可視化されぬ認知の歪み

フランスでラグビーのワールドカップが開催されており、日本や強豪国の試合を視聴している。

今回の大会で興味深いのは「バンカーシステム」の導入だ。ラグビーでは危険なプレイにはイエローカードを出し、10分間プレイを禁じられる(シンビン)。だが特に危険と見做されたプレイはイエローカードからレッドカードへと変更され、ゲームを通じて戻ることが許されない。イエローか、レッドか——これはゲームを通じて数的不利を引き起こしてしまう裁定になるゆえに慎重に検討せねばならない。そこでバンカーシステムでは、イエローカード以上に相当するプレイヤーに「とりあえずイエロー」を出し、審判がグラウンドから離れたところで冷静にイエロー/レッドを見定める。グラウンドで判断をすると、会場の空気に流されて、誤った判定を下す可能性があるからだ。

今さら強調する必要もなく、ラグビーは激しいスポーツである。巨大な選手が全速力で衝突する様子は極めて危険であり、興奮した選手がラフプレーに走る可能性がある。スタジアムは獣性に満ち溢れており、観客は相手が叩き潰されることに酔いしれる。一種異様なこの空間をゲームとして成立させるために、試合をジャッジする権力を持った人間が「空気」から距離を取る。

人間は空気に染まりやすい。当事者の判断は多くの場合において客観性を見失う。僕らは他者を罰する権力の所在に細心の注意を払わねばならない。

いつの時代も人民裁判には悲劇がつきものだ。ワイドショーで石を投げる大衆の「正義」は疑わしい。『福田村事件』はその最たるものであろう。

物語は関東大震災の前後の千葉県福田村を舞台とする。主人公・澤田は挑戦の三・一独立運動の余波で起きた提岩里教会での虐殺に立ち会い、社会に絶望を覚えて帰国する。その頃、讃岐の被差別部落出身の集団が村を訪れて薬の行商を行う。関東大震災が発生し、朝鮮人が日本人を殺傷しているというデマが流れる中、福田村の人間と異なる方言を使う行商人たちが朝鮮人だと疑われ、興奮した集団は澤田の静止を聞こうともせずに虐殺へと踏み出す—

この物語を鑑賞する人間は、誰もが集団ヒステリーで虐殺を行う村人たちを不気味に感じ、その態度の前時代性を嘆くだろう。これは決して批判されるべきことではなく、事実僕らは善悪を把握した立場からこの作品と向き合っている。少なくとも映画を見ている僕らは、集団ヒステリーの醜悪さを理解しており、武器も持たない行商人を大勢で殺傷することに強い違和感を覚える。

映画の中で村の秩序の外部者である澤田らは、「この人たちは日本人です」と叫びながら行商人たちを守ろうとする。だが陥穽はそこにある。僕らも外部者である澤田に巻き込まれるように「この人たちは日本人なのに」と心で繰り返す。そして行商人のリーダーである沼辺は僕らに問いかける。「朝鮮人なら殺してもいいのか」

映画内世界の外側に立ち、善悪を超越した存在である神=観客は、結局のところ「彼らはなぜ『日本人なのに』殺されねばならないのか」と考える。その発想は「外部」への無自覚な差別と切り離せない。福田村の集団ヒステリーは、僕らを巻き込み、人民裁判を無慈悲に断行する。福田村の人々を裁く僕らは、作品内世界のメタ的存在でありながら、そのヒステリーに巻き込まれる。

作品外世界に身を置いてすら、僕らは人民裁判の共犯者として異常な空気に飲み込まれていく。福田村事件の加害者は、徒党を組んで犯人捜しを行い他者を追い込む世論に埋没した僕ら自身の姿だろう。

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