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2022下半期推し本発表✴︎★並びに、わたしのフィクション観、役作りについて

2023/1/3

前に下半期はやらんって書いたけどやりました。年内にやるつもりだったけど年越しちゃった。なんなら鴻池朋子はさっき読み終えたけど3分の2くらいは年内に読んでたから多めにみてほしい。ル=グウィンを読んだのは上半期で、全部読み返したわけじゃないけど、やっぱりこれはバイブルにしたいと思ったので載せておこう。

高瀬隼子『水たまりで息をする』
今日マチ子『cocoon』
ルイス・キャロル『不思議の国のアリス』
アースラ・K・ル=グウィン『ファンタジーにいまできること』
町田尚子『隙あらば猫』
鴻池朋子『どうぶつのことば』
安房直子「夕日の国」(カシワイ『光と窓』)

生活も学問も読書も創作も、わたしが惹かれるものたちは並べてみると複数のテーマが混在してて、それらがもやもやと星雲みたいに像を結ぶ点にいまのわたしがいると思う。
本棚を見るとそのひとがわかると言うけれど、まえに後輩がわたしのnoteを指して「先輩の本棚いいですね」って言ってくれたのがうれしかった。書かなくていいやとか書かないほうがいいやと思って載せきれてないものもあるけど。
いまわたしは卒論を書き終えて学生ライフ終活に入ってると言ってもいい。就職までにnoteも整理するつもり。いままでの投稿は目次だけ作って非公開にしようと思うから気になるやつがあればいまのうちに開いてみてほしい。

卒論を書きながら、小説を読みながら、あるいは演劇をやりながら、わたしはわたしのフィクション観について思いを巡らせているのだけど、まだいまいちはっきりとその所在が掴めていない。
社会学の人とのずれは文学をやっているかの違いかと思っていたけど、文学の人からもちょっと独特だねと言われ、役者をやってることも関係しているかもしれないけどそのひとことでは片付かないので、わたしオリジナルなものとして育てていってもいい気がする。役の作り方ひとつ取ってもほんとうにいろいろあるようだし。

うまく話せなくて核心の周りをぐるぐる回るような書き方しかできないのだけど、なんの話をしたいかというと、たぶんわたしは一般の水準に比べてフィクション作品内部の人間を、現実世界を生きる人間と同列に扱う傾向が強い。
たとえば卒論で今村夏子「こちらあみ子」を扱ったけど、分析するというよりはあみ子に思いを馳せるという言い方が近くて、どうしたらここに生きているひとびとがいまより少しでもいい方向に向かえるだろうかってずっと考えてた。
それはわたしの中ではカテキョの子やその周りのひとびとに思いを馳せるやり方に近くて、別の小説を読んだ時も、ひとの恋話を聞いて感想を述べるような感じで同情したりむかついたりしてることがある。
こう書くと別にただ物語に没入しやすいタイプなだけで珍しくもなんともないような気がするけどな、そういうことじゃない気もするんだよな、うーん…。

役者をやっているから、というところにもう少し言及すると、わたしはキャラクターの型を外から被るような方法ではなくて、わたしと役の接点(ベン図の重なりの部分)を内側から押し広げていくような方法で役作りをする。役は100%イコールわたしじゃないけど何%かは確実にイコールわたしだから、フィクション作品の中のひとに現実世界を生きるひとと同じ水準で思いを馳せるやり方はやっぱりここから来ているように思う。
わたしの役作りはわたし起点ではじまるので当然わたしに近い役のほうがやりやすくはあって、全然違うキャラになりきるという楽しみもそれはそれであるけど、骨を削って差し出すような実感の伴う演技の方がわたしの得意は活かせると思う。
海外ものや古典もやったことはあるが、こちらはストレートに解釈すると自分の経験や価値観にそぐわないセリフに出くわすことが多くて、実感を伴ったセリフとして言えるようなんとかして別の解釈を書き込んでいく作業は大変だけど楽しかった。
文学作品の読解と演劇台本の読解はなにが違うって、どちらも書かれていることに反すると誤読になっちゃうけど、前者は書かれていることを元に自由に発想していくところにクリエイティビティがある(=書かれていない部分を勝手に創るのはだめ)のに対して、後者は書かれていない部分についてはいくらでも自分で書き込んでよいところにクリエイティビティがあると思う。説明できてしまえばなんだそんなことかってかんじだけど、これは長年かけて会得した実感のある発見だから大切にしたい。

「空想が現実からの逃避場所だとか、本質を豊かにするための道具のように位置づけられてるのってなんで。フィクションがリアルの奴隷になってるというか。」
これは『Schoolgirl』の投稿で書いたけど、ル=グウィンは同じようなこと言うんじゃないかな。卒論書いてる間もずっと考えてた。実際に発達障碍者にアプローチするのではなくフィクション作品を分析する意味はなんですかって散々聞かれたけど、逆になんでそこそんなに重要なんですかってすーごく思った。現時点でのわたしが納得できる説明は書き込めたつもりでいるけど、しばらく経って読み返したらどうだろうな。
小説の登場人物も、劇の中の役も、わたしが介入する前から(そしてそのあとも)勝手に生きてると考えたっていいんじゃないかと思う。「現実」はきっと自分が参加しなくても世界は続いていると思うけど、ゲームとか小説とか夢とか空想は神の視点のわたしが離脱すると立ち消えになると考えるのが一般的。でも、それこそ昔ばなしとか伝承には作者がいないから個人の視点の有無なんて関係なく世界が存在しているわけだし。フィクションだけじゃなくて、夢とか空想の世界とか想像上の生き物の価値があまりに貶められてることがすごく気になっていて、それらをもっと対等かつ地続きなものとして考えられないのかなってずっと思ってる。
文学的読解と演劇的読解の差異の話を後輩にして、学問は科学だから客観性が大事になるのでその差かなって話してた。そうするとわたしが言ってるフィクション観は科学の否定になるのかなってところで時間がなくなっちゃったけど、科学の否定じゃなくて科学が否定してきたものを肯定するって考えるのはどうだろう。

卒論は学問の中だけじゃなくいままで生きてて考えてきたことを全部詰め込んで書いたけど、こうして考えているとまだまだ考えたいことってたくさんある。学生いいなあって思うけど、いろんなタイミング的に潮時だと思うし一旦大学を出て働くぞ。それにここで話したフィクション観についてはアカデミアの外で考えたほうが性質上やりやすいかもしれない。脳の余白さえあればね。

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