祝祭の地で憂いを求める

妻の実家の宮城県松島町に一週間ほど滞在している。

大阪で便利な生活に埋もれ、たまにWi-Fiもない田舎に滞在すると、あらゆるものがリセットされていく。先週からの滞在に身体が順応し、睡眠時間が少し長くなった気がする。

自宅を離れると、得意のコンテンツ受容が止まってしまう。勉強用の書籍を数冊持ってきた以外はKindleに入っている娯楽本だけだし、サブスクリプションの動画もなければ映画館も遠い。サッカー観戦もできず、スポーツは実家の親類と楽天イーグルスの話をするにとどまる。

松島町は古来より祝祭的空間であり、「松島」の地名は歌に詠み込むだけでポジティヴなイメージを喚起する「歌枕」だった。久々に子供たちと遊覧船に乗ったが、眺める海は美しい。道沿いは観光客に溢れており、外国籍の人で溢れている。もちろん、時折フランス語も聞こえてくる。青い海を前に観光客で賑わう松島は、現代においても「祝祭」の空間だ。

このような贅沢な空間にあって、僕はどうしても「憂い」を求める。終戦の日が近いこともあるだろうが、海に昏さを求め、寺院に死者を探す。祝祭的空間の中で秋の季語を求めては、外観の深層に寂寥を見出そうとする。

祝祭的空間の背後には、地方都市の暮らしが潜む。観光地を離れると、店は潰れ、交通の便も悪く、屋外に出ても容易に人に出会うことはない。子供との遊び場に困り、結局電車に乗って松島を離れる。そのような暮らしと遊離した祝祭的空間は、一種の虚構として僕の前に立ち現れる。途方もなく美しい海と島を眺め、その景観から足下に目を向けては、自分自身が内包するネガティヴな本質と対峙する。結局どこへ行こうと、印象に昏さを織り交ぜる癖は直りようがない。

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