叫ぶことが許されぬ場所で叫び、歌う

災害に、ウイルスに、戦争に……重苦しくなる毎日を嘆いたところで、世の中は一つも変わらない。嘆くことすらも他者に圧迫感を与え、「各人ができることをするしかない」といったクリシェを押しつけられる。たとえ「できること」をやったところで、授業でモチベーションを失う学生の心一つ変えられぬ人間の力など無に等しい。

岩井俊二監督の『キリエのうた』は、世界を前にした無力な個人の肖像である。

主人公・小塚路花は東日本大震災で家族を失い、孤児となり、「キリエ」の名で東京の路上でライブ活動を続けている。物語は派手な髪型をした奔放な女性「イッコ」がキリエを目にとめて自宅に連れ帰る場面からスタートする。イッコの正体はかつて帯広で路花と交流のあった真緒里であった。真緒里は帯広でスナックを営む家族のもとに生まれ、親と田舎町に縛り付けられた人生を受け入れつつあったが、偶然が重なり東京の大学を受験する機会を得る。そのときに真緒里の家庭教師を務めたのが、路花の血のつながりがない「兄」夏彦だった。

作品は震災前後の路花=キリエと夏彦の出会い、そして路花が津波で亡くした姉「希(キリエ)」の物語を内包しながら展開していく。

震災で家族を亡くし、姉の恋人だった夏彦を求めて旅をする路花は、声を失い、見知らぬ町を一人で彷徨う。ミッション系の家庭で育った路花は、教会に出入りし、賛美歌に触れ、「歌声」のみを取り戻す。しかし路花に手を差し伸べる路上ミュージシャンは、見知らぬ少女を連れていることを理由に通報され、路花のコミュニケーションは断ち切られることになる。路花を気にかけて保護する小学校教師・寺石は、SNSで夏彦を見つけ、路花はようやく過去の繋がりを取り戻すが、血縁のない夏彦は路花から切り離される。その後、路花は夏彦が移り住んだ帯広で里親を見つけ、ようやく二人の関係が戻っていくが、行政の保護下にある路花が夏彦と暮らすことは許されない。二人の関係はつねに「手を差し伸べる社会」によって切断される。

若き日の夏彦と、路花の姉・希(キリエ)の恋は、震災と津波によって消し去られた。だが医師の家庭に生まれ、名門の医学部を目指す夏彦と希の関係は、若すぎるゆえの切実な感情によって築き上げられたものだ。二人を断ち切った震災は、無力な個人の自由を阻む強力な社会正義の暗喩に他ならない。事実、夏彦を求めた路花は社会正義によって孤独に陥る。若い切実な感情は、社会へのスタビライズを求められ、無力な若者は望みを絶ちきられ、なすすべもなく立ちすくむ。

路上で歌う路花=キリエは、イッコのプロデュースによりアンプとマイクを手に入れる。機材を使い慣れぬキリエの歌は、声の強さでハウリングを起こす。ノイズを含む歌は決して耳馴染みの良いものではなく、ストリートミュージシャンは騒音を排除する社会正義により歌う場所を喪失する。

作品終盤で描かれる路上フェスの場面では、ステージ前に多くの人が詰めかける。彼らに向かいメッセージを届けようとバンドを従えたキリエの歌を妨げるのは、社会正義を体現する警官たちだ。ヴォーカルの騒音をかき消そうと拡声器で呼びかけられる注意の声——不協和音の騒音はキリエの歌か、それとも社会正義を声高に叫ぶ声か。そして権力は個人の叫びを騒音と見做し、秩序が路上の「清潔」を保つ。

無力な個人が獲得した束の間の自由を、したり顔で「永遠に続かない」とたしなめる「正義」がある。様々な力に翻弄されたキリエは、仲間たちと音楽を作り上げる一瞬の時間の中にいる。「束の間」の対比としての「永遠」は、秩序が保たれた不変性だろう。路花、夏彦、真緒里の関係を切断したのは、固定化された安定が育む「常識」だ。だからこそキリエは、権力が嘲笑する「束の間」の中に「永遠」を見出す。このままならぬ世界の中でどこまでも無力なキリエの歌こそが、同じように無力な僕らを突き動かすのだ。

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