断絶し、創造を繰り返す

ここ一ヶ月ほど、あれこれと映画や本を読んできた。ハイペースで作品に接すると記憶がぼんやりとしてしまうが、残念なことに「ひどすぎる作品」の衝撃は他を圧倒する。

本作はこの世のものとも思えぬ駄作である。あらすじは「治安維持法の中で思想を捨てることを迫られ、若くして死んでいった女性の生涯」であるが、あらゆる角度において酷い。ここまで酷い作品は珍しい。

あらかじめ言っておくが、僕は思想的立場で作品の評価を決めることはない。僕自身が共産主義を賞賛することはないが、作品が優れていれば素直に評価する。だが本作は「共産主義の理想」を若い女性に託し、その他の世界を悪辣に描いた安っぽい悲劇以上のものではない。イデオロギーをなぞるようなセリフにはリアリティが感じられず、唐突に挿入されるコメディは興ざめだ。ナレーションの視点は次々と変わり、作品構造も一定しない。なによりも主人公が命を賭したイデオロギーが作中で吟味・議論されることがなく、不可侵で絶対的な正義として掲げられている点には疑問を抱かざるを得ない。

「貧困は資本主義のせいであり、共産主義により社会は良くなる」など、20世紀を経た我々が信じられるはずもない。むろん共産主義およびマルクスの解釈には、現代の社会において参照すべき要素もあるだろう。とすれば思想を現代的に解釈する必要があり、その際に作品内で議論が生じていく。だが作中ではそのような「読み直し」が測られるわけでもなく、共産主義はあたかも貧富の二項対立を解消するエクスカリバーであるかのように描かれている。

過去にイデオロギーに狂った女性の姿は「悲劇」であり、現在の社会矛盾を解き明かす鍵として参照すべきものではない。過去から未来を貫く揺るぎない真実など、易々と見つかるはずもない。僕らは時代に飲み込まれ、否応なく変化する。現在の立ち位置の中で見出したものと新たな関係を結び続けることで、僕らはようやく前に進むことができる。イデオロギーの非説得的な称揚からは距離を取り、現在の中に新たなものを「創造」することが求められる。

さて、長い前置きになったが、本題はここからだ。

『ゴジラ-1.0』は、戦時中/戦後の社会変化で「断絶」に見舞われた人々が、新たな「創造」へと向かっていく作品だ。こちらは大傑作である(同じ値段だぞ!)

物語は特攻兵・敷島が機器の不調を偽り、大戸島の整備基地を訪れる場面から始まる。特攻ができずに逃げた敷島は、夜に巨大生物ゴジラの襲撃を受け、整備兵たちが死んでいく光景を前に、戦闘機での応戦もできずに震えるだけだ。戦争が終わり、自らを許せぬまま荒廃した日本に帰った敷島の前に、空襲孤児を連れた典子が現れる。三名は血のつながりを持たず、籍も入れぬまま生活を立て直していくが、そこに水爆実験の影響で巨大化したゴジラが再び現れる——

戦後の空気の中で、人権思想を当たり前に享受している僕らは、特攻が歴史の悲劇であることを十分理解している。特攻で命を捨てられなかったこと、そして巨大生物を前に怖じ気づくこと——その一つ一つの行動は、戦後の僕らには当たり前すぎるものだ。強大な力を前にしたときの個人の弱さを推察するには、戦争を思い描く必要すら無く、社会の理不尽さを一つ二つ思い出すだけで事足りる。では僕らは簡単に自らを変化させ、理不尽さから距離を取ることができるだろうか?現実は、圧倒的多数の人が理不尽に従属し、マジョリティの価値観へと自分を当てはめようとする。そのような僕らが、孤児を連れ込んだ典子と結婚できずにいる敷島を批判することなどできはしないのだ。

戦後の日本をさらに荒廃させたゴジラは、日本人に価値転換を迫る存在でもある。軍備を放棄し、武力を持たぬ日本は、民間の力によってゴジラを倒さねばならない。将兵の命をいとも簡単に武器へと変質させた日本の価値観は、この場面で大きな転換を余儀なくされる。国ではなく民間が、命を捨てるのではなく生き延びるために、これまでとはまったく異なる方法を受け入れてゴジラに直面せねばならない。そしてこの物語は、過去のしがらみを捨て、孤児を我が子として受け入れることを敷島に迫るものでもある。自分が新たな家族を受け入れることを迷い、自分の悲劇を意味づける敷島の態度は、運命論のようなナルシシズムにも見えるが、多くの死を目の当たりにした敷島を嗤うことなどできはしない。そのような内奥の戦いを経て、敷島はついに過去の常識と決別し、そして荒廃の地に「創造」が実現する。

他方、冒頭で掲げた「駄作」はどうだ?共産主義者・伊藤千代子の死を美化し、「変節」した人間を悪辣に描く行為は、共産党が散々批判した戦前のイデオロギー、すなわち特攻を美化し、逃げ帰った者を侮蔑する態度と同種のものだ。むろん人間の精神は自由であり、他者の内面をコントロールすることなどできはしない。『ゴジラ』において空襲で家族を失った登場人物・澄子が見せたように、帰還兵をなじることが可能であるならば、共産主義者が戦前の運動家の変節をなじることもできよう。だが澄子は敷島の新たな家族=孤児を前に変化する。その態度が敷島の家族を支え、澄子自身も前進していく。

僕らが向かうべきは、過去に固執するノスタルジーか、新たな価値のクリエイトか——敷島は過去との断絶を経て創造を繰り返す。その戦いを目の当たりにした僕の答えはもはや明白だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?