未知を未知として描くことへの違和感

昨年のTHE MATCHから一年の時を経て武尊が復活した。

パリのゼニスアリーナで行われた大会は、現地時間の15時頃に開会し、日本時間に合わせて最初の三試合をメインに持ってくる構成だった。武尊が華々しく復活する様子には感動を覚えたが、その物語が成立する背後にフランスを「未知で不気味な空間」として描こうとする思惑を読み取ってしまい、強い違和感を覚えた。

フランスのステレオタイプなイメージは「オシャレ」に尽きるであろう。日本人のアンケート調査でも、フランスを語る際に「オシャレ」に言及する例は多い。他方でフランス語業界で話題に上るのは受講者の減少であり、フランスは我々の日常から遠ざかっている。少なくとも今現在の日本においてフランスがかつてと同様の「オシャレ」のイメージをまとい、人々の憧れを惹きつけているとは考えにくい。そしてこの放送でフランスは完全なる「未知」の地として位置付けられた。

Abemaの独占放送であった『Impact In Paris』で執拗に描かれるのは、日本とフランスのディスコミュニケーションだ。試合前の会見場には通訳がおらず、フランス語は未知の言語として「アウェイ」を強調する。フランス側とのミスマッチが次々に描き出され、武尊とともに試合を行う大雅の対戦相手が急遽変更になったことが不可思議に伝えられる。

フランス側のプロモーターの思惑は不明であり、僕は出来事の背景を想像するしかない。だが交渉があったにせよ、有無を言わせぬ強引な取り決めが差し挟まれたにせよ、冗長なまでの「試合前のスタジオ放送」の中でフランスと日本の調整はまったく伝えられなかった。フランス語は日本側にとっての不穏さを際立たせるための正体不明の言語として映像の中を飛び交っている。かくして我々の前には「未知」で「不気味」なフランスを相手に孤軍で戦う武尊の物語が提示される。

パリの大会の開会からショーが始まっていく。段取りがわからぬ我々は、慌てふためく日本語実況に駆り立てられるように、不穏なセレモニーを鑑賞する。段取りがわからず、放送の予定は狂っていき、日本とは勝手が違う入場やゴングも不穏さを高めていく。両者の文化の「差」を仲介する者はなく、アナウンサーは異文化に翻弄される。フランス語のアナウンスは訳されることなく、日本のスタジオは素直に「言葉の問題があるから」と述べ、文化と言語の断絶を受け入れる。

未知の土地で勝利した武尊は暗いリング上で得意のムーンサルトを決め、マイクを手にして「フランス語」で客席に呼びかける。「ボンジュール、ジュマペールタケル、メルシーパリス、ビバラフランス!ビバラフランス!」その言葉は完全にカタカナフランス語だ。その様子を見て、スタジオの日本人は「フランス語を勉強していたのですね」と微笑ましげに語る。

武尊の挨拶に会場は沸いた。だがカタカナのフランス語は日本語でしかなく、フランスの中で宙に浮かぶ。日本とフランスの二つの文化は異質なもののまま、断絶が解消することはない。捏造された「アウェイ」に孤軍で立ち向かう勇者の悲壮な物語は、はっきり言って不要な装飾だ。一年前、自らの心身の状態を見定め、休養を経てリスタートを切り、強敵を前に勝利した武尊の「本質」は、ただ武尊の中にある。僕にとって武尊は武尊であるだけで十分だ。

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