空と地を繋ぐ

子供の小学校の校内放送で「白鳥の湖」が流れるらしい。そんな折、近所のコンサートホールでキーウ・クラシック・バレエの公演があったため、子供と二人で鑑賞してきた。バレエを見るのは初めてである。

僕は文学研究をしているが、文芸以外のところではポピュラーカルチャーに接する機会の方が多い(いや、文芸もエンターテインメント系を読むことが多いが)。だがたまにクラシック音楽に触れると演者の技量に圧倒される。過去から受け継がれた技術を教育し、個々の演者が高いレベルで再現をする様子はやはり圧巻だ。クラシックバレエを演じる人々は、幼少期からのトレーニングの継続により、およそ常人には考えられないほどの超人性を獲得する。

セドリック・クラピッシュの新作『En corps』は『ダンサー・イン・Paris』という無粋な邦題を付けられた。フランス語でen corpsとは「一丸となって」を意味する。またこの発音にはencore(アンコール/まだ、もう一度)の意味が含意されている。僕が邦題を付けるなら『アンコール』とする。だいたいこの作品の舞台の半分はブルターニュであるからパリの話だと言えない。

主人公エリーズは、パリ・オペラ座で主役を務めるバレエダンサーである。いわばメインカルチャーのトップの実力を持つ。エリーズは公演中に恋人が団員と浮気しているところを目撃し、動揺して転倒してしまい、足を剥離骨折する。疲労の蓄積が貯まった足は長期の治療を強いられる可能性があり、上り詰めたトップの座を退くことを余儀なくされる。弁護士の父はエリーズに堅実な人生を勧めてくる。バレエ界は、技術不足、年齢、怪我などを理由に立ち去っていく人間が後を絶たない。エリーゼはアルバイトしながら役者を続ける元バレエダンサーの友人サブリナの紹介により、ブルターニュの宿泊施設で料理補助の仕事を手伝うことにする。その施設でコンテンポラリーダンスの一団が合宿をすることとなり、エリーゼはバレエとは異なるダンスに惹かれていくことになる。

本作はバレエとコンテンポラリーダンスが対比されているが、両者の優劣は描かれない。強調されるのはその特質の違いだ。登場人物の一人がバレエを「空」、コンテンポラリーダンスを「地」のイメージで語る場面は非常に示唆に富む。価値の上下ではなく、二つの踊りは空間的な上下に紐付けられる。

僕がキーウのバレエを見て一番驚いたのは、演者の圧倒的な跳躍力だ(バレエでは当たり前のことかもしれないが、なにぶん疎いので)。そしてエリーゼの怪我も跳躍の失敗による。バレエは上を志向する——エリーゼの心を悩ませるのはバレエ界の「上」に上り詰めた自分がその地位を追われることだ。バレエの花形はエトワール(étoile/星)と呼ばれており、エリーゼは幼少期より頂点を目指してレッスンに励む。空は広大なものであるが、エリーゼが上を志向するほど先端は狭くなっていく。その極点が「星」だ。

「星」を目指していたエリーゼは、怪我によって夢を奪われ、パートナーとも決別する。痛む足で地面を踏みしめるエリーゼに声をかけるのは、バレエから去っていった友人たちだ。星を目指す空から、エリーゼは一転して広い大地へと回帰する。コンテンポラリーダンスとの出会いにより、エリーゼは新たな関係性に接続し(en corps)、ダンサーとして再起するのである(encore)。

「地」と結びつけられたコンテンポラリーダンスは、死の主題を内包しながらも、死者を巻き込んだ再生が展開される。凡百の作品であれば、ダンスの終了とともにエンドロールが流れるだろう。だがクラピッシュの描写は台地に降りたダンサーの再生にある。舞台が終了したあとの時間——普段着に着替えた団員と会場を出て、観客である家族や友人と感想を語り合う瞬間にこそエリーゼの第二の人生が見出されるのだ。

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