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「遠く」と「近く」のあいだに存在するもの

とりたてて理由もなく、陳舜臣の『中国の歴史』をめくっている。この本に限らないが、中国文化を扱う作品に関心が向く。思春期には定番ではあるが吉川英治の『三国志』を夢中で読んだ。情景描写、漢詩の引用、書き下し文などに心が奪われる。

そもそもフランス文学を研究対象としている。ヨーロッパという「遠い」世界は、若い頃の自分にとって完全なる未知の世界であり、ファンタジー小説のような風景には強い憧れを持った。そしてヨーロッパに関心が向かえば向かうほど、反動のように日本文化に惹かれていった。現在、堀辰雄のプルースト受容を第一の研究課題とし、「大和路」を探究することを理由に飛鳥や橿原の魅力に囚われている。また、出身地から遠く離れた場所で暮らしている反動か、青森の地域文化にも強く固執してしまう。

僕という人間は、フランスと地元という両輪を回しながら生きているようだ。遠くの異文化に憧れ(対異文化ベクトル)、その影響を受けた目で日本を眺める(対自文化ベクトル)。自分自身の関心を「フランスに影響を受けた日本人作家」に踏襲し、自己分析を行うように作家の世界をなぞっていく。「近く」は「遠く」と同様にわからない。ゆえに「近く」と「遠く」の両端を見つめ、考察を紡いでいく。

だが、中国への関心はどのように位置づけられるのだろうか。足を踏み入れたことのない異邦でありながら、原風景を求めるように漢詩を読む。山野や寺院や田舎町の者写真を眺め、違和感と親しみを同時に感じる。

日本とフランスのあいだに存在する文化の重要性に今さらながら気がつく。故郷の色を残し、異邦の入り口を感じさせるような、「近く」と「遠く」のあいだ——それは中国文化の半歩先にある異文化の存在を伝えてくる。自分が身を置く場所からプルーストの生きた世界まで、グラデーションのように文化が続き、文化と文化のあいだの「色」が混ざり合う。

そういえば今年の二月は韓国でプロジェクトを進める予定だった。コロナ禍はグラデーションをぶつ切りにし、近くの異邦とのあいだに「壁」を作り出す。移動がままならぬ状況にあって、近くの異邦への関心がこれまで以上に高まっていく。近くから、一つずつ遠くへ進む——コロナ禍で断ち切られたプロジェクトを少しずつ動かしながら、「遠く」と「近く」のあいだに存在するグラデーションをゆっくりと歩く準備を始める。

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