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移動無き時代の国際文化学

次男が無事に誕生し、妻の入退院のバタバタの中で長男の保育園を再開させてもらった。オンライン授業と家庭のことをこなすと時間が尽きるのだが、同時に30分〜1時間ほどの研究時間が取れるようになり、ようやく自分の仕事が戻ってきた。時間を工面しなければ仕事ができないところが大学に所属する研究者のつらさだろう。

産院は感染症対策で立ち入りを制限されている。家族に会うことも難しい世相だ。ましてや国を跨いだ移動など不可能に近い。2月以降、韓国での新プロジェクトが中止となり、移動が制限され、今に至る。ヒト・モノ・カネ・情報の国境を越えた往来がグローバリゼーションの内実であるとすれば、ヒトの移動が妨げられた我々は期せずしてローカリゼーションの只中に投げ入れられたことになる。

昭和10年代、堀辰雄は外国文学を耽読する傍ら、折口信夫の影響を受け、大和(奈良)の寺社仏閣を探訪した。気軽な移動が不可能であった時代、堀の滞在は長期に及び、ホテルを拠点としながら妻に書籍の取り寄せを依頼するなどしていた。その様子は『大和路・信濃路』と昭和16年の書簡集でうかがい知ることができる。

あれほど海外文学を読んだ堀は、フランスを実際に知ることがなかった。日本に身を潜めながら海外文化を読み解き、フランス文学者の描写から自分の感覚を研ぎ澄ましていく。堀の「移動無き西洋文学読書」が、表面的な観光以上に異文化受容を推し進め、その経験は昭和16年当時に大和の寺社仏閣を前にした「視線」にすら影響を与えていくことになる。

今、海外への移動を妨げられ、自宅の中からメディア(=媒体)を通じたコミュニケーションに精を出す我々は、ひょっとしたら20世紀初頭の作家たちに通じる状況に身を置いているのかもしれない。そんな無責任な想像に耽っている。

この機会に「堀辰雄のプルースト受容」という研究テーマから少しはみ出し、小林秀雄と中村真一郎を探っている。特に「1946・文学的考察」での中村の言説に興味が向かう。当時の文学者を追体験しながら、移動無き「彼岸」の文化と自分の関係を改めて問い直している。

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