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共鳴作用と哲学の死

会社の人から哲学についてアウトプットしてほしいとのオーダーがきており
いろいろ思慮深くなってきています
勉強は楽しいね

■わたしたちは、なぜ『ジョーカー』のようなダークヒーローに共感を抱くのか

映画”ジョーカー”が、米国では社会問題にまで発展している
背景には映画を観た人々が暴力的な主人公に感情移入し、社会不安に繋がるのではないかという恐れが蔓延していることが一因として指摘される
そもそも人々は、なぜジョーカーのようなダークヒーローに共感を覚え
“ヒーロー”とみなすのだろうか?
先の記事でも書いたが
”共感という劇薬”が身体中にまわるのはとてつもなく速い

映画”ジョーカー”に対する批評家の評価は2つに分かれる
不必要に挑発的で道徳観に欠ける“駄作”という評価と
精神疾患の“分裂”で生じる人格に対する共鳴作用の研究になるとみなす考えがある
記事では共鳴作用に触れているので少し興味が沸いた

社会に憤りを感じている人々がこの映画を観ると暴力的な主人公に感情移入し共鳴作用が引き起こされる
だが、なぜ人々はジョーカーのようなダークヒーロー(アンチヒーロー)のことを、“ヒーロー”とみなすのだろうか?
それは二面性のあるダークヒーローへの同一視にあるという
正確には”ヒーロー”とは見てはいないと思うのだが
共鳴し同一視してしまうのは否めない

人間は物語の登場人物に“同一化”できる能力が生まれつき備わっている
他者への感情移入は就学前の子ども時代に発現し物語の主人公に対する共感と同一視はそこから来ていると
トロント大学で認知心理学を研究するキース・オートリーは指摘する

心理学的用語でいう”同一視(同一化)”と呼ばれる現象は、一面的なヒーローとは違って多面性をもつダークヒーローの場合にはさらに強まる傾向がある
この同一視が”代理的な側面”と呼ぶ衝動的な強迫観念と組み合わさると、不道徳ともいえるダークヒーローは魅惑的なほど有能な存在とみなされる
ひとたびそう考えた人々は、さまざまな問題を“効果的”に処理することになる

それがジョーカーの場合は”人を殺す”という行為になる
ジョーカーの”何ごとも実行可能である”という姿勢は、こうした過激な行動を実生活でとれない人々を魅了することになる

ダークヒーローに惹かれるもうひとつの要因は、最初に感じた印象がその後も心に焼きつく”初頭効果”という
”ジョーカー”では、アーサー・フレックが孤独な三流コメディアンから、陰惨で暴力的な存在へと変貌していくさまを描いている
フィクションにおいて人は、登場人物との最初の出会いを重視する傾向にある

最初の描写を、その人物の性格の基盤であると受け止めることとなる
ストーリーを通して最初は善良で不幸だった男が不法行為を積み重ねてジョーカーになり、シリアルキラーへと変貌していく過程を目撃していく
だが、最初の印象に欺かれてしまい、彼を許してしまうというのだすべての物ごとが平等であるなかで特定の人物の視点に立って見ると、その人物により強く感情移入する傾向にあると言われているという

その人物を“外側の世界”が侵食していく様子やあらゆる重圧をともに経験することで、内面から理解できるようになる
こうして“理解”できたときに、わたしたちはその人物を”許す”ようになる

かなり興味深い考察でした

しかし善と悪の二元論から脱出できていないようにも思えるなぁ
ゾロアスター的な解釈ではジョーカーを語れれないような気もしてきます
記事では共感する人をサイコパスのように扱っているが
まずもう一度映画を観てほしい
あれを綺麗ごとで済ませられる奴は本当の悪だって理解するから

■哲学者が書いていない「哲学本」が売れてるワケ

本質が分かってなくても何とかなるんじゃねぇかっていう
身も蓋もない対談
まぁ哲学は難しいからしょうがないのかなぁ

”哲学は役に立たない”と言われているのにもかかわらず、書店には哲学の入門書がたくさんある
哲学者の岡本裕一朗氏は”売れている哲学書がすべて専門家によるものだとは限らない。なかには、哲学の概念を誤って伝えているものもある”という
さすがに誤用された本を高い金払って買う気にはなれない

いま哲学への注目に伴い、巷には細分化した哲学の断片があちらこちらに散在していて、専門家風の人が書いた書籍はちょこちょこつまみ食いをするには都合がいいのかもしれない
もっと骨太な哲学の根っこや幹に触れてその躍動を自分の力にするにはどうしたらいいのだろう?

そもそも哲学の歴史を紐解くと
哲学は本来”すべての学問の原点”という側面がある
哲学は何かについての学問というのではなく
すべての学問を含む”知”として始まった

"フィロソフィ"という言葉からしても"知識に対する愛"という意味
哲学がすべての学問の原点だというのは大きく二つの意味がある

一つは古代ギリシア時代の発想で”すべての知を含めた学問”が哲学だということ
それが近代になって哲学というのはすべての”学問の基礎いわば根本にあたる部分”へと位置づけが変わった

カントも世の中の基礎づけをおこなうのが哲学と考えている
そのため法学の基礎を考えるのは法哲学、社会学の基礎を考えるのは社会哲学と、それぞれの学問の基礎理論を考えるのが哲学であるという位置付けがなされた

ところが20世紀になると基礎はいらないというようになった
それぞれの学問は、自分たちの内部で基礎理論まで確立するようになり、哲学に基礎づけてもらう必要なんかない
これは世界的な潮流だった
そうなると哲学の居場所がなくなっていった学問が、もう上からの援助も下からの支えも必要ないと言って独り立ちしてしまうと、哲学にはやるべきことがなくなってしまった
哲学独自の学問領域というものは元々なかったのでハイデガーはこれを”哲学の死”と呼んだ

それ以降、哲学は役立たずの何かわけのわからないことをやっている人たちの集まりと見られるようになっていった

哲学好きというと都市伝説かのような反応されるわな

哲学の存在自体が危機に瀕し20世紀の哲学者たちは、あらためて哲学の役割を定義しなおさなければならない現実に突き当たっていった哲学は20世紀において非常に大きな転換期を迎えた

それは自分がいったいどんな時代に生きているのかを意識しているかどうか、自分なりの思考のモデルを組み立てようとしたときに、今という時代がどのような形でどこに向かっているか、そのオリエンテーションを提供する哲学と変容していった
時代の見立てをおこなう学問、ツールとしての哲学となっていった

世の中には哲学の断片が散在している 書店に行けば、役に立たないと言われる哲学のコーナーにも常に新刊書が並んでいる
売れている哲学書がすべて哲学者や哲学研究家によるものかというと、そうではない
今の時代、何かを世の中に出すときに、”わかりやすい”ことが大事にされる風潮がある

わかりやすさが売れるための条件のように言われたりする
売れることをゴールにしたとたんに”わかりやすい”ことが正確さを押しのけて優位に立つという感じで、そして結果、売れたものが”正しい”となる

専門家以外の人が、一番いいところだけを掬って魅力化して打ち出す、という方法で哲学の広告化をおこなっているという面が大いにある
哲学の概念にはそれぞれに文脈がある
その文脈を外して概念を使おうとすると、それは誤解にならざるをえない

いいとこ取りをした哲学本は、ある意味哲学の”誤配”となる
しかし概念を誤解することで、その概念をやさしく説明でき、すぐに使えるものにできるのかもしれない

うーん
誤解でも活用出来たらOKってなところはどうなんだろう
哲学によりライフハック的な効用を求めているのであればありなのかもしれないが
単純に学問として興味がある分にはゴリゴリの神髄を読みたいものである

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