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「言わなくてもわかるでしょ?」と「仕事だから」

 ある風景を誰かと見ているとして、自分が見ているものと同じものを隣にいる人が見ているとは限らない。ぼくらは顔見知りだとついつい同じ価値観や考えをもっていると勘違いしてしまう。たしかに共通の趣味や好みはあるだろうけれど、それはたまたまお互いの視点がそこに集まっているからにすぎない。その外側には数多くの〔違い〕がある。

 ぼくらは小さな集団ほど同じ価値観や視点をもっていると思い込んでしまう。小さな集団であるからこそお互いを知っているからだ。価値観や視点、そして共通の意味をもつ言葉を多く共有していると、ノンバーバルコミュニケーション(言葉を用いないコミュニケーション)が発達する。「言わなくてもわかるでしょ?」の世界が広がっていく。「言わなくてもわかるでしょ」「言わなくてもわかってる」、つまり以心伝心だ。以心伝心でなんでも伝わっているつもりでいると、実際には何も伝わっていないことが多々ある。それは長年一緒に暮らしている家族にだってある。いや、家族の間であってもだいたい〔何も伝わっていない〕ことの方が多い。

 人間は自分の知らないことを行うことはできないと、ぼくは考えている。そんなの当たり前だろう! との外野からの言葉が聞こえてくるような気がするが、果たしてそうだろうか? 「言わなくてもわかるでしょ?」の世界は「知っていて当然」の世界だ。知っていて当然と思われていることは、誰もあなたに説明しない。当然知らないことはできないから、失敗が起こる。「言わなくてもわかるでしょ?」の人たちは失敗した人がなぜそのことを知らないのかがわからない。「なんでそんな当たり前のことがわからないの?」というのが彼らの反応である。

 たしかにそう言いたくなる場面もあるし、わかっておいてよって思うことだってある。しかし、「言わなくてもわかるでしょ?」に頼りすぎてないか? と最近思うのだ。たとえばわかりづらい説明、使いづらいシステム、説明不足の資料、訂正した内容がどこにあるかわからないシステムなど、普段の我々の仕事では綺麗にデザインされているシステムを利用している人がばかりではなく、むしろ〔使いづらい/わかりづらい〕が氾濫しているのではないか?

 わかりづらいや使いづらいは人間の集中を乱すし意識を散らしてしまう。当然散った意識では見落としが発生することがあるし、使い方がわかりづらければどこに正解があるかわからず、結局誤った対応をしてしまうことだってある。そんな失敗をした人に対して、多くの人は「仕事だからできて当然んでしょ」と片付ける。「仕事だから」というのは仕事だからわかってて当然でしょということであり、つまるところ「言わなくてもわかるでしょ?」と言っているのと同じだ。

「仕事だから訂正箇所が入っている資料を見つけるのが当たり前でしょ?」

「仕事だから、それ知っていて当然でしょ(一度も周知されていない情報について)」

 特に自分の仕事をあまり理解していない上司がその言葉を連発する傾向があると思う。自分がわかりやすく伝えれていないことを部下の責任に押し付けるというわけ。自分の無能性を他人のせいにしたがるタイプはこの「仕事だから当然」との考えを持っている。そしてその多くは自己完結しているのではないかとぼくは思っている。なぜなら自分がわかる=他人もわかると思い込むのは楽だから。他人にどう伝えれば伝わるかを考えなくても良いからだ。

そもそもぼくらは一人一人違う年代に生まれ、違う地域で育っている。たとえ言語が共通だったとしても育った環境で言葉の意味が違うし、知識にも隔たりがある。違う言葉を持っている人、違う視点や価値観を持っている人にどう伝えるのか? どう伝えれば伝わるのかを考えないと、結局のところ「言わなくてもわかるでしょ?」とお互いがそっぽを向き合ってしまうと思う。

「言わなくてもわかるでしょ?」と思うのは、そう思い込む人がたんに楽をしたいだけで、ただの怠慢だとぼくは思っている。

『壊れるほど愛しても1/3も伝わらない』SIAM SHADE

この言葉の通り、愛ですら1/3も伝わらないのなら、ぼくらはもっと相手に「言わなくてもわかるでしょ?」ではなくて、〔伝えること〕を意識して語りかけないといけないんじゃないかな。ぼくは最近そんなことを考えている。


(追記)

表紙写真はアーティスト 伊東 恭子さんの作品の一部です。

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