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『透き間』(後半)

2023/5/14
@メニコンシアターAoi
サファリ・P

観劇直後にやや丁寧な大枠の感想を書いて、(後半へ続く)として1ヵ月以上寝かせてしまった。書ける気がしないけど、一応手元に残りっぱなしのメモを繋げて文章にしていく、。

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この山では「しきたり」を理由に村人が殺されていきます。「しきたりこそが人間が動物でない証拠」という説明に、武田泰淳「ひかりごけ」を思い出します。銃には詳しくないけれど、殺しに用いられるのは仕草や音からして明らかに猟銃で、「しきたり」から外れた者は「人間」から外れた物と見なされるのだと解釈しました。

この地獄から、町の人間である夫は離脱できるようです。でもネリネは、助けた老婆が気にかかり、その家に留まって老婆と生活をともにします。村にとってネリネが部外者であることには変わりないのですが、離脱できる夫と、入り込んでしまうネリネの差は、幼少期の家庭環境、そしてケアする人としての女という立ち位置の違いにあると思いました。夫の言うとおり、この村に留まっていてはネリネの身も危険です。だからといって、じゃあ自分だけが離脱すれば良いという話にはなりません。それは善意とか正義感とかいう美しいものというよりは、脈々と受け継がれた業、あるいは呪いに近いものを感じます。
宇佐美りん『くるまの娘』では、家族間で受け継がれる暴力の連鎖が描かれます。虐待されているなら君たち姉弟を助けるよ、と語りかける警察に対して、娘が、私たちだけ助かって、それで父母はどうなるの、助けるというなら全員まとめて助けてほしい、それが無理なら中途半端に入ってくるな、といったことを思う場面がありました。ケアの倫理の授業では「ケア責任の分配」という言葉が使われていましたが、離脱できない人と参入できない人がいる現状で、「ケア責任」はいかにして「分配」可能なのか、私の中では未だ謎です。

夫は博識でいい奴なのですが、なんかちょっとぽやぽやしてずれているというか、そうじゃないんだよなと思うことばかりを言います。易々と離脱しようとできてしまう夫も安直ですが、正直ここに残ったところで夫にできることはなさそうです。村長に「山はあなたの正義感を満たすためにあるわけじゃないんです」と言われた夫は「小説にします」と返答します。この山での出来事を町に持ち帰り、文筆活動を通して外の世界の人間に伝え広めるというのです。
私は自分自身のことを思いました。学生時代にやっていたアルバイトで、組織や市場の歪みを見出す目は持っていても、それを是正する力は私にありませんでした。私は大学に逃げ帰る場所があったので、離脱して問題意識を持ち帰り、その時考えたことも一部踏まえて卒業論文を書きました。私は考えたいことを考えられたし、書きたいことを書けたし、そのことに一定の価値はあると信じているけれど、私が論文を書いたことで一緒に働いていた子たちの生活が変わったわけではありません。友人関係は続いていても、そんなに力になれているとも思えません。それとも、役に立ちたいという発想自体が傲慢で的外れなものなのでしょうか。もう2年くらい、ずっと考えているけど、わかりません。

ネリネは夫をなじります。「あなたは私に乗り込んできた」「あなたの心が綺麗なのはこれまでだれにも乗っ取られたことがなかったからだ」
これはまた別で書く機会があるか、ないか、わからないのですが、私の家はたぶん思ったよりしっかり家父長制で、その中で私は「宗家の次男坊」的な育てられ方をしたことを、先月帰省した時に発見しました。男贔屓の家で、長男へのプレッシャーもなく、しかし私は男同様に大切に扱われ、投資され、ちやほやされて育ちました。家の中で、劇中で、存在しないかのように扱われている女たちの側に、私はいないのです。ネリネの言葉は確かに私にも向けられていました。
これに対して、「なにも考えなくていい」「忘れて」「透き間はぼくが埋める」と返した夫は、まったく能天気というか、ぽんぽん頭というか、おまえ話聞いてたか?と大きな声で言いたくなりました。他者によって透き間を埋められることは、支配されることと同義です。私を乗っ取らないでくれ、主権を奪わないでくれという要求なのに、きっと夫はこれまでも、ネリネの声を正しく聞き取れないことが多くあったのでしょう。

さて、では、ほんとうにネリネは、そして山人たちは、自分の力で支配から抜け出す、主権を取り戻すことはできることはできるのでしょうか。アフタートークでは「自分の孤独を引き受ける」という言い方がされていましたが、途中から出てくる「誓い」という言葉をどう解釈していいかは迷うところでした。他人から・外部から働く力ではなく、自分自身の内なるパワーや信念によって動くことをここでは意味しているのでしょうか。
その強さの根源はやはり知識だと私は思います。この物語において、山人たちは「しきたり」が書き記された本を読めないこと、そしてネリネは文字を読めることが重要な要素となっています。最後にネリネが本を開いて「一緒に読みましょう」と語りかけるシーンは、山人と町人の中間領域位置するネリネがもたらす変革の端緒となることが期待されます。
やはりネリネのように文字を学んだ女が、そして私のように宗家の次男坊として育ててもらった女が、既存の秩序をゆるがす危険な異邦人として、山に足を踏み入れなければならないのではないかと私は考えています。

そしてもうひとつ、これはアフタートークで聞いた「遊びに鍛えられる」という言葉から考えたことですが、前述の「知識によって自分の言葉を取り戻す」ことのほかに、主権回復に必要な要素として「遊びによって自分のリズムを取り戻す」ことが挙げられると思います。
父が遊びにかまけていたことによる生活のしわ寄せが母にきていたことは確実ですし、文字を教えてくれた母がネリネに横暴を働いていたことも事実であるので、父も母もその行動を手放しに支持することはできません。しかしその一方で、ネリネは、被支配の連鎖から抜け出すための鍵を父母から渡されていたと考えることも可能だと思いました。ただこの解釈は、主権回復のソリューションとして「知識」と「遊び」の2つが出てきたことをどう整理するかかなり悩んで出したストーリーなので、どちらか一方に絞って物語を収束させたほうが、このボリュームの演劇としては解りやすいかもしれないとも思いました。これは役者の身体と演出の賜物でしょうが、山と呼応する幼少期のネリネの遊びは、見ていて嬉しくなるくらい素晴らしいものでした。

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