本中を行脚していた。御師とは夏には信者を山麓の宿に泊め、山頂を目指す富士講の信仰的指導者であるが、その他の時期にはこれらの曼荼羅でいかに富士山がありがたいか説いてまわっていたのだ。現代的な感覚でいえば「信仰の指導者」兼「民泊経営者」兼「ガイド」兼「旅行会社の営業マン」までマルチにこなす存在といえよう。そしてその際のインスタ動画的な宣伝力をもっていた「営業ツール」がこの「曼荼羅」なのだ。そして富士講による登山者数は西暦1800年前後において毎年2~3万人もいたというので、御師とはちょっとしたインフルエンサーであったことが分かる。
 ちなみに御師が富士講の信者を泊めたのが富士吉田市の旧外川家住宅である。また富士宮市の白糸の滝は、富士講の開祖、長谷川角行が修行した場所としても知られる。

立山=地獄→極楽
 富士山曼荼羅で思い起こすのが、北陸の「立山曼荼羅」と「白山曼荼羅」である。中部山岳国立公園のなかでも訪日客にとって人気の的である立山黒部アルペンルートではあるが、ロープウェイやケーブルカー、電気バスなどに乗り継ぎ乗り継ぎ、轟音とともに放水する黒部第四ダムの勇壮さや、4月半ばから二カ月ほどの間の「雪の大谷ウォーク」など見どころも多いが、訪日客、いや、日本人観光客ですら、ここがかつて富士山に勝るとも劣らぬ霊山であったことを知っている人は稀だろう。
 アルペンルートからはずれはするが、富山県立立山博物館を訪れ、立山曼荼羅をじっくり見ると、そのことがよくわかる。富士山曼荼羅と異なる点は、まず四枚屏風の横長であるという点だ。また下の三分の一は城郭や神社仏閣がみえる俗世間であるのは共通する。二人の修行者が「死出の山路」と彫られた石碑からスタートしているが、これは山の中に入るということは疑似的な死を意味していたからだ。
 そして真ん中の三分の一は人間が炎に焼かれ、血の池に突き落とされる「地獄」である。この世の穢れを背負ってきた我々は、一度地獄で焼かれてからでないと極楽往生できないのだ。そしてそれを過ぎた上の三分の一のところに阿弥陀如来が救わんとして立っている。やはりここでも阿弥陀如来が山にいるとされるが、その立っている場所が現在観光客でひしめく室堂である。さらに雲に乗った一群の阿弥陀仏がこちらに向かい、天女も空を舞っている、まさに天上世界である。

生まれ変わる場としての立山
 そもそも八世紀に立山を開いた慈興上人が出家したのは、若いころ父の大切にしている白鷹を追いかけて山に入るとクマに遭遇し、矢を放ったところが阿弥陀如来の化身であったことを知ったからだという。この山で殺生をすることで俗人から僧侶として生まれ変わった青年の話は、一度この山に入り、それまでの自分を捨て去って新しい自分に生まれ変わることを願う人々を引き付けた。特に荒涼とした爆裂の跡に硫黄臭漂う室堂の地獄谷では地獄の存在を実感したに違いない。
 そしてその「立山に入って地獄を見てから極楽に往生し、新しい人間に生まれ変わる」という体験を実感させたのが「衆徒」と呼ばれる立山版の御師たちであった。それにしてもこの一、二畳はありそうなサイズの曼荼羅を見せられた人々は、地獄の存在に恐れおののき、極楽に憧れたことは想像に難くない。思うに曼荼羅を見てその内容を予期していた人々が立山で地獄と極楽を体験するというのは、今でいえばYoutubeなどで予告動画を見たうえでチームラボで地獄と極楽を疑似体験したようなものかもしれない。
 それにしても山岳の交通機関がここまで発達している「国立公園の霊山」も珍しい。一方で、富士山がこのように登山列車やロープウェイで一気に登頂できるようになれば、あの達成感、そしてそれ以上に山そのものに対する厳かな気持ちが薄れてしまい、消費社会におけるレジャー化が一気に加速するに違いない。実際、乗り物を乗り継ぎ続けたアルペンルートよりも、私は能登半島東部の雨晴(あまはらし)海岸あたりから富山湾越しに眺めた屏風のように立ちはだかる立山連峰のほうに畏怖を感じ、合掌礼拝を市内ではいられなかったことを告白しておこう。

白山:立山と共通する地名たち
 石川県、福井県、岐阜県にまたがる白山国立公園。その中核にまします白山も白山曼荼羅をかかげて御師たちが全国をまわった白山信仰の本拠地である。717年に白山を開いた僧、泰澄は渡来系の船頭の子であったらしい。さらに彼の弟子にも能登半島の船頭出身が多かった。日本海航路の船乗りたちにとって、いかに白山がランドマークでもあり航海の無事を祈る霊験あらたかな山であったかが分かる。ここの「白山曼荼羅」は三幅の掛け軸の形式で、右半分に三つの白い峰(白山三所権現)が見える。その山々及び三神三仏の構図は以下のとおりである。
中央:御前峰(ごぜんがみね)=菊理(くくり)姫命=十一面観音
右側:大汝峰(おおなんじみね)=大己貴命=阿弥陀如来
左側:別山(べっさん)=大山祇命=聖観音
 天候に恵まれなかったこともあり、国立公園内を車で走り、ふもと白峰の重伝建を歩いて源泉かけ流しの白峰温泉につかっただけで、山の姿を目にして拝むことはできなかったが、地図を見るだけでも弥陀ヶ原、血の池地獄、室堂、などという立山とまったく同じ地名が確認できるだけでなく、主峰の大汝(おおなんじ)峰の名を見たときはまさか?と耳を疑った。日光二荒山神社の祭神、大己貴(おおなむち)命と同じである。ちなみに日光の大己貴命の本地佛(本来の仏としての姿)は千手観音とされるが、ここでは日光の女峰山、立山、そして富士山と同じ阿弥陀如来となっている。
 白山から流れ出る水が西に流れると福井県の 九頭竜(くずりゅう)川、南に流れると岐阜県の長良川、北に流れると石川県内の大河、手取川となって日本海にそそぐ。中でも手取川の流域は白山手取川世界ジオパークにも登録されており、特に手取峡谷の落差32mの綿ヶ滝はこのジオパークのアイコンとなっている。ちなみに「手取」とは水が透き通っていて魚を手づかみで取れるからだともいうが、大小さまざまな石がごろごろしているため、かつて「石川」とも呼ばれていた。「石川県」という県名は、現白山市を中心に置かれていた旧「石川郡」から来るものである。 

白山比咩神社と富士山の語源?
 さて、この河川沿いに鎮座する白山市の白山比咩(しらやまひめ)神社は、イザナミ・イザナギの夫婦喧嘩を丸く収めた菊理(くくり)姫を祭神としたものである。伝説では渡来人とされる泰澄がこの神社の北側、舟岡山の洞窟で修行していると、白馬に乗った菊理姫が現れ、白山に登るように促す。それに従って頂上に登ると、そこで十一面観音に出会えたという。富士山、立山、白山を俗に「三名山」というが、いずれも女神と阿弥陀如来が重要な役割を果たすのが興味深い。恐妻家は妻のことを「山の神」と呼び、恐妻家でなくても「カミさん」と呼ぶのも山にはこの世を取り仕切る女性がいるというイメージからなのだろう。
 ところでこの「白山」という表記と、「泰澄渡来系説」でピンとくるのが日本海の向こう、朝鮮半島と中国の国境に横たわるカルデラ湖で知られる白頭山(中国では「長白山」)である。この山は朝鮮民族や満洲族にとって民族のルーツとされる山ではあるが、海を渡ってきた朝鮮民族にとって白山を見て白頭山を想起したのだろうか。そんな妄想をするうち、「白山」を現代朝鮮語の漢字語読み(≒日本語の音読み)すると「백산(ペㇰサン)だが、これを固有語読み(≒日本語の訓読み)すると「 흰메(ヒンメ)」、つまり白山比咩神社の「ヒメ」に聞こえることに気が付いた。
 そういえば「富士山」の「フヂ」の語源にも諸説ある。アイヌ語で火のことを「フチ」という説がよく言われるが、そもそも千年以上前の「ハヒフヘホ」は「パピプペポ」、「ダヂヅデド」は「ダディドゥデド」に近い音だったはずだ。つまり「フジ」は「プディ」に近い発音だったはずなのだ。そして現代朝鮮語で「火」は「불(プㇽ)」だが、子音で終わる場合にはしばしば母音を補うため「불이(プリ)」と聞こえる。「プディ(富士)」の語源はこれではないかとも思われてくるのはこじつけに過ぎないだろうか。
 あるいは彼らが来るずっと前、例えば縄文時代あたりから地元の人々にその白さによって畏敬の念を抱かせていたのか、興味深いところだ。実際に白山比咩神社近くの泰澄が神のお告げを受けた舟岡山は縄文時代の遺跡がある。語源を考えるだけでも実に興味深い。

世界遺産富士山=文系>理系
 世界遺産としての富士山は、自然遺産ではなく文化遺産である。文化遺産は比類のない独自性や普遍性が求められるが、そこにはある程度主観が入る。例えば姫路城と安土城を比べてどちらに独自性や普遍性があるかと問われても意見は分かれることだろう。それに対して自然遺産は価値が数値化されやすい
 例えば我々は富士山のような山は世界に一つと思っているかもしれないが、試しに「チリ富士」、「ニュージーランド富士」、「ルソン富士」などとイメージ検索すると、富士山とうり二つの山々がいくつも出てくるはずだ。こうしたコニーデ(円錐型)独立峰は世界中にある。富士山はそのうちの一つに過ぎないだけでなく、今のような形になってから一万年にしかならない、「若すぎる山」なのだ。それに加えてオーバーツーリズムによるゴミ問題も解決されていない。そこで国も地元も世界遺産登録戦略を文化遺産に変更した。「世界遺産」としての富士山の意味は、「理系的」な普遍性ではなく、信仰面や文芸面等、「文系的」独自性にあるのだ。

文学の中の富士山ー貴族にとっての富士山はエベレスト?
 「百人一首」に出てくる富士山を詠んだ歌としては山部赤人の「田子の浦に うち出でてみれば 白妙の 富士の高嶺に雪は降りつつ」が挙げられる。もとは「万葉集」に選ばれたものだが、原典では「天地(あめつち)の分れし時ゆ 神さびて高く貴き 駿河なる富士の高嶺を 天の原ふりさけ見れば 渡る日の影も隠らひ 照る月の光も見えず 白雲もい行きはばかり 時じくそ雪は降りける 語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ 富士の高嶺は」という長歌に対する反歌(アンサーポエム)「田子の浦ゆ うち出てみれば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」から来ている。
 富士市にはこれを石碑に彫った山部赤人万葉歌碑が建てられている。腕白坊主たちが登ったりして親しまれているのを感じ、ほほえましい限りだが、内容はというと「天地」にせよ「日月」にせよ、雲や雪という気象現象にせよ、天地開闢を思わせる壮大な歌だ。こうして古代から富士山はなにやら天地に超然とした近寄りがたい存在だったのかもしれない。
 しかし富士山の名が上方でも知られ始めたのは平安時代以降のようだ。それは「伊勢物語」で、在原業平が都から東下りをする場面において駿河の国にさしかかり、「時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ」と、夏でも頂きに雪をかぶり鹿の子まだらの富士山の大きさが、「比叡の山を二十ばかり重ねあげたらむほど(比叡山の高さの20倍)」と驚きを隠さない所あたりから始まるかもしれない。平安貴族にとって「伊勢物語」は必読書で、これによって都人にもその名が知られたのであろう。
 また、上総(現千葉県市原市あたり)で育ち、父親が都に戻る際に富士山を見た菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)は、「さまことなる山のすがたの,紺青をぬりたるやうなるに,雪の消ゆる世もなくつもりたれば,色こき衣に,白き袙着たらむやうに見えて,山の頂のすこし平ぎたるより,煙は立ちのぼる。夕暮は火の燃え立つも見ゆ」と「更級日記」に煙を噴き出している富士山を描写している。
 そもそも京都一極集中の平安時代において、都人にとってはるか東国にある、その名を聞きはするものの人生でいくことはまずないだろう駿河の富士山というものの存在は、現代日本人にとってのエベレストのようなものかもしれない。そこには未知の魅力、ロマンティシズムがあったことだろう。都人の間で富士山を見る頻度が増えたのは、上方と坂東の往来が盛んになる鎌倉時代を待たねばならない。

 上方目線の中世から江戸目線の近世へ
 静岡県掛川市に小夜(佐夜)の中山という峠がある。東海道を下る上方からの旅人がこの峠を越えると富士山がよく見えるという。茶畑の中の一車線道路を運転しながら車を小夜の中山公園につけた。幹線道路だった当時はともかく、暮れということも手伝ってか、人っ子一人いない。鎌倉幕府が成立して間もない1186年、ここを通った西行法師が詠んだ歌の歌碑がある。
「年たけて また越ゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」
 若いころはここを越えて東国に赴いたが、七十前にもなってここをまた超えるとは。確かにこのわしは生かされているんだなあ、という感慨にふける西行だが、彼にとってここを越えることが富士山のふもとの異世界、東国に来るということなのだろう。実は小夜の中山以西からも富士山は見えるのだが、この峠が非常な難所で、ここを越えたら上方に戻れなくなるのではという大きな心理的障害を旅ゆく人にあたえたのだ。
 西行がその前に東国を旅し、富士山を見たのは三十代のころのはずだ。その時富士山を詠った名歌がこれである。
「風になびく 富士のけぶりの空に消えて ゆくへも知らぬ わが思ひかな」
 ここには偉大な富士の影もなく、その煙のはかなさにあてにならない自分自身を投影している。小夜の中山にせよ、富士にせよ、西行は風景をもって自分の心境をうたうことを得意としていたのだろう。そして在原業平や西行の歌に誘われて都から鎌倉に下った時のことを綴った「更級日記」の著者、阿仏尼の歌碑も峠の道端に建っている。ここは歌枕の場所なのである。
 室町時代には東国の勢力が衰えたため、往来はそれほど盛んではなかったが、戦国時代を経た江戸時代こそ東海道の黄金時代だったろう。街道を上り下りする人々の中から生まれた戯作文学が、駿府出身十返舎一九の「東海道中膝栗毛」であり、錦絵ならば広重の「東海道五十三次」であり、北斎の「富岳三十六景」なのだ。古代、中世の文学が「上方目線」、「西国主観」であったのに対し、江戸時代も後半になれば富士山をいつも拝んで生まれ育った人々による「江戸目線」、「東国主観」にかわっていったことが分かる
 
再び西日本人に「消費された」近代
 近代に入ると、江戸っ子夏目漱石の「三四郎」にも富士山が出てくる。九州から上京してくる三四郎が、汽車の中で東京の紳士に「あなたは東京が始めてなら、まだ富士山を見た事がないでせう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一の名物だ。あれより外に自慢するものは何もない。所が其富士山は天然自然に昔からあつたものなんだから仕方がない。我々が拵へたものぢやない」と語りかけられる場面がある。これは、東国人たちの誇りであった富士山まで、薩長土肥という西日本の藩閥や、三井、三菱、住友、安田といった西日本の財閥に政財界を牛耳られた挙句、維新後の新国家のシンボルまで富士山にされてしまったことへの反発に違いない。「我々東国の庶民のもの」と信じ、朝に夕に拝み、富士講で詣で、錦絵にも描いてきた庶民的なこの霊山を、手の届かないところに置かれたような気がしたのだろう。富士山は再び西日本人によって「消費され始めた」のだ。東国人の喪失感やいかに。
 なお、この作品が発表された1908年の4年後、神田の銭湯「キカイ湯」のペンキ絵として静岡出身の絵師によって初めて富士山が描かれた。それは富士山は「日本国」の象徴である以前に、あくまで下町の江戸っ子の「おらが山」だと認識されていたことを示している。銭湯のペンキ絵は同時期に日本画家の横山大観が描いていた富士山のように、裃をつけたりネクタイを締めたりしてかしこまって拝見する芸術品ではない。漱石は近所の人たちと裸の付き合いのなかで自分たちを見つめる町内のご隠居さんのような富士山に戻ってほしかったのだろう。
 
太宰の「恥づかしい」富士山
 昭和になると次第に国家主義が強まる中、太宰治が自分の体験をもとに描いた短編「富嶽百景」が発表された。これがいかにも富士山嫌い、というより権威嫌いの太宰らしい。例えば彼が好きな富士の光景は人とは違う。「あかつき、小用に立つて、アパートの便所の金網張られた四角い窓から、富士が見えた。小さく、真白で、左のはうにちよつと傾いて、あの富士を忘れない。 」
 国家主義のシンボルだった富士山を否定はしない。ただし便所の窓から見る富士山を評価するのがいかにも彼らしい。ペンキ絵よりもさらに落ちる。一方で河口湖を背景にそびえる「完璧な」富士山を目にした彼はいう。
「あまりに、おあつらひむきの富士である。まんなかに富士があつて、その下に河口湖が白く寒々とひろがり、近景の山々がその両袖にひつそり 蹲 つて湖を抱きかかへるやうにしてゐる。私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。芝居の 割 だ。どうにも註文どほりの景色で、私は、恥づかしくてならなかつた。」
 風呂屋のペンキ画が、大正時代のわずか十数年で関東中に普及したとは知らなかったが、実はゲストとともに富士山を見るとき、特に完璧な構図の富士山をみると恥ずかしく思えてくるのは、私の中にいる大宰的な見方以外の何物でもない。そんな時は今はめっきり少なくなったトイレの窓からでも見たくなるものだ。そして彼がこの作品を書いた御坂(みさか)峠の天下茶屋(てんかちゃや)という食堂兼資料館からの富士山こそ、狼狽し、顔を赤らめてしまうほど美しいのだ。
 とはいえ、そんな富士山に対する彼の心境も進行につれ変化してくる。「私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。 『いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。』富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた。」
 茶屋の向こうの丘を数十メートル登ると、文学碑がひっそり立っている。「富士には月見草がよくにあう」とある。戦前・戦中の切手で、通称「富士桜」と呼ばれる、その名のごとく富士と桜をあしらった普通切手があった。そうした「富士には桜」という定番コンビネーションに異を唱えたかったのかもしれない。完璧すぎる富士山に負けないくらいけなげな月見草にこころ打たれるのは彼だけではなかろう。結局は大宰のような世紀のひねくれものでも認めざるを得ないもの、それが富士山なのである。

「南部富士」岩手山の「権威なき丸さ」
 富士山が古代からしばしば詩心や絵心を刺激してきた理由の一つに、そこが交通の要衝の東海道からほど近かったことが挙げられる。一方で古代より東海道以上に往来が激しかったはずの畿内、山陽道から九州北部にかけて、あのような円錐形の山はまれである。そもそも2000mを越える山は西日本には一つもない。
 それでは北国奥州はどうだろうか。まず「郷土富士」として挙げられる南部富士(岩手山)や津軽富士(岩木山)に関して言えば、残念ながらこれらはあまりにも畿内はもとより江戸からも離れていたため、松尾芭蕉すら「おくのほそ道」で通りがかっていない。よってこれらが近代の文壇に現れるのは、明治時代の石川啄木や昭和の太宰治の出現を待たねばならない。
 盛岡駅前には「一握の砂」に入れられている啄木の歌碑がある。
ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな
 「ふるさとの山」がどこか、明記されていないが、おそらくこのまちを西側から見下ろす「南部富士」岩手山とするのが一般的であろう。あるいは東側の姫神山という説もある。いずれにせよ、啄木はその短歌の繊細さとは似ても似つかぬほどの不義理なことを東京で行ってきた。当然のことながら周囲から反感を買う。そしてふるさとに帰って母なる岩手山に抱かれる思いがしたのだろう。
 富士山のように完全なる円錐型を標準とするならば、いつの間にやらそれに「日本国」という権威を背負わせてきたのが近代日本なのかもしれない。四国の旅友と静岡で富士山のふもとを回っていたとき、「富士山の麓に生まれ育ったらいつも見られているようで悪いことができなくなる」と言ったことを思い出した。それが富士山のもつ「権威」というものだ。「権威」ある富士山に比べると、岩手山はあまりにも権威がない。いや、富士山に比べれば不格好ですらある。しかしそうした無権威の「ふるさとの山」にこそ啄木は癒されたのかもしれない。ニューヨークタイムズの「2023年に行くべき52か所」の世界第二位がこの街だったのも、この「権威なき丸さ」のためだったとは言えまいか。逆に「観光地」という基準でみればやはり富士山周辺の町が選ばれてしかるべきである。

素直な日本人の富士山VS頑固な津軽人の岩木山
 「富嶽百景」執筆から5年後の1944年、つまり終戦の一年余り前、ふるさと津軽を久方ぶりに訪れたのが太宰治だった。出版社の依頼で「津軽」という紀行文を書くためだ。そこでも津軽平野の岩木山が出てくる。彼は郷土の先人の言葉をこう引用する。
「岩木山が素晴らしく見えるのは、岩木山の周囲に高い山が無いからだ。他の国に行つてみろ。あれくらゐの山は、ざらにあら。周囲に高い山がないから、あんなに有難く見えるんだ。自惚れちやいけないぜ。」
 しかし完璧な富士山をあれほど不自然なまでにこき下ろした彼も、ふるさと金木から見る岩木山には極めて甘い。
「や! 富士。いいなあ。」と私は叫んだ。富士ではなかつた。津軽富士と呼ばれてゐる一千六百二十五メートルの岩木山が、満目の水田の尽きるところに、ふはりと浮んでゐる。実際、軽く浮んでゐる感じなのである。したたるほど真蒼で、富士山よりもつと女らしく、十二単衣の裾を、 銀杏 の葉をさかさに立てたやうにぱらりとひらいて左右の均斉も正しく、静かに青空に浮んでゐる。決して高い山ではないが、けれども、なかなか、透きとほるくらゐに嬋娟(せんけん)たる美女ではある。
 津軽富士岩木山にせよ南部富士岩手山にせよ、重心がどちらかに偏っている。しかしあのひねくれものの太宰が、「や!富士。いいなあ。」などと分かり切った言い間違いをして反射的にほめている。また「富士山よりもつと女らしく」と、あくまでスタンダードとなった富士山と比べているのが、半分東京目線になってしまった在京津軽人の彼らしい。
 この本は大戦末期の1944年11月に発行された。しかし彼はすでに敗戦を、いやもっというなら自分と津軽の人々と読者の死を意識していたに違いない。その中で自分をはぐくんだ津軽の山を、こころから思った。あの太宰に「なんと言っても私は津軽を愛しているのだから」とはにかみを隠しつつ吐露させる作品だ。遺言のつもりで書いたのかもしれない。いや、当時のことだから、今日会えた人に二度と会えかもしれないという「強制的一期一会」は普通の感覚だったのかもしれない。それが如実に表れているのが締めくくりにある「さらば読者よ、命あらばまた他日。」である。
 死を覚悟してふるさとをおもったとき浮かんでくるのはあくまで自我にこだわる頑固な津軽の人々、そして自然に型崩れしてはいるが美しい山だった。それは比類なき形を持つ富士山に背負わされた公式ナショナリズムと、その下で自我を捨て、「花と散る」のを素直に受け入れる「模範的日本人」とは正反対のものだ
 「南部富士」岩手山と「津軽富士」岩木山。私はこの二つの山に、形を全うしていないからこそ国家主義、軍国主義に利用されない「素顔の富士山」のよさを見出すことができる。そしてそれは他にも全国に散らばる「郷土富士」たちに共通するものだ。

ナショナリズムを背負わされた富士山と横山大観
 雨か曇りで富士山が見えないときにゲストをお連れする場所として、辻が花という江戸時代に廃れた技法を復活させることで着物に息をのむほど美しい富士山を染めた久保田一竹の美術館がある。しかし冬など開館していないときには富士急ハイランドに隣接する「フジヤマミュージアム」にお連れするときもある。ここには富士山をテーマとした絵画がずらりと並ぶが、展示されている作品の中でも、富士山関連の作品数千五百を誇る横山大観は群を抜く。
 不幸なことに、富士山は戦時中「国威発揚」のアイコンとしての役割を担わされた。大観はなにも戦争に協力するためだけに富士山を描いたわけではないが、「彩管(絵筆)報国」を旗印に作品を売っては爆撃機、戦闘機計4機を軍に献上したところ、「大観号」と命名される「名誉」に浴したことは忘れられない。しかし明治、大正、戦前、戦中、戦後と彼は生涯をかけて富士山を描き続けた。時代は変わっても彼と国民の富士山に対する思いは根強かったからだ。

「あまりに、おあつらひむき」の新倉山浅間公園
 ところで訪日客をお連れする際に、私が正直なところどうしても苦手な場所がある。富士吉田市の新倉山浅間(あらくらやませんげん)公園である。富士山と塔、そして季節には桜の花が彩りをそえ、まさに「これぞ外国人の思うNIPPON!」であろう。ただ、そんな光景をみるたびに、太宰のいう「あまりに、おあつらひむきの富士である…私は、ひとめ見て、狼狽し、顔を赤らめた。これは、まるで、風呂屋のペンキ画だ。…私は、恥づかしくてならなかつた。」というくだりを思い起こしてしまうからだ。
 この光景は2010年代のSNS時代に世界に知れ渡り、ミシュラングリーンガイドの表紙にも採用され、今や富士山というとここからの風景、というように「出世」したが、普通の日本人観光客はまず訪れないし、そもそも存在すら知らない。ちなみにこの塔は「忠霊塔」であり、仏塔ではない。日清、日露、第一次世界大戦おび日中戦争、太平洋戦争における市内出身の戦没者1055柱を合祀し、1958年に建てられたもので、文化財とはいえない。
 「素晴らしい!ワンダフル!」と写真を撮るゲストに「これは仏塔か、神社のものか」と聞かれるたびに多少口ごもる。彼らからすると「敵兵」を祭るところだからだ。特にアジア系のゲストに対してはそうだ。塔の下にはひっそりと「殉國之塔」と彫られた石碑がある。ここに収められた戦没者たちも、まさかあの世で「敵兵」の子孫たちに写真撮影攻勢に遭うとは思わなかったろう。ふるさとの山を見ることなく亡くなった人々のことは全く考えもせず、富士山を引き立てるための「飾り」にされ、だれからも敬意を払われないこの塔に連れていく自分自身がなんともやるせないのだ。

二つの国の狭間で富士山を憎む李良枝
 逆にめったに紹介しないが、実は気になっている記念碑が塔から数十mのところにある。若くして亡くなったバブル期の芥川賞作家、李良枝(イ・ヤンジ)の文学碑である。1955年、このふもとの西桂町で在日コリアン二世として生まれた彼女だが、幼いころに両親が帰化したため、「日本人」田中良枝として育つ。しかし後に民族意識が芽生え、韓国に留学し、当時多くの韓国人から「被差別民の踊りなんて」と後ろ指指されながらも自民族の舞踊に魂を揺さぶられた。民族のこころを求めて韓国語も学ぶが、結局折々自分が日本育ちの日本語を母語とする者であることにもがく。同時に故国韓国を支配してきた「日本的なもの」に憎しみを覚え、その対象は自分が高校時代まで見てきたふるさとの富士山にまで及んだ
 ソウル大学を卒業した翌1989年、自伝小説「由熙(ユヒ)」で芥川賞を受賞し、ふるさとに戻ってきた。そしてその時の思い出をエッセイ「富士山」にまとめている。まず、そこに戻るまでの彼女の富士山に対する思いはこうだ。
「美しく、堂々として、みじろぎもしない富士山が、憎くてならなかった。」
 自らの血に流れる「民族」の意識からすると、富士山は「憎むべき日本」のシンボルなのだ。それでいて日本で生まれ育った彼女は身体感覚が「田中」という「日本人」ではあるのに、「李」という韓民族としてはそのシンボルを憎まねばならず、二つに裂かれてしまう。
「田中ではなく、李を名乗るようになってからは、日本の、朝鮮半島に対する苛酷な歴史の象徴として立ち現れ、韓国に留学してからは、自分のからだに滲みついた日本語や、日本的なものの具現者として押しよせてきた。私はひたすら富士山を拒んだ。一体、どこまでつきまとうのか、と幾度となくその姿を罵倒した。」
しかし自分を朝に夕に十数年間見守ってくれ、育んでくれた富士山である。この屈折は太宰が富士山やふるさとの岩木山に対してもっているものとは本質的に異なる。二つの国、民族に引き裂かれた李良枝に比べると太宰は趣味でひねくれているようなものに思える

富士山はただ在った
 エッセイの後半は心境が一転する。「けれども、実はいとおしかったのだ。そんな気持ちが許せなく、否定しようと抗ってはみたが、富士山は底知れぬ強さを秘めてびくともしなかった。時おり私は、稜線の美しさや威容にあこがれ、誇らしく思い返している自分に気づくようになった。富士山は、動かずに、深奥に猛火を抱き、聳えつづけている。そう在りつづけてきたと思うだけで、胸が熱くなり、頭の下がるような感動にふるえた。」
このようにようやくこころの奥底から富士山を受け入れると、旧友が問うてきた。
「次は、いつ日本に帰ってくるの?」ある友人が言った。「それで、今度はいつ韓国に帰るの?」友人にはそうも訊かれた。帰る。自分は日本にも帰り、韓国にも帰る。単に愛憎という言葉でくくってしまうのもためらわれるような富士山に対する複雜な思いとともに、この〝帰る〟という言葉にこだわり、苦しんできた過去の日々を思い返さずにはいられなかった。
 ここにおいて彼女は、日本も韓国も「帰る場所」となった。そして彼女はこころの中の富士山に素直に向き合うと、愛憎半ばするのは気のせいで、ただそこにあったことに気づく。
「憎み、恨み、拒んできた富士も、それでもいとおしく、胸が衝かれるほど懐かしかった富士も、過ぎ去った記憶の中の歪んだ姿として遠いものとなりきっていた。富士山はただ在った。」
そしてまとめた。
韓国を愛している。日本を愛している。二つの国を私は愛している。
 彼女の文学碑には「愛사랑(サラン) 人사람(サラㇺ) 生삶(サルㇺ)」と彫ってある。彼女は両国の人と暮らしを愛したのだ。ここでいう「愛」とはこの国のために命を捧げ、ふるさとの富士山を見ることなく「散華(さんげ)」し、忠霊塔に祭られている兵とはどうやら異なる。この塔に祭られている日本兵たちには、祖国は一つしかないからだ。自分を二つに引き裂く国はそこにはないからだ。
 いや、これに苦悩した人もいたのではないか。脳裏に南国「薩摩富士」開聞岳の姿がよぎったのだ。

「薩摩富士」開聞岳と「ホタル」
 薩摩半島の先端に円錐状に突き出る開聞岳。南東の長崎鼻という岬から見ると、ことの他円錐形の稜線が際立つこの山は霧島錦江湾国立公園の一部でもある。近くの知覧には大戦末期に神風特攻隊の基地があった。対岸の大隅半島側には鹿屋基地もあった。そこから沖縄などに向かって出撃する隊員たちにとって、最後に見る故国、別れを告げるべき対象がこの山だったに違いない。
 2001年に公開された高倉健主演の映画「ホタル」は彼ら特攻隊員を描いたものだ。彼らの中には朝鮮人隊員もいた。この物語は高倉健演じる山岡が、先に突撃して亡くなった朝鮮人上官、金山少尉(本名キム・ソンジェ)の遺言を、韓国の遺族の実家に伝えに行くというストーリーである。遺族にはなぜあんたのほうが死ななかったのか責められるが、山岡は本人からの遺言を伝える。 
「トモさん、私は明日出撃します。ありがとう。私はトモさんのお陰で本当に倖せでした。私は必ず敵艦船を撃沈します。しかし、大日本帝国のために死ぬのではなく、私の家族、朝鮮の家族のため、朝鮮民族の誇りをもって、トモさんのために、出撃します 朝鮮民族万歳。トモさん万歳。ありがとう。倖せに生きてください。私は永遠にトモさんの傍におります。トモさんは永遠です。さようなら。キム・ソンジェ」
 「トモさん」とは少尉の元恋人で、後に山岡の妻となった女性だ。そして少尉は「アリラン」を歌った。山岡らがこの遺言とアリランを聞いた場所が、開聞岳のよく見える海岸だった。それだけでなく、作品内では実に開聞岳がよく映る。山岡ら「日本人」は、それを祖国の象徴、富士山として見たかもしれない。しかし金山少尉ら朝鮮人隊員は薩摩「富士」が代表する日本のためではなく、富士山をいただく日本に支配されてきた愛する朝鮮民族のため、家族のため、そして恋人のために命を差し出した。同じ山を見て飛び立っても、その思いは全く違ったはずだ。そしてそのような話はおそらく李良枝も人づてに聞いていたことだろう。だからことさらに富士山に対する嫌悪感を持たねばならなかったのかもしれない。
 富士山がそのあまりに完璧な躯体のために背負わされたナショナリズムの重さに気持ちまで重くなってくる。

富士山とオーバーツーリズム:忍野八海
 富士山北麓、特に富士河口湖町と富士吉田市、忍野村はおそらく日本一のオーバーツーリズム市町村と言えるのではないか。もちろん訪日客の実数のみでいえば東京や大阪、京都などのほうがはるかに多い。しかし七、八万人しか住んでいない市町村にこれだけの訪日客が訪れるとなると、住民の生活に与える影響の大きさが計り知れないのだ。
 私自身通訳案内士としてゲストとともにこちらにお世話になる際、行く場所行く場所ほぼオーバーツーリズム状態である。それだけではなく、富士山本来の意義が失われるほど観光化されていることの地元文化への影響が未知数である。例えば忍野八海は地質学的にいえば富士山は降雨の約75%を吸収して地下の溶岩層に蓄え、その溶岩がここにまで流れ、その先端部分で八つに分かれて湧き出したものだ。そしてこの豊富で鉱物の成分が程よく溶けたこの清水は、飲用だけでなく、登山前の富士講信者たちによって身を清めるみそぎの場でもあった。
 しかるに今はどうだろう。みそぎをする人物は皆無で、水を飲むにも有料となった。そして何よりも神聖な場が屋台で買ったものを大勢の人が食べ歩きするスポットとなり下がっている。これでは富士山のみえる竹下通りだ。カネのため、生活のためとはいえ、これでいいのだろうか。とはいえ訪日客なくしてこの村はもたないのも事実である

五合目、ローソン、商店街などの迷惑客
 また富士登山を目指す人も多い。山梨県側の吉田登山口は、静岡県側の登山口の三合目に相当するという点、また吉田口のほうが登山できる期間が若干長いという点、そして何よりも登りやすい点もあり、一般登山客は特に吉田口を目指す傾向にあるという。五合目はまるで国際空港のように多国籍だ。登頂する人の中には防寒対策が全くできていないのに登って、低体温症になったり、危険な弾丸登山をしたり、さらにはシーズンを過ぎて山小屋も閉まっているのに立入禁止の山に登ろうとしたりする人もいて、やりたい放題である。しかし町々は原則受け入れている。そこは観光立県の山梨県(特に郡内地方)と各種農業、漁業、そして製紙工場なども盛んで観光だけに頼らない静岡県側の「本気度」の違いだろう。
 さらにSNS用の写真撮影に余念がない訪日客が群がるのが、建物の上に富士山がちょうど乗るような写真が撮れる富士河口湖町のローソンや、商店街という日本的な風景の上に富士山が覆いかぶさるような写真が撮れる富士吉田市の本町商店街などである。このため世界中の人々を引き付けているが、いずれも現場は道路にはみ出て写真を撮ろうとしたり、車が来るのに道を横切ろうとする人々でいっぱいで、地元の人々の堪忍袋の緒もきれる直前である。現に雇われているガードマンは実に横柄な態度だが、そうでもなければ訪日客のふるまいを制止することなどできまい。

単なる興味本位で歩かれる青木ヶ原樹海 
 一方で富士河口湖町に広がる青木ヶ原樹海は、英語圏ではsuicide forest(自殺の森)と呼ばれている。Aokigaharaといっても全く通用しない。ここはその他の観光スポットに比べるとさすがにオーバーツーリズム気味とはいえないが、単なる好奇の目にさらされている。方位磁石が狂うなどというのは俗説とはいえ、遊歩道から数百メートル分け入れば目印がないため戻れないというのは事実らしい。
 ただ、なぜここを自殺の場として選ぶのか考えようとする人はまれだろうが、自殺を考える人の身になり、民俗学的に分析すれば分かってくる。日本人は山中で亡くなった者の魂は森をさまよううちに浄化され、最後に山頂から昇天すると信じてきた。青木ヶ原で亡くなれば、そのうち富士山から昇天できるのだ。そこには極楽浄土があるはずだ。無意識に日本人の自殺者はそう思っているに違いない。
 溶岩層の上にたまったわずかな土に生えた木々には興味も持たずに、ここに樹木が生い茂り、美しい苔が全面を覆うのは、山全体が水を吸収するスポンジのようなものだからということにも気づかずに、そしてそうした日本人の死生観を知ろうともせず、訪日客は興味本位の動画を視聴し、ここをsuicide forestとして怖いもの見たさで散歩するにすぎない。

「蝦夷富士」羊蹄山ー「ニセコバブル」前
 富士山とは異なる形のオーバーツーリズム問題を抱える山がある。「蝦夷富士」羊蹄山のふもとに広がるニセコ地区(「ニセコ町」「倶知安(くっちゃん)町」「蘭越(らんこし)町」)である。三町あわせても人口は二万数千人ほどだが、そこにグローバルブランドのリゾートホテルが結集し、訪日客、特に世界の富裕層がバカンスを過ごす。特に冬季(12月から3月)には俗に「ニセコ価格」と言われる、東京の二倍の物価でも円安が後押ししてか、あるいはそもそも収入の高い人しか来ないからか、ホテルはもちろんバーもレストランも満員御礼という。
 私は実は一度しか行ったことがない。とはいえ「ニセコバブル」直前の2013年、しかもさらに、8月末にニセコ温泉郷の温泉付きリゾートホテルに宿泊しただけである。そのころは1ドル90円台であり、相場が4割落ちた昨今取りざたされるような海外の富裕層が闊歩するようなものは目撃していない。今思えばそれはニセコが日本人観光客にとって「よい時代」といえた末期のころだ。
 ゆったりとしたホテルで温泉に浸かる。ホテルのいたるところから羊蹄山が見えた。その富士山にも似た姿を見ると、やはり反射的に合掌礼拝である。そのころから気づいていた。私にとって山というのは中に入りこんでアウトドアスポーツを楽しむところではない。手を合わせて拝む対象なのだ。ただ、「内地」と異なるのは、私はここで倶知安神社には詣でなかった点だ。というのもそれは入植者が近代になって持ち込んだもので、しかも朝廷側の将軍阿倍比羅夫が祭られていたりするからだ。スキー場にも「ヒラフ」の名まで付けられている。先住民の気持ちを推し量るとどうしても神社に詣でる気にはならなかったのだ。そうした「政治的」なことよりも、ただただ羊蹄山の姿が尊かった。
 一方で町じゅう人工的な雰囲気が漂っていた。リゾートホテルだから当然といえば当然だが、北海道でよくある「開拓」という名のもとの自然破壊の結果がこのスキーリゾートであることは言うまでもない。

訪日富裕層天国
 それから数年後、「羊蹄山」は無視して「富裕層のためのスキーリゾート」としてのニセコのことをあちこちで耳にするようになった。特にコロナ後は、急激な円安と相まって訪日客が大挙して戻ってきた。みなが口々にパウダースノーの素晴らしさと滞在費の安さを褒めたたえるが、ここが国際的なスキー場に発展するまでの過程を知るにはポストコロナから二十年、私が訪れたときから十年さかのぼる必要がありそうだ。
 バブル崩壊後の十年間はスキーブームに陰りがさした。そして米国同時多発テロ以降、それまで欧米のスキーリゾートに滞在していたオーストラリアのスキーヤーたちが安全面を考えて、またパウダースノーを求めて訪れたのがニセコだったという。そして2003年にニセコリゾート観光協会が観光協会としては全国で初めて株式会社化し、「いかに観光で稼ぐか」に重点を置いて各事業を展開していった。その後世界中に広まったSNSの影響もあり、リゾート地としての魅力がうわさを呼び、オーストラリアだけでなく欧米、アジア各国から「アリのニセコ詣で」が始まった。
 それとまた同時進行で日本人用の旅館の跡地にコンドミニアムやホテルの建設が進んだ。しかしことはスムーズに進んだわけではない。ここはニセコ積丹小樽海岸国定公園である。国定公園である限り、新たなホテル建設には歯止めがかかった。ただし霞が関の環境省が全国一律に管轄する国立公園とは異なり、国定公園は都道府県が各地方の実情に合ったやり方で運営される。そこで協会が道庁と交渉してもともと旅館があったところに限り、ホテルが建て替えられるようにした。それが国定公園内であるにもかかわらず新しくグローバル展開しているホテルが雨後の筍のように現れた一つの理由である。
 通常のスキー場では整備されていない「バックカントリー」は安全を考えて立入禁止だが、訪日客のスキーヤーにやさしいニセコでは「外国人スキーヤーの目線」に応えてルールを守ればゲートから出て自己責任で自由に滑れるようにした。そしてトラブルの際に頼りになる警察官も英語や中国語を話してくれる。まさに至れり尽くせりの訪日富裕層天国である。

ニセコに百年前の上海を見た
 そしてホテルやコンドミニアムのオーナーや投資家は欧米人以外に香港やシンガボール、マレーシアの華人が多く、滞在客は欧米アジアの富裕層、アルバイトの季節労働者は東京の1.5倍の給料につられてきた日本人の若者、という、ある意味いびつな「役割分担」が出来てきた。日本の若者は確かに東京よりはるかに給料が高いとはいえ、ニセコの物価の高さに生活を満喫するわけにはいくまい。
 また、一部「ニセコ留学」に来る「内地」の日本の若者もいる。ここの英語スクールで英語を学び、普段から英語環境であるこの地は英語学習にうってつけなのだという。しかしこのグロテスクなまでの資本主義メカニズムのどこに、ただ英語が多少分かるだけという自分の身の置き所があるというのか。そもそもこの地は幕末までアイヌ語を話す人たちが暮らしていたはずだが、そのような痕跡はスキーリゾートの中にはほぼない。今後できたとしてもオリエンタリズム的に訪日客によって消費されるだけだろう。
 観光地のサンプルとして突出してグローバルなこの環境に興味を惹かれないわけはない。しかし私はどうしても冬には行く気にならない。雪道の運転が苦手なことと、「先立つモノ」が乏しいことはもちろんだが、それ以上に日本の庶民の私がそこに行っても、自分が落ち着ける居場所が見いだせないことははじめから分かっているからだ。逆に昔からこのスキー場をつかってきた「昭和のスキーヤー」たちは、この状況を見てどう思うだろうか。スキーリゾートの「発展」ととるか、「喪失」ととるか。
 この構造は何かに似ていると思ったら、百年前、中華民国時代の上海の租界に似ている。欧米や日本の勢力が不動産を買い占め、英語やフランス語や日本語を上海人に押しつけ、外国語が達者な者はそれなりに高給で雇われるが権力者か富豪でもなければ上には上がれない。法律はあっても外国人には治外法権が認められている。外国人は安い安いと酒や料理に舌鼓を打ち、地元の子どもはその残飯まで火を通して食べ、公園には「犬と中国人は入るべからず」と警告されていたというあの上海だ。そんな渓谷の標識はなくても日本の庶民は行くことを諦めてはいないか。

19世紀のアイヌ人が21世紀の和人か
 幸い富士山ではこのようなことはまだ目立っていない。ただ「ニセコモデル」によってニセコの地価も税収も上がり、雇用先も増えたため、第二、第三のニセコを目指して富士山麓の市町村はどうなるだろうか。国立公園、国定公園には「保護」と「活用」の側面があるが、ここでは「活用」に極めて大きく偏っているように思える。
 もちろんホテルや家庭の生ごみは微生物で発酵させて土に返したり、雪を活用した氷室を設置したり、火山なので地熱・温泉熱、そして太陽光など、自然エネルギーを活用してはいる。しかし例えば富裕層の宿泊客に毎日たっぷりと水を使われるため水不足が生じ、町民の水道料金が値上げされる。あるいは介護要員がホテルの季節労働に従事し始めたため、介護崩壊が起こっている。「自然にやさしい」のであればホテルの水の使用が制限を受けてもしかるべきではないか。「人にやさしい」のであれば介護要員の給料に補填されてもいいのではないか。
 そしてなにより、スキーヤーたちにとって「山」とはどのような存在なのか、私にはよくわかっていない。単なる滑って楽しむだけの場所なのだろうか。あの山に抱かれる幸せと畏れはないのだろうか。グローバル化によって隅に追いやられたかに見える21世紀の日本人労働者が、近代化によって隅に追いやられた19世紀のアイヌ人に重なって見えてきた。とはいえ、外国人なしにニセコは経済を回せなくなっているのも事実だ。もし私がニセコで働くとしたら、アイヌ人の山との付き合い方、古神道的な価値観などを武器にこの巨大なグローバル資本主義というものに立ち向かっていくのかもしれない。

「伯耆富士」大山ー富士山と同緯度同型の日陰の山
 富士山を中心に国立公園とは、山とは何かと考える旅も終盤となったが、私が初めて足を踏み入れた国立公園「大山隠岐国立公園」について語りたい。その中核にある鳥取県の大山は、実は富士山と緯度がほぼ同じで、いずれも北緯35度22分である。そして大山を西側から見れば、富士山とよく似ているため、「伯耆富士(島根県県側では『出雲富士』)」と呼ばれる。
 ただ一方は東日本の太平洋側で文化的にも「陽のあたる山」であったが、もう一方は西日本の日本海側で、「日陰の存在」に甘んじてきた。富士山が世界的にも知られると同時にオーバーツーリズムも抱えことでマスコミを騒がせるが、大山を訪問する訪日客がいたら、地元紙に掲載されるほど稀なことだろう。このように同一緯度にあるそっくりな山でありながら対称的な「もう一つの富士」について考えながら旅を終えたいと思う。

名山につきもの渡来人伝説「新羅から國引き」
 島根県安来市の実家から見わたせる大山は、子どもの頃から折に触れて行ったものだ。そのころ好きだったアニメがある。園山俊二原作の「はじめ人間ギャートルズ」だ。その中で「ジャイアンツ山脈の大巨人」という回がある。大平原の向こうに火山がボンボン噴火しているその風景をなぜか覚えているが、大人になってから気づいた。「ジャイアンツ」=「大」、「山脈」=「山」、つまり松江出身の彼が描いた「ジャイアンツ山脈」とは、松江からも見える「大山」のことだったのだろう。そして「大巨人」とは「出雲國風土記」に出てくる八束水臣津野(やつかみずおみつの)命という巨神であろう。
 この巨神は出雲國が小さいので、海の向こうの新羅や隠岐の島、そして能登半島あたりにも次々に綱をかけ、「国来(くにこ)、国来!」と叫んで「国引き」をしていったという。そして西には出雲の三瓶(さんべ)山、東には伯耆(ほうき)の大山を杭にして綱を結び付けた、という非常に興味深い話だ。大山から三瓶山までを中心とする古代出雲王国は、北陸や朝鮮半島との交流が頻繁だったことを意味することは明らかだ
 富士山および郷土富士を歩いていると、かなりのパターンが確認できる。まずは富士山の徐福伝説や白山の泰澄のように渡来系の人々のランドマークになったであろうことだ。この大山も、「出雲國風土記」によって新羅との関連性が示唆されるだけでなく、すぐふもとには妻木晩田(むきばんだ)遺跡という弥生時代の渡来系の遺跡が横たわる。そして大山から奥出雲にかけて盛んだったたたら製鉄の技術も朝鮮半島渡来である。

名山につきもの神仏習合「地蔵菩薩」と「大己貴命」
 次に挙げられるのが、山に宿る神は本来阿弥陀如来や大日如来、観音菩薩などだったという神仏習合である。日光三山の女峰山は田心姫にして阿弥陀如来、立山はイザナギにして阿弥陀如来、白山は大己貴(おおなむち)命にして阿弥陀如来だった。大山も大山寺と大神山(おおかみやま)神社がすぐ近くにあるが、神社の名の「大神山」とは大山の呼称の一つ「大神岳」のことであり、これも宿る神は白山と同じ大己貴命であるが、本地佛は地蔵菩薩である。
 なぜ地蔵か。伝説によると、ある猟師が大山で見つけた金色の狼に弓矢を向けると、地蔵菩薩が現れた。すると狼は尼僧に姿を変えてこの地に地蔵を祭るように言ったため、ここから地蔵信仰が始まったという。ちなみに「大神」山神社は「狼」山神社なのだろう。この話は立山のクマを弓矢で射貫いたら阿弥陀如来になったため、猟師の若者が出家したことに実によく似ている。
 ところで標高750mほどの大山寺のあたりから上は、西日本最大のブナ林が広がる。そして標高約1600mにまで行くと日本最大のキャラボクが群生する。そもそも頂上まで1729mと、富士山に比べると2000m以上低いが、富士登山と比べると常に緑の中を歩けるのがうれしい。「山は緑のダム」という言葉があるが、その水の豊かさを実感させてくれる。逆にいえば砂礫だらけの富士山は修行場以外のなにものでもない。
 水といえば、地蔵は衆生に恵の水を与えると伝えられるが、それは牛馬にも与えるというので、牛飼いや馬飼いがこの地を訪れるようになった。そのとき大山で放牧された牛馬に彼らが注目したところから、ここは日本有数の牛馬の市が立ったという。さらに奥出雲や大山周辺ではたたら製鉄が盛んだったが、できた鋼を運搬するにも伯備線が全線開通したのは1928年、奥出雲の木次線に至っては37年まで待たねばならなかった。つまりそのころまで山陰の中山間地では運輸の中心は牛馬だったのだ。ただ明治時代の最盛期には一万人が集まったという大山の牛馬市も、木次線ができるとともになくなった。運輸は牛馬から鉄道へと置き換わったのだ。

名山につきものの文学「暗夜行路」
 次に、富士山はいうまでもないが、岩木山の太宰治、岩手山の石川啄木のように、名山には文学がつきものである。大山はどうか。近代にいたるまで人々はこの大神山神社の遥拝所で大山を拝むのが主で、登山が大衆化したのは近代になってからという。大正三年には白樺派の志賀直哉も登頂しており、そこで明け方にみた光景に心動かされる。そして1937年に完成させた彼の唯一の長編「暗夜行路」のクライマックスにはそのことを思い出してこう描写される。
「中の海のむこうから海へ突き出した連山の頂が色づくと、美保の関の白い燈台も陽を受け、はっきりと浮び出した。まもなく、中の海の大根島にも陽が当り、それが赤エイを伏せたように平たく、大きく見えた。村々の伝灯は消え、その代わりに白い烟(けむり)が所々に見え始めた。しかし麓の村はまだ山の陰で、遠い所より却(かえ)って暗く、沈んでいた。」
 二十年以上前見た光景ではあるが、目の前で光景が動いているのが分かるような描写だ。
「謙作はふと、今見ている景色に、自分のいるこの大山がはっきりと影を映している事に気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上って来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気づいたが、それは停止することなく、ちょうど地引網のように手繰られて来た。地を嘗(な)めて過ぎる雲の影にも似ていた。中国一の高山で、輪郭に張切った強い線を持つこの山の影を、そのまま、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動を受けた。」
 そして自分が祖父と母の「不義の子」であったことに悩む主人公の謙作は、この光景を見てから全てを許そうと思うようになるが、その直後倒れてしまう。
 日本人が山に登るのを行楽やスポーツととらえたのは昭和の「国立公園時代」からであり、それ以前は「一度山に『戻る』ことで疑似的に死に、新しい自分に生まれ変わってこの世に戻る」ために登る、いや、山の神々に会ってもらいに登っていたのだ。富士山で言えば、太宰は「富嶽百景」の旅の後に結婚を決意した。李良枝もふるさとの富士山に戻って、日本も韓国も「帰る」ところという結論を得、日韓の狭間で苦しめられてきた自分から新しい自分になった。山というのは決してリゾート地ではなかったのだ。

名山につきものの火と水「火神岳」と「ミネラルウォーター」
 また、日本人にとって山とは「火と水が交わるところ」でもある。富士山はそもそも活火山であり、しかも噴火は秒読み段階である。しかし北には富士五湖をたたえ、南には三保の松原や日本平からの海の向こうの富士山を拝む。そして忍野八海や白糸の滝など、あちこちにあふれる湧き水で身を清めるのだ。白山にも百四丈滝、手取川、日本海が、そして立山にいたっては黒部湖、黒部峡谷、黒部川、称名の滝、常願寺川に富山湾など、「火と水」、つまり陰と陽の組み合わせが大きな特徴だ。
 ところで大山は有史以来、いや縄文時代にすら噴火したことがない。前回の噴火は約二万年前という。しかし「出雲國風土記」には火神(ひのかみ)岳と呼ばれている。噴火したことはないがまるでそれがレジェンドとなって人々の記憶に継承されてきたのだろうか。あるいは北側の崩壊しつつある断崖絶壁を見て、かつての大噴火をイメージしたのかもしれない。ここで大己貴(=大穴持〈おおあなむち〉)命が神としてさだめられていることでピンときた。「大穴」、つまりカルデラのことではなかろうか。そういえば同じく彼が祭られている日光男体山にもカルデラがあり、白山大汝(おおなんぢ)峰や立山大汝山にもカルデラ湖がある。単なる偶然とは言えまい。
 一方ミネラルウォーター生産額一位、二位の山梨県、静岡県ほどではないが、大山を有する鳥取県の生産額もかなりのものだ。想像上の「火」と現実世界の「水」の調和こそ大山の醍醐味なのだろう。

自然科学主体→神仏主体の国立公園
 最後になるが、20世紀の国立公園化以来「保護」と「活用」の論争はあっても、山そのものをご神体として崇めるという民族の魂の琴線に触れる部分をあまりにおろそかにしてきた。そして山を、川を、海を、あまりに粗末に扱ってきた。富士市田子の浦から富士山を見たことがある。醜悪なまでの工場群と煙突、そしてそれに閉口するかのように、たとえるなら親不孝な馬鹿息子の愚行に対して何も言えないまま立ちすくんでいる母親のような富士山である。現在は落ち着いたとはいえ、1960年代は大量の煙と汚泥でまみれたこの場所にいるのが、いや、なすすべのない富士山を見るのがつらかった。
 「出雲國風土記」によると、高天原の天照大神が出雲の大己貴命に「國譲り」という名の割譲を求め、両国の力持ちが相撲で勝負した。負けた出雲は出雲の南東、大山のすぐ西側の長江山に立って宣言した。
「我造りまして命(しろ)す国は、皇御孫命(スメミマノミコト)に平也所(タイラカナリシトコロ)と知り依(ヨサシ)て奉る。但し、八雲立出雲国は我静まり坐す国にて青垣山廻らし賜いて、玉珠(ギョクシュ)を置き賜いて守(モリ)す。(私が国造りをして治めてきた国ではあるが、天照大神に禅譲するとしよう。ただ、八雲立つこの出雲國は、私が静かに住む國として、青々とした山を巡らせ、玉のようにして守ろう。)」
 神々がまします山々を拝むと同時に、国立公園に指定されていない場所は工場の排気ガスとヘドロで汚され、またある場所では森林が伐採され、さらにある場所はスキーやレジャーのために現金化されているのを見た。神々は神仏をも畏れぬ近代資本主義に兜を脱いだのか。私にはそうは思えない。大己貴命が出雲だけは守ると宣言したように、近現代の山の神々は国立公園、国定公園内だけは人間の蛮行から守ろうとしてきたように思えてきた。
 国立公園を守るのは人間だけか?いや、神仏があくまで主体だと信じることはあまりにファンタジーだろうか。ただこれまでのような人間中心主義のアメリカ型「ナショナルパーク観」ではいずれ詰んでしまうだろう。
 もう一度、山に戻ろう。そして神仏と出会おう。私は富士山や日光を案内する訪日客にそのように呼びかけている。(完)


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