親と子の共犯関係に甘んじながら

飛鳥応援大使の仕事で明日香村に行き、ついでに家族と遊んでいたら、いつもの古墳(新沢千塚古墳群)で子供を抱いたまま転倒してしまった。結果、次男が足を挫いてしまい、大きな怪我ではないものの、1〜2週間ほど足を固定して生活することになった。

甘えた次男を抱きかかえ、自分が好きな古墳で遊び、二人で転んで怪我をする——親子の関係性が引き起こした事故だろう。

『アリスとテレスのまぼろし工場』は、ある意味で親子の共犯関係の根深さを描いた作品だと言える。主人公・菊入正宗は、(おそらく1990年代を)鉄鋼で栄えた街に暮らす。近所の製鉄場で火災が起き、突如として正宗が暮らす見伏の街は時間の動きを止めてしまう。火災が起きた冬が延々と続き、人々は成長も老化もせず、妊婦も赤子を埋めぬまま、時間がただ循環していく。この超自然的現象が終了し、自身が時の流れの中に舞い戻ったときに自己同一が可能となるように、住民たちは定期的に「自分確認表」を記入する。自身の変化を記録し、人格がずれてしまうのを防ぐことが目的だ。数十年にわたる循環の後、正宗は心惹かれていた少女・睦実に導かれ、事故以来神域となり立ち入りを許されぬ製鉄所の中で同年代の少女を世話することを依頼される。少女は言葉も満足にしゃべれず、幼児のような振る舞いをし続ける。そしてこの少女との出会いによって時が止まった見伏に大きな異変が生じ、正宗たちが身を置く世界の謎が解けていく——

製鉄で栄えた見伏の街は、火災によってその機能を喪失し、街は衰退の一途を辿る。見伏の製鉄所は、超自然的な力によって自らがまだ機能していた時代を保管し、正宗ら住人たちは魂だけが取り残されていた。まぼろしの街の外では時間が流れており、見伏は徐々に寂れ、正宗は成長して睦実と結婚する。二人の子供である沙希は、現実の街からまぼろしの街へと迷い込んでしまう。幼女の沙希は現実世界の存在であるゆえに、まぼろしの街の法則に反して一人だけ成長を遂げてしまう。それにより街の崩壊を恐れた人間たちが、沙希の名前を剥奪し、製鉄所に監禁する。少女は言葉を学べず、ただ身体だけが成長し、十代となり自分の父である正宗(と母の睦実)と出会う。

まぼろしの街に住む正宗は時間の経過から切り離され、何年も変化を忘れ、同じような日々を繰り返す。事件以降、身体感覚は弱まり、寒さも感じない。まぼろしの街に住む人間は体臭すら希薄だ。仮に大きく心情を変化をさせる出来事があると——以前と違う人を好きになるなど——世界の乱れを防ぐため、神機狼(しんきろう)と呼ばれる煙がその人間を消し去ってしまう。まぼろしの街では真実に気づき、変化を遂げて成長を志す人間は消失する運命を背負う。かといって彼らが現実世界に回帰できることはなく、シーシュポスの刑罰のように不変化を受け入れ、同じ日々の繰り返しを世界の崩壊まで繰り返さねばならない。

まぼろしの街で「五実(いつみ)」と名付けられた少女(沙希)は、真実を知る正宗らの手によって現実へ戻される。行き来ができないまぼろしと現実の両世界を移動できるのは、五実=沙希だけだ。ここにおいて五実=沙希は、まぼろしの親と現実の親の選択を強いられる。変化せず安定したまぼろしの世界において、五実は正宗に惹かれていく。現実世界へ回帰することは、正宗が母=睦実と結ばれた世界を受け入れることにつながる。対する正宗も、現実世界へと踏み出すことで消失するか、不変化のまぼろしの国で世界の終わりまで安寧に暮らすかを迫られる。

本作において変化を忘れたまぼろしの街は様々なものの象徴として機能している。変化を忘れた街にバブル崩壊以降の日本の姿を重ねること、あるいはコロナ以降の終末観を読み取ることも可能だ。だが本作は親子の関係を主軸として読み解かねばならない。バブル崩壊以降の低成長は二つの震災によって大きな打撃を受け、気候変動や未知のウイルスが迫る中、大国による武力制圧に彩られた世界を僕らは目撃してきた。そして子供たちはその先の未来に投げ出される。子供を抱えた僕が見据えるのは、この殺伐とした世界に子供を送り出すことだ。ゆえに僕は子供が成長しきらない今を貪るように共犯関係を作り上げる。親に甘える子は、時を止めようとする親によって作り上げられる。それが一時の現実逃避に過ぎないことなどわかりきっているが、その瞬間が来るまで子供との時を止めようとする欲望に逆らえない。正宗に執着し、現実世界へ戻ることを拒否する五実の態度は、まぼろしの街に絶望して届かぬ現実を憧れながらも、街の崩壊を防ぐことに加担せざるを得ない正宗の心理と呼応している。

この共犯関係は、五実を現実へと回帰させようとする睦実の意図、睦実に反発しながらも現実世界を取り戻そうとする五実=沙希の試みによって終わりを迎える。では正宗は永遠回帰のような循環をいかにして受け入れるのか——それこそが僕らの課題に他ならない。循環の中での些細な変化——絵が上手くなる——こそが、正宗にまぼろしの街で生きる希望を与えてくれるのだ。

僕ら個人に戦争が止められるわけもなく、気候変動も止まらない。ニヒリズムを背負い生きる僕らは、それでも現実の細やかな喜びを知る。自身の精神世界におけるミクロレベルの変化を実感したときに、子供=他者の世界が初めて尊重される。それは子供が自らの世界を抱え、喜びを見出すことを祈り、信じる態度に他ならない。

左足を挫いた子供の怪我を繰り返さぬよう、僕は古墳を避けるべきか——そのような先回りした予防策こそが子供との共犯関係だ。古墳を歩くかどうかは子供が決めることだろう。快癒後はまた飛鳥を歩き、新沢千塚古墳群を駆け上ることにする。

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