身体と精神の二元論を乗り越える「日常的な」意味

年末に子供が好きな「SASUKE」を視聴した。難解なアスレチックをクリアする様子を楽しむ番組だが、一般化すると「いつの時代も身体的躍動は埋没の対象」なのだろう。子供は超人の動きを喜び、フィギュアスケートのファンはスケーターの躍動に感動する。ジュニアヘビー級のプロレスラーの跳び技に魅せられる僕は、跳ばず跳ねない高橋ヒロムをあまり応援できない。

年末に『東京リベンジャーズ』を再読していて改めて実感したが、不良の根本の問題は身体と精神の不一致にあるのだろう。

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身体的に成長し、筋力が大人に似たものになっていく中で、精神が公共のルールから大きく逸脱する。闇に落ちる前のマイキーは、「社会」のルールから逸脱しながらも、最低限のモラルを守る。いわばそれは不良カルチャーによる「社会の拡張」だ。しかしその幼い精神は社会の不条理に耐えられず、稀咲や半間の思惑により、「社会の崩壊」を目論んでいく。不良=犯罪グループの破壊力は強大である一方で、登場人物の精神は稚拙であり、他者を暴力的に追い込んでいく。

メルロ=ポンティを参照するまでもなく、人間は身体の基盤によって世界に存在し、そこに精神が宿る。主人公・花垣武道が「弱い」ながらも不良の暴走を食い止めるのは、彼の身体が破壊に耐える強靱さを具えているからに他ならない(普通は死んでいると思うのだが……)

毎度前置きが長くなったが、僕が言いたいのはシンプルだ。身体機能を十全に操れず、もしくは身体の欠損により精神が望む動きが不可能になると、社会生活が損なわれ、時として大きな悲劇に見舞われる——当たり前の事実は誰もがわかってはいるのだが、どうにもメタ認知しづらいものだ。

「SASUKE」やら『東リベ』やらを経由し、ギャスパー・ノエの新作『VORTEX』を見ていきたい。認知症の妻と心臓病の夫の悲劇は、心身の欠損を見事に視角化している。

本作においてノエは妻と夫の両方の視点を並置する。二つの画面が統合されることはなく、同じ空間にいてもカットは分かれたままだ。本来は統合されるべき場面が区分されており、あたかも「身体」「精神」の両面が分離していることが象徴されているかのようだ。

精神科医であった妻フランソワーズは認知症のため、奇行を繰り返す。夫ダリオの仕事(原稿)を廃棄し、ガス栓を閉めず、ボヤ騒ぎを起こす。他方のダリオは心臓病の発作に見舞われ、頼りの息子は薬物依存から抜け出せない。身体を損ねているダリオは、他方で精神が機能しているため、現在の生活を捨てることに激しく抵抗する。息子アレックスが薬物に依存しながら生活を送るように、ダリオは知的生活を送る一方で愛人との時間を過ごそうと画策するが、それを阻むのはダリオの身体である。結果的に、精神の欲求が満たされぬまま、フランソワーズが薬を廃棄してしまうことで、ダリオの身体にさらなるブレーキがかかる。

ダリオの視点が終わりを迎える中、もう一方の「身体」の物語は「少しだけ」続く。精神が損なわれた身体は薄氷の上にあるかのように、何らかのきっかけですぐに損なわれてしまうのだ。花垣武道の身体が頑強さを誇ったのとは異なり、夫を失ったフランソワーズはあっさりと死を迎える。カメラが場面を割るかのように崩壊した心身は、もはや混ざり合うことなく終焉へと向かうのだ。

不条理が続く世界にあって、僕らはSNSから暴力を呪い、施政者の無能を蔑む。だが悲劇を止める強靱さを持たぬ僕らの身体は不条理を前に役立たず、言葉はネットの空間を彷徨うだけだ。勇ましい発言を褒め称えるメンションもリアクションも、結局のところは「身体性のカット」と区分され、日常の享楽を貪ろうとする精神の浅ましさに過ぎない。凡人たる僕らの言葉など、身体性とかけ離れたところではいささかも機能しないのだ。

愛人を作り、子供を薬物に染めるダリオとフランソワーズの人生の崩壊は、果たして互いの病によるものなのか。崩壊が病により顕著化したと考えるのは穿ちすぎだろうか。身体から遊離させず、自らが影響を及ぼせる範囲で精神と身体を統合させることで、マイキーは闇から脱し、花垣と新たな人生を生き直す。そのことが未来を少しだけ平穏なものにするのであれば、僕らにできることはまだまだ残されている。

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