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『解嘲』 徳田秋聲


 それは四月の或る日の晩、韮崎(にらざき)は二三人の若い人達を相手に、妻と一緒にカルタをやっていた。すると其の中途で若い人の一人が突然思い出したように言い出した。

「向山(むこうやま)君が大変なことをやりましたね。」

 韮崎は花に気をとられていたが、帰朝後時々やって来た向山がしばらく姿を見せないので、何(ど)うしたかと思っていた。向山は余り一時にえらくなったものが、一時は大抵そうなる運命をもっているように、洋行前からあれほど世間をさわがせた名声がやや墜ち気味になっていたが、一年ばかりの欧米漫遊から帰って来ても、彼は何となく自分の行動に、期待したような反響の起らないのに失望しているらしかった。洋行前韮崎のところへ度々やって来るようになったのが、既に向山が何か知ら或る空虚を感じていた証拠なので、帰朝してからも、彼は別に悦んで迎えてくれるような親しいものを持たなかった。彼は何となく寂しかった。

 彼はポオトフオリオから、ロンドンに於ける世界操觚者(そうこしゃ)連盟というようなものに出席して、日本の代表として世界的な文学者と卓を一つにして語って来たことを、韮崎に話した。彼はまた日本の代表として、その席上で英語で演説の皮切を初めようとしたが、到頭(とうとう)日本語で気焔(きえん)をあげて来た事をも韮崎に話した。
その記事の載った英国の新聞雑誌の切抜などを彼は幾種も持っていて、それも韮崎に示した。モノトナストーンで日本の若い作家が何かしゃべったということが、その記事のなかに読まれた。向山はまた虎の巻か何かのように大切にしているウエルスの書簡までも出して見せた。彼はそう云う機会を利用して、世界的に大きくならうとすることに抜目がなかったけれど、しかし何といっても年が若いのに、焦燥(あせ)りすぎていた。西洋でも出来るだけ風呂敷を大きくひろげようと努力したらしかったが、それを又日本で反響させようとしていた。彼は帰朝後京橋のある有名な旅館に、世界のホテルのスタンプのついた行李(こうり)を釋(しゃく)いて構えこんでいたが、どこの新聞記者も雑誌記者も、その旅館を訪問しなかった。若し反響でもあったとしたら、恐らく彼は韮崎の吝(けち)な玄関など訪問する必要はなかったに違いないのであった。

「一度宿へ来て下さい。」

 何かのついでに向山は言った。

「これから行きましょう。」

 何かの機会に向山はまた言った。韮崎も彼を引立てる力があるとは思っていなかったけれど余り淋しそうなので、つい行って見る気になったが、彼を何うにかして、新聞や雑誌に紹介しようと思って、その機会がある毎に口を添えたり何かしたのであった。思想家或は芸術家として、新に出発しようとするには、もっと真面目になって落着かなければならない。大向(おおむこ)うの人気ばかり気にして、山師が売薬(うりぐすり)の広告でもするような態度は、彼のために取らない。益々影が淡くなるに過ぎないのだ。韮崎はそう思ったので、折にふれて向山に言ってみることもあったけれど、彼は韮崎の考えるほど自分に失望していなかった。彼は目に蔽い(おおい)ものをされた馬のような男であった。失われようとする名声に絡(こだわ)りすぎてもいた。
彼は韮崎が紹介する記者などに滑稽なほど自分を大きく見せようとして尊大に構えていた。

「あんな小僧に渡してもいいものですか。」

 ウエルスの手紙の登載方を或る記者に頼んだときなぞ、後で向山は後悔するように疑っていた。
 韮崎は笑えもしなかった。

「安心していたまえ。相手の記者が誰であろうと、ウエルスはウエルスだから。」

 然しウエルスの手紙は登載する動機がないので後で戻された。 


 その向山が暫く来ない間に、一体何を仕出来したというのだろう。

「何をやったんだね。」

「某名家の令嬢を誘拐したとか、脅迫したとかで、逗子の停車場でちょうど東京へ帰ろうとしているところを、その日はちょうど行啓があったものですから、警戒中であったのを、向山があの調子でぶらついていたもんだから、こいつ怪しい奴だというんで、調べられたもんでしょう。ところで令嬢の家からは捜索願が出ていたので氏名は詐称していたんだけれど、直に身元がわかった訳なんでしょう。何しろ短刀なんか持っていたと言うんですからね。まだ新聞をお読みにならないんですか。」

「いや、ちっとも。」

 韮崎は遽(にわ)かに夕刊をもってこさせて、載っているという一二の新聞をひろげて、二面に目を通した。そして其の見出の業々しいのに驚きながら、ざっと拾い読みをして見た。

「飛んだことをやったもんだな。」韮崎は新聞を片寄せて再び戦いつづけた。

「先生もこんな事を仕出来すようじゃ、もう駄目ですね。」

「そうね。短刀は洋行するとき護身用に買ったのは僕も知っているがね。時々途中で抜いたり何かしておった。そんなものを持ってあるくのは止せと言っても肯かないんだ。」

 勿論向山が案外臆病なことは解っていたが、それが時々洋行前に同棲した女を脅かすために使われたところから見ると、刃物を弄ぶ悪戯癖(いたずらぐせ)が彼にあったとも考えられないこともなかった。その女に加えた刃物三昧から推察すると、それよりもっと盲目的な恐ろしい病気が彼にあったとも思えるのであったが、それとも彼は警察力なんかの微弱な外国へ渡ったときの異国人の惨めさを知っていたので、何か頼むところがなければ、うっかり街も歩けまいと感じていたかも知れなかった。それには幼稚なヒーロイズムに似たものもあったことも、推察されるのであった。
 向山について、その晩の話はそれきりであった。前の同棲者や、渡米中の船のなかで或る夫人に加えた凶暴や侮辱から推察すると、そうした狂態を演じたのも、大して驚くほどの事ではなかった。ただ相手が名家の令嬢で、誘拐や脅迫の事実があるとすると問題は容易でなかったが、韮崎自身は幾分の不安と、幾分の興味とを感じただけで、事件が事件であるだけに、彼に対しても余り好い感じが持てなかった。

 翌朝朝飯がすんでから、彼は縁側へ朝の新聞を持出して、向山の事件に関する記事の一つ一つに目を通した。それは晴々した明るい朝であったが、彼は少し睡眠不足の形で、頭脳がどこか混濁していた。新聞にはその名家の年老いた父親の談話も出ていたし、事実誘拐か何(ど)うかはわからないにしても、とにかく其に似た形で、逗子までつれて行かれた経路なども出ていた。それは大抵こうであった。文学少女であった令嬢の富美子は、向山の愛読者であった。そして手紙の往復によって、或る時彼を訪問することになった。するうち遣ったか取ったか、向山のことだから多分強要的に指環を預かったか貰ったかしたところから、それが何かの折に父に買ってもらった大切な品であったので、亡くすることは苦痛であった。彼女は指環を取返しに行かなければならなかったが、一人では駄目であった。日頃親しくしていた、これも或る名士の令嬢に同行してもらうことにした。しかし向山は容易に渡そうとはしなかった。其の上短刀をぬいて、床に活(い)かっていた花の枝を切ったりした。そして逃げ出そうとする彼女を抱止めて接吻を強いようとした。同行の令嬢が迚(とて)も敵わないと見て取って急いでそれを富美子の家に報告した。しかし父が自動車で駈けつけた頃には、富美子は自動車でどことも知れず向山に拉(らっ)し去られてしまっていた。



 或る機敏な新聞では、向山が令嬢の富美子を拉(つ)れこんだ海岸の旅館の女中達から聴き取った滞在中の二人の日常生活が出ていたり、東京の令嬢の父親の談話が載っていたりした。それによると令嬢は新婚旅行にでも出た時のように、いつも一室に閉籠って、碌々食事もしなかったが、それが羞恥から来ているのか、それとも鬱(ふさ)いでいたのか、女中たちの目には真実のことはわからないらしかったが、向山が其の海岸の別荘へ来ている有名なある文豪を訪問したり、その文豪が向山の旅館へやって来たりしたことなども出ていた。向山はその文豪に縋って、二人の結婚を取持ってもらおうとしていたらしかった。然し令嬢の父親の談話ではひどく向山の暴行を憤っていた。そして風教(ふうきょう)のために棄ててはおけないような口吻(くちぶり)も見えたが、令嬢の貞操だけは安全だと明言していた。
 兎に角向山の身のうえは危なかった。凶器をもっていたことと、氏名を詐称したことは何う考えても其のままには済まないことであった。

 牛乳とパンを食べながら、それらの新聞に目を曝していた韮崎は、やがて新聞をおいて溜息を吐いた。彼は洋行以前、家を建てようか、それとも洋行しようかと、よくそんな話をして謎っていた。或る時は創作的生活を安定すると共に、自分の文壇的地位と存在を誇示するために、家を作って玄関を張ることに思慮が多く傾いていて、韮崎は彼自身の設計図をさえ見せられたことがあったが、それは可也(かなり)大きなもので、殊にその特色ともいうべきものは、彼自身の創意になった一二の密室が用意されてあることであった。彼は自分の声名を慕ってくる女の群を想像していた。そして其の女達の特殊なものを引見する場所が、その密室であった。

「ここへは誰も入れないんだ。どんな親友でも入れないようにしておくんだ。」彼はそう言って少し赤い顔をして微笑していた。

 しかし彼はその家も作らずに、洋行することにした。

「まだ家なぞ作るのは早い。それよりか三四年アメリカでみっちり勉強した方がいい。どこか学校へでも入って、一科の学問を修めて来た方がいい。単に作家として立つだけなら詰らんじゃないか。」

 韮崎は言ったが、向山はしかし今迄の名声に執着があった。あれほど世間を騒がし、天才の出現といわれた自分の評判が、近頃少しづつぼやけ初めて来たのを感じて焦燥(やきもき)していた。 

「僕は世間の奴等のように、行詰ったから箔をつける意味で行くのとは、訳がちがうんですよ。」向山は意気込んでいた。

「長くいるのには金を何(ど)うする。」彼はそんな事も言っていた。

 そして一年ばかりの欧米漫遊から帰ってくると、彼は暫く旅館に構えこんでいたが、間もなく今の郊外に家をもったのであった。

「一度やって来て下さい。そりゃあちょっと立派なものです。」

 韮崎は、その家賃の安くないことから考えても、可なり威張ったものだろうと想像していたが、家の建築は何(ど)うなったのか、その話しも出なかった。後で――と言っても余程たってからだが、世間で四五万もあるように噂されていた彼の所有が、その実洋行の旅費で、大半以上も無くなってしまっていることには、韮崎はちっとも気がつかなかった。
 その家の設計に密室のあったことを、韮崎は今思い出していた。彼は性愛に関して不思議に享楽的空想をもっていた。社会問題や思想問題にでも行きそうに韮崎には思えた彼が、やっぱりああ言った小説を書くのは、それが一番彼の地にあることだからだと思った。勿論筆を執っている人のなかには、もっと質の悪いものもあった。理想や道徳の名に隠れて高飛車にそれをやっているものもあった。向山のはそれに比べると、寧ろ単純で正直で罪がなかった。


 そこへ当人の向山がひょこり遣って来たので、韮崎は「遣って来たな。」と思いながら通させると、向山は苦渋と冷笑の表情で入って来た。

 「やあ。」向山は何となく元気がなかったが、いきなり縁側近くへ来て、落着きなくすわった。彼は洋行前から着つけていた余り上等でない大島絣を着て英国で買ったという時計をつけていた。彼は和服の趣味がないのと、世話をしてくれるものがないので、よく綻びがあったり襟垢が目立ったりしたが、英国で買って来た洋服を着込んでポオトフオリオなど提げていると風采はひどく好いのであった。変な作家好みでもなく、気取った会社員風でもなかった。どこか愛らしい青年紳士であった。
 韮崎がちょっと挨拶に困っていると、向山もそわそわして、

「どうも弱ってしまって…。」と呟いていた。

「先刻から新聞を見ているんだが先方では訴訟を起すらしいね。」

 勿論夕刊では、某名家としてあったけれど、今朝の新聞では、先方の姓名も秦野(はたの)とはっきり出ていて、韮崎も満更知らない家(うち)でもなかった。彼はその息子さんたちを知っていた。その中でも長子の隆一氏は、韮崎のところへ古くから来ている或る若い一流作家が兄分扱いにして、その人格を尊敬していたところから、韮崎も自然尊敬を払っていた。会なぞで逢ったこともあった。洋行中のその弟さんも、韮崎のところへ遣って来てくれた事もあって、これも韮崎におとなしい坊ちゃんらしい好い印象が残っていた。二三発表された作物(さくぶつ)も注意していた。それに親達が韮崎の同郷であるので、逢ったことはないにしても、何となく親しみは感じていた。

「それについてお願いがあるんですが…。」向山は苦しげな微笑を浮べた。

「しかしこう云う風にひろがっちゃ、手のつめようもないだろう。どうも何かやり出しそうで、仕方がなかったが、到頭こんな事をやってしまって…困るな。」

「どうでしょう、僕も外に頼むところもないんで、一つ話をしに行っていただけないでしょうか。」

「行っても駄目じゃないか。こうなっちまっちゃ。」

「そうだろうか、しかし貴方にでも行ってもらうより外に道はないようだから。」

「新聞でみると、短刀なんかで脅かしたようだが、どうも君の遣りそうなことに思うね。」

 向山は一々弁明してみる気もしないらしかった。

「とにかく貴方に行って、何とか話をつけていただきたいんだが。うまく令嬢と結婚できるように。」

 韮崎はちょっと驚いた。

「そりゃあ駄目だよ。そんなことは出来ないよ。」

 向山も驚いた目をした。

「そうですか。」

「そんな事は無論駄目だよ。本人のお嬢さんもずいぶん怯えているようだし、お父さんも法律問題にしようとしているくらいだもの。一体恋愛関係があったのかないのかね。新聞でみれば脅迫したという事実は明らかのようだが、令嬢の貞操は…。」

「そんな事はない。」向山は曖昧な口調で答えた。

「何うして令嬢を知ったのか。やっぱり君の愛読者の一人かね。」

「まあ、そうだね。しかしそう云うことよりも、一つ行っていただきたいんだが、何うでしょう。」

「そうだな。僕も厭(いや)だけれど、息子さんをちょっと知っている。それもちょっとだ。行けば君のためばかりでなしに、秦野家のためにも、世間の問題にするのは余り好いことでもないから、そう云う意味だったら…。」

 向山は俄に顔が明るくなった。

「どうか一つ。」

「その代り、君が心から恥じて今後是に類したことは決してしないということを僕に誓いたまえ。」

「そりゃあ勿論…。」


 韮崎も別に大した自信や成案があった訳ではなかったけれど、兎に角隆一氏に逢って見ようと思った。そして正直に向山に代って、謝罪してみるより外ないと考えた。究極は何等か具体的の方法で誠意を表すことになるだろうが、それには矢張金が最も好くはないだろうかと思った。勿論慰藉料としてだが、その金を何う云う風に處分するかは、秦野家の意思の自由でなければならない。謝罪文を書くにしても、慰藉料なしでは誠意を欠くだろうと思われた。そんな意味から、金も決して汚いものではないのであった。
 韮崎は途々(みちみち)そんな事を考えたが、そこまで話を進めることができるか否かは、当ってみなければ判らない事であった。それに韮崎の今迄やって来たことから帰納すると彼はいつでも其の事が過ぎていくらか客観的な気持ちになったところで、初めて正当な判断や、妥当な思慮が出てくるので、当面の問題にぶつかっているあいだはとかくどじを踏みがちであった。で、真実はこの問題に自身当りたくはなかったけれど、向山のしょげているのを見ると、外に持って行きどころのないことも判っているので、つい出る気になったのであったが実は気が進まなかった。

 やがて秦野家の近くまで来ている事に気がついた。運転士はその邊(あたり)で一二度人に尋ねたりなどして、漸とその横町へ漕ぎつけることが出来た。通りが狭いので、その邊で自動車を降りなければならなかった。

「じゃ僕ここに待ってますから。」

 向山は自動車の中に座ったままで言った。
 何うやら彼は秦野家の所在を、よく知っているような感じでもあった。
 二三丁行くと、門札がすぐ見つかった。割合質素な床しい構えであった。
韮崎は門を入ってやがて玄関の所で、呼鈴のボッチを押した。余りいい気持ではなかった。
 出て来たのは、二十一二、事によると三ぐらいの、色白の感じのいい青年であった。韮崎は多分隆一氏の二番目の弟であろうと思った。で、名刺を出して隆一氏に面会を求めた。

「兄は唯今不在ですが。」

「ではお父さんは。」

「父も兄と一緒に出ておりますんです。」

 韮崎はちょっと当惑した。

「それじゃ仕方がありません。後刻また伺ってみましょうが、実は今度の事件について誰方(どなた)かに折入ってお話申上げたいと思って上ったのですが…。」

「は、多分弁護士のところへ行ったかと思いますが…。」

「そうですか。では晩方にお帰りでしょうから、その時分にもう一度上ってみましょう。」

 韮崎は直にそこを出た。

「みんな留守だそうだ。」韮崎は自動車へ帰ってくると、向山に報告した。

「弁護士のところへ行ったらしいんだがね。」

「弁護士のところへ行ったってか。」

 向山も困惑の色を浮べていた。

「何うするかね。又やって来ても、逢うかどうか疑問だ。」

「逢わんてか。どうして?」

「しかし此のままにしておくのも可笑しいから、兎に角もう一度来ることにしよう。どこかで電話でもかけて。」

「そうだね。」向山も失望の色を浮べながら、そこを去りがたそうにしていた。

「とにかく一旦帰って出直そう。」

「じゃ何うです先生、僕の家へ来てくれませんか。僕も帰っても独りだし、何だか厭ァになってしもうてね。」

「君んとこへ行っても詰らんが…。」

「ちょっと好いですよ。家で飯でも食いましょう。」

 向山が連りに勧めるので、韮崎も何う云う家か見ておいても可いと思った。
 そこで自動車は漸(やっ)と動き出した。もうお昼時分であった。


 渋谷の終点で自動車を乗捨てて十町ばかり入り込んだところに、向山の家があった。彼の言うところでは構えが可成堂々としていそうに思えたが、行って見ると左程ではなかった。矢張り貸家普請で、ただ武骨な洋風応接室だけが戸などしっかり出来て居て、本箱も大きなのをすえて外国から仕込んで来た社会問題の書物など目についたが、家具なども粗造品で落着きがなかった。後で正直な彼の口から家賃なども吹いていたことが、直ぐ暴露した。世間的に虚勢を張らないでいられない、彼の態度も何だか気の毒に思えた。

「この家は、少し高いな。」韮崎は辺りを見廻しながら言った。

「そうですか。」

「本が大分あるね。」

「あれは皆んな日本へ来ていない本ですよ。」向山は言ったが、中には韮崎が本郷通りの本屋で見かけた社会問題の新刊書もあった。

 書生がお茶をもって来た。お国丸出しの人の好さ相な青年であった。外には誰もいなかった。事件の起こった前日か当日かに、今まで居た母親も田舎へ帰って行ったというのであった。彼はこの世帯をもったについて、是非とも妻が必要であった。彼は秦野家の令嬢とここで楽しい結婚生活を初めることを、是れからの創作生活の前提として想像して居た。彼は創作的にも生活的にも空虚と焦燥を感じて居た。手段よりも目的に向って飛躍しようとした。令嬢はその犠牲として、不仕合にも彼に近づいたのであった。家柄といい、容色といい、総(すべ)てが彼の欲望を煽るに不足はなかった。

「先生、どうか一つ落着いて書けるようにして下さい。頼みます。」

 向山は懇願した。

「この問題が片付きさえすれば可いじゃないか。」韮崎はそれ以上の注文に対して何うも仕様がないと思った。

「だからそれがですよ…。富美子と結婚できるようにしてもらわんと僕も困るんです。」

「結婚?いや、結婚は僕には考えられないことだね。君は大変なことをやってしまったんだから。秦野はひどく君を憎んでいる。罪を赦すか何うかさえ未だわからんじゃないか。」

「そうですか。」向山は苦笑した。

 彼は韮崎の意味が腑におちないらしかったが、韮崎も彼の意味が腑におちなかった。令嬢を是が非でも貰い受けようとしている彼の心持が、恋愛本位なのか、それとも此の事件を円(まる)く治めるための方法としているのか、若しくはその双方なのか、それが明瞭でなかった。しかし令嬢に熱愛をささげていることは争えなかった。

「そんなに秦野のお嬢さんがいいのか。」
「ちょっと好いですね。実際チヤミングで初(うぶ)で、好いですよ。」向山は顔を崩しながら言った。

「前のと何うだ。」

「全然違うですよ。」

「そんなに惚れてるなら、なぜそんな乱暴なことをしたんだ。小鳥は脅えて逃げてしまってるじゃないか。一体先きは何うなんだ。」

「そりゃあ僕だって、何にもないものを強制的にやった訳じゃないですよ。」

「自信があるなら、穏当な手段を講ずればよかったじゃないか。」

「それを講じつつあったんです。色んな方面から話を進める筈だったんです。T・I先生にもお願いしてあるんです。」

 T・I先生とは海岸で向山が訪問した老文豪であった。

「T・Iさんは引受けたのか。」

 向山はそれについては、曖昧であった。

「腹がすいた。御飯にしましょう。あの男ちょっと器用ですから。」向山はそう言って、書生に用意を命じた。

 やがて茶の間へ通った。韮崎と一緒に散歩したとき神田で買った桑の長火鉢だけが、そこに不調和につやつやしていた。


 小さい食卓には田舎丸出しの書生の焼いた肴に一皿のフライ、田舎から来た河豚の粕漬のようなものがあったが、韮崎は別に食欲もなかったので、そこそこに箸をおいた。
 それから事件の発件した二階へ上って見たり、奥座敷を覗いてみたりしたが、いずれも独身ものの生活の寂しさを語るものばかりであった。そこで韮崎は洋行前に聞いていた住宅新築の計画をまた思い出した。この頃それが叭(おくび)にも出ないところを見ると、金があるのかどうかが疑われたが、一頃の彼の著書の売行きと生活状態とを引合して考えてみると、世間のいうように韮崎などの企て及ばない貯えがなくてはならない筈であった。そうとすると相当に用心深い男だと思われた。若くは生活の趣味が都会化していないからかも知れないと思った。けれど事件が片付いてずっと後になってから、世間の噂が全く間違っていたことが漸く判った。彼のあせっている気持ちも、恐らく大部分それに原因したのではなかったかと、韮崎も漸と気がついたのであったが、その当時は彼はそれを見透かされまいとしていたので、韮崎もそれを正直に受け容れていた。
 食事中向山は落着いていなかった。そして書生を走らせて、近所の酒屋で、文豪T・I先生へ頻(しき)りに電話を掛けさせたりした。先生が居るとか、居ないとかで、向山はいらいらしていたが、結局今直ぐなら社にいるという事なので、向山は急いで終点までの俥を二台命じた。その俥が来ないうちに記者が一人訪問した。韮崎はちょうど応接室にいたが、向山が応対している気勢があがらなかった。

「何にもそんな事はないんだ。この際別に何にもお話するようなことはないんですからね。」

「けれども貴方は立派な青年作家じゃありませんか。秦野家の言葉に対して、何等か新時代の青年らしい主張がある筈だと思いますがね。黙っているのは意気地がないじゃないですか。」

「意気地がないってか。」向山は苦笑しているらしかったが、ひどくしんみりした調子で、

「いや、私は今そんな事を考えていませんよ。本人に対しても、秦野家の人達に対しても、少しも悪意はもっていませんよ。あの人達に対して心からの敬意をもっているだけなんですよ。だからそんな事は何うかもう…。」

 彼はまるでへたくそに謝罪(あやま)り入っているのであった。

「それはまあ悪意はもたないでしょうけれど、しかし何か貴方に理屈があるでしょう。あなたの名声に対して、世間は貴方から何等かの抗辯(こうべん)なり主張なりを聞きたいと思ってるでしょう。青年の意気としても黙ってはいられないでしょう。我々青年、貴方の愛読者は、挙っ(こぞっ)てそれを期待しているでしょう。」

 記者はなかなか巧かった。しかし向山は少しも挑発されなかった。韮崎は陰で思わず微笑んでいた。

「あの態度がいい。しかし今度から留守をつかった方がいい。会うと煩いから、事件が片付くまで沈黙を守っている方が一番いい。」

 記者が帰ってから、そんな話をしているところへ、また一人の記者が来た。それは韮崎が留守をつかって追い払った。

「成るべく新聞に書かないようにしてくれ給え。」彼は頼んだ。

 記者は帰って行ったが、暫くすると韮崎と向山が外へ出て俥に乗ろうとするところへ、ぱらぱらと二三人の記者が寄って来た。それも韮崎が好い加減に遇(あしら)った。新聞は営利事業だから、種子を取るのが商売でもあるが、今日では単なる興味のみで社会記事を書くような呑気な記者は一人もいなくなった。しかも政府が政治上の秘密を後生大事と守るように、韮崎もいつか秘密主義になっていた。勿論公事と私事とは自ら区別さるべきであった。これを社会問題にしようとするには、余りに特殊すぎることであった。


 社へ行ったけれど、何んの間違でかT・I先生は今し方外出したと言って、若い記者が二人出て来て職業的な目を働かせながら、二人を待遇した。韮崎は終いに退屈を感じた。そして向山が連りにT・I先生に執着をもっているようで、へばりついて離れないに拘わらずT・I先生の方ではきっと体よく避けているのだろうと思った。勿論T・I先生の与るような事件でもないのであった。そこで韮崎は時刻を計って、T・I先生の社を辞して、再び向山を促して、秦野家を訪問した。
 しかし矢張留守であった。

 韮崎はその刹那に、ふと同じ町内に、妻の親類のあることに気がついた。去年の夏一度来たことがあるので、場所の見当もついていた。電話もあるから、そこで暫く待って、秦野家でだれかが帰った頃に知らしてもらうことにしようと思った。若しも韮崎を拒否する意志であったら、電話でもそれは判る筈だから、そうすれば強いて逢おうとしたところで無駄だと思った。で、その通り話して、向山だけ帰らせた。

「じゃ、今日はいずれ遅くなるから、明日逢おう。」

 やがて韮崎は少しまごついた果てに、漸(ようやっ)とその家の石段の下へ出て来た。
 それが午後四時頃でもあったろうか、洋風の応接室へ通って、煙草をふかしながら、しばらく話してから、秦野家へ電話をかけてみたが、まだ帰らないというので、

「それでは誰方かがお帰りになり次第電話をいただきたいんですが…。」
と、こっちの番号を知らした。

「飛んだ御迷惑で。」

「いいえ。しかし色々なことがあるものですな。折角先生を煩わして、うまく行けばいいですがな。」

「何うですかね。大分怒っているようですから。」

「新聞は誇張もあるでしょうが、向山ってずいぶん名の売れた人でしょう。洋行もしたんじゃないですか、どうしたというんですかな。」

「いやあの事は遣りかねない男なんです。と言って裁判所へ突出してみたところで、今更取返しのつくことでもないですからね。」

「まあ、こんな事は成るべく秘密がいいですね。」そう言っているうちに、支度ができたからと言って、親類の娘でそこへ来ている子が知らせに来た。

「何にもありませんが、二階へどうぞ。」

 韮崎は見晴らしのいい二階へあがった。去年の夏も其処で風に吹かれながら支那料理なぞでビールを飲んだことがあった。

「先生酒は。」

「酔っても困りますから。」

 それから食事がすんでから二三の陶器や絵なぞを見ながら、話しこんでると、やがて電話がかかって来て、韮崎がおりて行って、受話器をあてて話しかけると、

「あなたは韮崎さんですか。」と、二度ばかり念を押した。そして今帰って来たからお目にかかるけれど、どうか独りで来てほしいと言うのであった。

 韮崎は直ぐ出向いて行った。もう日暮方であった。彼は二階の一室へ案内されたが、出迎えたのは無論隆一氏であった。韮崎が彼に逢ったのは本当に久しぶりであった。二人は久濶(きゅうかつ)を敍(じょ)した。

「今度はどうもとんだことで、皆さんさぞ御心配でしょうと思います。私もこんなことでお目にかかろうとは思いませんでしたが、どうも己むを得ませんので。」韮崎が言うと、隆一氏も傷ましいほど沈んだ調子で、

「いや、有難うございます。私も我々仲間の出来事であるだけに、一層残念に思っておりますので、単に自分のこととしてのみでなしに、文壇のために悲しむべきことだと思います。」

 韮崎は心からそう考えている隆一氏の本質的な言葉に一応は同感しないではいられなかった。



 隆一氏は又言った。

「向山君は何ういう人だか一向知りませんが、作は読んだこともありました。なかなか好いところもあるようですが・・・。」

「さあ、私は薩張(さっぱり)読まないんで。しかし余り人気ものになり過ぎた形ですね。それが却て…。」

「たしかにそういう点もありましょうね。」

「それで何うでしょう、向山のやったことの乱暴なことは私も擁護の辭(ことば)がないので、その点は向山に代わって重々お詫び致しますし、また何とか謝罪の方法も講じましょうが、何とかして一つ穏便にすましていただくことはできないでしょうか。」

「は。」

「もう訴訟の手続はなすったんでしょうか。」

「いや其れはまだ明瞭(はっきり)したことは判りませんが、まあ弁護士に任してあるような仕末で…それに父親や親類の意見もありますので私だけの考えでお返事をする訳にもいかないのでして。」隆一氏は心苦しそうに言うのであった。

「どうでしょう、お父さんにお目にかかれないでしょうか。」韮崎がいうと、隆一氏も拒みはしなかった。

 そして「話してみます。」と言って下へおりて行った。
 暫くすると彼は上って来た。

「それでは父がちょっとお目にかかるそうです。」

 そして間もなく秦野氏が上がって来た。
 もと将校であった秦野氏は、もう可也の老体であった。健康もすぐれなかった。韮崎は懐かしい其の郷土色を見逃すことができなかった。
 彼は辞を低うして改めて来意と慰藉の言葉を述べると同時に、向山のために特別の寛容を乞うた。

「向山も今更自分のしたことに驚いているような始末です。無論後悔もしております。私がお願いする以上、今後こう云うことのないように、充分悔悛(かいしゅん)の実(じつ)もあげさせるつもりであります。今あの男が罪に問われるようなことがあれば、それこそ致命傷です。何分常軌を逸した男で、年も若いことですから、問題にするのも可哀想かと思いますので、謝罪の意を表する事は何等かの方法で取らせますから、今度のところは一つ穏便にすましていただきたいんですが…。」

「しかし向山を赦して、私の娘は何うなりますかね。」秦野氏は受容れなかった。

「それは充分お察ししていますが、まだ年の行かない方が、これから法廷へ立ったり何かなさるということは、随分お可哀そうでもあるし、生涯のことも考えてあげなければならんと思うのですが…。」

「娘は犠牲に供しても、世のなかのために、向山のような男には、それ相当の制裁があって然るべしだと思っていますが、しかし折角のお話だから考えてはおきましょう。」

 韮崎はそれ以上言う余地もなかった。それにこの問題が一度の訪問で解決できようとも思わなかった。出来ることなら貴意に添いたいが、親類とも相談のうえという隆一氏の口吻もあったし、父君の態度も感じが悪くなかったので、彼は間もなく引揚げる事にした。

「先刻向山が自動車のなかで、待っていたそうだが、どうかあの男は一切この近くへ来ないように。」秦野氏は話のなかに、そんな事を言っていた。
 韮崎が門をあけて出ようとすると、いきなり写真班の襲撃に出会った。


 実際問題にかけては何時も後になってから自分の迂濶な事に気のつく韮崎であったが、その時もやっぱりさっぱりそうであった。彼はもう一度秦野家を訪問して、返事をきいたものか、それとも先から何とか挨拶のあるまで、じっと待っているのが礼儀だろうかと、そんな気持がしていたのであったが、それを能く考える間もなく、また考えるまでもなく、秦野家から法廷へ持出した告訴状が、中一日をおいたかおかぬに大々的に新聞に載せられて、一時にぱっと拡がってしまった。韮崎からいえば迅雷耳を掩う(おおう)に暇(いとま)あらずの感があった。

「これじゃ行くがものはなかった。ぺこぺこお辞儀をしただけが損だった。」韮崎は思った。迂濶だけに驚きも腹立ちもしなかったがあのときの秦野家――少くとも老人の態度には既に決定的のものがあったことが、明瞭(はっきり)わかって来た。隆一氏の取った紳士的以上の好意的態度の意味には、勿論同感することができた。

「この事が何ういう風になりましょうとも、私達個人同志の気持にまで累を及ぼさないように、心から希望しております。」

 隆一氏は別れるとき、そう云う口吻を洩らした。或はそれ以上謙虚な言葉をもって韮崎を送り出したのであった。
「どうも駄目らしい。」韮崎もそう云う予感があったのではあったけれど、それがどしんと来るまでは、割合楽観の余裕もあったのであった。
 そして告訴状が可也(かなり)手きびしいものであったことは、事件が法律という形式ばった型にはめられて敵対行動に移される以上仕方のないことであったが、脅迫、強姦、誘拐などと云う文字が、記事の見出しとして、それが勿論訴訟の理由として、大々的に書きつらねられてあったことは、大きな活字のその文字を見ただけで、可なり韮崎の感情を不愉快にした。

「こりゃあひどい。強盗はひどい。」彼は独りで呟いた。

 令嬢の指環を巻あげたとか、紙入を取りあげたとか⋯しかも其が令嬢の好んでしたことではないにしても、普通の盗人の心理や行為とは、まるで違った、可成親しい交際があったと見ても、少しも差支えのない二人のなかに行われたこととすれば、強盗呼ばわりをするのは、不合理ではないにしても不穏当だと思われた。言葉の耳障りがひどく悪いのであった。
 韮崎は自分の謝罪と和解の言葉については、あの時はっきりとではないまでも、あれで先ず「せっかくだが応じかねる。」という返事を得たものと解する方が、寧ろ至当かと思われたけれど、告訴の理由には無論素人考えとしてだけれど、全く同意がしかねるのであった。
 どっちにしても此の上、自分の蠢動する余地のないことがはっきり解った。

「こうなればもう俺の出る幕じゃない。」彼はそう思った。

「種を蒔いたものが刈らなければならない、順序だ。」

 但秦野家で、韮崎の意志が充分わかっていたか何うかは疑わしかった。単に向山を救うための、一種の揉消運動のように思われていたのではないかと思われると、韮崎も余り好い気持がしなかった。告訴の出方が大々的であっただけ、それだけ彼は衷心(ちゅうしん)しょげずにはいられなかった。
 向山が直にやって来た。彼は前よりも一層蒼くなっていた。目が神経的に曇(うる)んで血色がひどく冴えなかった。

「到頭やったね。」

「えらいことに成ってしまって…。」向山は自嘲的に、しかし痩我慢な苦笑を浮べた。


十一


 韮崎は向山と向き合っているのが苦しかった。問題がもう法律の世界へ持込まれた以上、向山がいくら絡みついて来たところで、それを受容れる資格はなかった。

「もうこうなっちゃ仕方がないね。君は大した悪いことをしたとは思っていないようだけれど、法律家の目で見るとあんな事になってしまうんだからね。」

「何もそんな業々しい問題じゃないんだがな。」向山はむしろ不思議そうに、

「何うすればあんなことになるんです。」

「悪い事は悪いよ。毎日毎日新聞なんかに出る社会面の罪悪なんてものも、その人間の立場になって見れば、やっぱりそうなのさ。ちょいとしたことが随分大きい影を投げて行くんだ。それにしても強盗というのは少し可笑(おかし)い。しかし短刀をもっていたのは宜しくないね。」

「それはあすこの警察で、ちゃんと了解を得ているんです。護身用にもっていたというので…。」

「氏名詐称もよくない。」

「あれも僕の崇拝者の名前を、ちょっと悪戯に書いただけで…。」

「そう言えば一々何んでもないことのようだけれど、相手は何しろ良家のお嬢さんだからね。カフエの女給や料理屋の女中を相手に、悪戯をしたのとは違うからね、あのくらいの事は、相手が水商売の女だったら、何でもないことじゃないか。」

「何かこれは原因があるのじゃないですかね。」向山の目は異様に輝いた。

「原因とは…。」

「原が僕の世界的声名に対して、嫉妬を感じて秘密に何かやっているんじゃないですかね。」向山は微声(こごえ)で真面目に言うのであった。

「原?」

 韮崎はおかしくなったが、それに類したような誇大妄想な言葉は今が初めてではなかったので、大して呆れもしなかった。韮崎は彼の人気の立った長編は読んでいなかったが、短いものは一つ二つ読んでいた。それは実際莫迦々々しい妄想的な頭脳で書かれた出鱈目のものであった。
 同郷の或る大家のものにも向山と共通の妄想があることを、彼はそのとき気がついた。しかし後者にはいくらか神秘めいた特種の世界があった。趣味性にも優れたところがあった。向山のものにももっと実質的なものは無論あるに違いなかった。帰朝後書いた英国の或る女流労働家との会見なぞはたとえ其の書いてあることが、全然自己の広告で、実際その女に逢って来たのか何うかすら疑わしいのであったが、何か誤魔化すだけの文才は認めない訳に行かなかった。
 わずか二十二や三で大名をあげた自分に対して、世間のあらゆる人が驚異と羨望の目を聳て(そばだ)ている。事によると自分は妬みのために毒殺されないとも限らない。そう言った気持が絶えず向山の神経を脅かしていたので、今この裁判事件も、時の政府が手をまわして、この機会を利用して、彼を葬ってしまおうとしている、一種の陰険な政略ではないかと思ったのも、そうした強迫観念に襲われがちな彼としては、強(あなが)ち理由のないことでもなかった。韮崎の考えようだと、彼のそうした妄想と変態的な性欲とが彼にああした偉大な天才的作品を書かしたと思うより外はないのであった。

「一体何うしたらいいですか。先生。」

 向山は冷かすように、哀願するように言った。
 彼の先生呼ばわりも、この事件が初まってからであった。事件の前後は「韮崎氏」で充分であった。彼は正直であった。

「おれは知らんよ、もう。」韮崎も笑いながら言った。

「知らんてか。」向山も苦笑したが、結局弁護士に相談した方が――というよりも、そうするより外はなかった。

「誰か弁護士を知っていないのか。」

十二


 向山はまた困惑の色を浮べて、口を尖らせた。

「弁護士を頼むてか。」

「それより外ないじゃないか。それとも君が法廷に立つかね。」

「法廷に立つなんて、そんな…。」

「先が弁護士を立てている以上、己むを得ないじゃないか。法廷の手続は総て専門家に頼むより外はない。」

「それだって弁護士を知らない。」

「僕も弁護士は知らない。民事なら一人二人知っているけれど、刑事だから。Sー社かどこかで訊いてみたまえ。Sー社で弁護士の心配ぐらいして貰っても可いだろう。こうなれば弁護士が頼(たより)なんだからね。」

「そうですか。」

 そして、向山は遣り切れなさそうに、
「ああ早や。」と溜息をついていた。

「しかし君が富美子さんにやったという手紙が新聞に出ているが、それに対して君の方には何にもないのかね。」

「そうですね。」

「富美子さんから手紙をもらった事はないのか。」

「家に何かあるかも知れないが…。」

「何かないと困るね。手紙でも葉書でも。」

「何処か探したらないこともないでしょうが…」と向山は曖昧であった。

「そう云うものが、たとえ一つでもあれば、この際有利な証拠品になるのだから、とにかく其を探してみたまえ。それから社へ行って、あそこで弁護士の周旋をしてもらいたまえ。早くしないと駄目だよ。」

 向山は気が進まないらしかったが、韮崎ももう彼のために奔走してみる気がなくなった。

「本来なら、こんな場合に力になってくれる友人の一人二人はやって来てくれるのが本当じゃないか、この事件が公にされてからもう二日にも三日にもなるのに一人も訪ねてくれるものがないというのは、寧ろ不思議じゃないか。君にはそう云う友人が一人もないようじゃないか。」
 
 向山はうつむいて黙っていた。

「文壇はとにかくとして、文壇以外にこういうことに奔走してくれるものはないかね。」

 勿論向山も韮崎によって文壇的に世間へ出たいとは思っていた。韮崎のほかにK―君なぞという同じ郷里の作家とも、比較的懇意にしていたけれど、彼の性癖を知っているものは、誰にしても好い感じをもつことは出来なかった。
 とにかく向山は追立てられるようにして、S―社を訪うべく出て行った。
 彼はこの事件が初まってから、毎日のように舞込んでくる脅迫状に接していた。この間韮崎が行ったときも、向山は五六通の葉書を示した。その中には団員とか云うような名を署したものもあったが、どれも之も過激な言葉で向山の行為を憤慨したものばかりであった。勿論文学青年らしい、多少でもこの事件に理解をもつことのできるような気のきいたものは一つもなかった。
 それでなくてさえ恐迫観念におそわれがちな向山であった。そんな葉書を手にする度に蒼くなったのも無理はなかった。彼は強い腕力をもっていた。柔道も初段ぐらいであった。彼は常にそれを頼みにしていた。向山は料理屋の女中や芸者などに、巫山戯(ふざけ)半分時々腕力を揮って見せた。ちょっと腕を掴まれても、女たちは痛がって悲鳴をあげた。腕首でびしゃりと打たれて、涙ぐんでいる女中もあった。そしてまた其の暴行によって、大騒ぎがおこって、韮崎がやっと取鎮めてやったこともあった。向山の口吻によると、彼は欧米漫遊中も、彼の高慢で粗暴な態度によってひどく遣られたことも一度や二度ではなかった。パリーの或る大きなカフェで彼は群衆の物凄い突撃に出逢ったことすらあった。日本人仲間にすら袋叩きにされた。しかし彼は臆病であった。

十三


 向山は韮崎が行った時も、記者が訪問したりする毎におどおどしていた。二人で外へ出た時、門を出て俥へ乗るあいだも、彼はどこかそこらに彼を待伏せしているものが居りはしないかと、用心ぶかく四辺(あたり)を見廻していた。その時二人づれの人相のわるい職人とも書生ともつかぬ青年の姿を見たとき、彼の目の色が変わっていた。多分夜なぞもおちおち眠れないことがあるに違いないのであった。何よりも彼は脅迫状を恐れていた。韮崎の難詰がなくとも、彼はこの際見舞状一つくれる友人のないのを心寂しく思っていた。後(のち)にそう云う男が一人郷里から出て来た。叔父さんも来た。しかし皆んな彼には手古摺りきっていた。

 S―社へ行った向山は、夕方になって悄々(しょうしょう)帰って来た。彼は全く意気が阻喪(そそう)していた。

「弁護士はありそうかね。」韮崎がきいたけれど、向山は要領を得なかった。そう云う話はてんで持出す機会もなかったらしいのであった。社でも洋行前後から、彼を持て余していた。

「仕様がないな。」韮崎も困惑した。よし自分の手で弁護士を頼むとしても、向山が素直に言うことを聞くかどうかが疑問であった。

「では仕方がない。適当な人があるかどうかわからないけれど、弁護士仲間を知っている男が一人いるから、それに当ってみよう。君の面目を立てるには、ちょっと大家でないといけない。花村といったような名高い人でないと。」

「そうですか。」向山は驚いた風であった。

「だってそうじゃないか。先が高飛車に出て来たんだから、此方も堂々の陣を張らなきゃいけない。その代り金の方も奮発しなくっちゃ駄目だ。金どころの騒ぎじゃないのだからね。」

 向山にも大して異議はなかったが、そんなにしなくともとでも思っているとしか思えなかった。
 そこで韮崎は向山をよく説得してから、日頃懇意な丸山氏に使を出して、ちょっと来てもらうことにした。丸山氏はまだ免状はもっていなかったけれど、なまじっかな弁護士よりも好い頭脳をもって居た。
 しかし丸山氏はちょうど不在だったので、韮崎は後で一人で頼むことにして、向山はやがて帰っていった。
 韮崎が丸山氏に逢ったのはその夜であった。

「さあ、一斗適当な人がいないので、何しろ事件が事件ですから、引受手がありますかね。」

「駄目ですかね。一流どころでなくとも、可いんですが…兎に角余り好い事件じゃない。ただ告訴状が少し乱暴ですからね。」

「しかし法律上凶器をもって脅かしたとすると、ああなるですよ。強盗といわれても止むを得ないですよ。しかし一つ当たって見ましょうかね。恋愛関係の有無が問題ですが、それはどういうんでしょうか。」

「それも明瞭(はっきり)した事は判らない。しかし秦野の令嬢の手紙位はあるように言っていましたがね。それも探してみなければ判らないけれど、何かあるんだろうと思う。」

「そうですか。それがあると物になりそうですが…。じゃ一つきいて見ましょうか。」

 そして彼は三四人刑事の大家の名を挙げた。
 とにかく一度向山を出した方がいいと思った。

「一度向山に会ってくれませんか。貴方がただと話しをするかも知れない。女との関係について、よく聴いて下さい。」

「そうですね。」 

 丸山氏はやがて帰って行った。
 花村というような老大家ではなかったけれど、花村の懐刀と言われている若手で俊敏な一人の弁護士が、一旦、躊躇したけれど、ちょっと見所があるのに気がついて快く引受けてくれたことが、その晩丸山氏によって韮崎に報告された。


十四


 事件が弁護士の手に移されてから、韮崎は漸(や)っと吻(ほっ)とした。全く傍観的態度が取られると思っていた。それに幸いにも丸山氏の尽力によって、人気のある一流弁護士に委任することの出来たのは、向山は勿論、彼自身としても肩身の広いような気がした。彼は此不幸な出来事について、初めから秦野家に同情していた。それは殆ど天災に近い種類のものであった。
 自動車に轢かれたとか、電流に触れたとか云うのと、大した変りはなかった。そうした危険物に近づいたのが不運だと言うより外なかった。秦家にしてみれば、向山の社会的地位を相当に認めている以上、そんな態度を取るのに無理はなかったけれど、向山をよく知っている韮崎から見れば、それは徒らに世間を騒がすに過ぎないのであった。当の本人の受けた損害や打撃が、それによって少しでも償われることにはならないのであった。若しもそれが単に周囲の人の鬱憤を晴らすための手段に過ぎないとすれば、被害者の立場は一層惨めであった。

 秘密ということが、この複雑限りのない人生では、或る程度まで、人の幸福の保障として、当然避けることのできない運命である以上、此の場合の善後策としては、秦野家の取った手段は余り聡明だとは思えなかった。出来るだけ事件の伝播を極限すると同時に、令嬢の今後を戒飭(かいちょく)するより外ないことであった。勿論秦野家でも、噂の拡がることを好まなかったのは事実だが、拡がった以上、事件を法廷へ持ちだして真相を明白にしようとしたことも明かな事実で、それは正直で潔白な秦野家の人達の気持の表白にはなり得るにしても、愛児を救うことにはならなかった。殊に愛嬢が向山の家なぞへ出入りしていたことは、父兄たちも自ら認めていたとおり、手落といえば手落であった。相手が向山のような粗暴な男だから、まだしも、危害が少いのであった。若しもそれが芸術家の名に隠れて、処女の貞操を弄ぶことを、当然許された特権のように考えている男であったら、害毒はもっともっと深刻に彼女を浸蝕したに違いないのであった。

 どっちにしても、韮崎は事の成行を静かに見るより外なかった。勿論彼は向山の前の女に対する行為を知っているので、内容的には此事件に興味をもつことは出来なかった。或る名士の愛嬢が、自動車にふれて不運な死を遂げたとか、線路へおちて電車に轢かれたとかいうことほどにも感じなかった。
 しかし厭なことには韮崎の所思(おもわく)は全くはずれてしまった。そして事件を弁護士に委任してから、韮崎は一層多くの分担を課せられることになってしまった。

 或る日も向山は、まるで魂のぬけたような顔をして、彼の机の端へ来て、ぐたりと坐った。

「どうしたね、小山弁護士と逢ったかね。」

「逢いました。」

「反訴訟をおこすとかいっていたが、君の方で何か材料を提供したかね。」

「何にも。」

「何か無いのかね。富美子さんから来た葉書のようなものが…。」

「ないことはないですけれど、そんなものを無暗に出していいですか。」

「あるなら出したまえ。それがあると無いとは君の死活問題なんだから。この場合刑事上の罪人になるかならないかは、君と令嬢との関係が、何んな風であったかという事より外ないんだから。どっちにしたって君のやったことは悪い。ただいくらか情状をくんでもらえるか何うかというんだが。弁護士はどう言ってるかね。」

「富美子から来たレターがいるというんだけれど、何だか信用できん。」

「弁護士を信用しないようじゃ、お話にならない。弁護士は神聖な職掌なんだから、何によらず真実(ほんとう)のことを話さなきゃあ駄目だよ。」

「信用していいですか。」

十五


 韮崎は向山の手元に何か一通や二通の手紙か葉書ぐらいはあるにはあるであろうが、それが果たして何のくらい此の反訴訟に役立つ種類のものであるかは疑わしかった。ウエールスの手紙を、虎の子のように大切にしていたことから考えると、比較するのは可笑しいが出されて見て興ざめのするようなものではないかぐらいに考えていた。事によると何にもないのが事実だろうとも思った。

「一体あるのか無いのかね。」韮崎は少し焦心気味(じれきみ)で言った。

「それは無いことはないんだ。いや、先生実際有るんですよ。けれど瞞(だま)して取あげてしまおうと言うのじゃないかね。」彼はにやにやと苦笑した。

「莫迦なこと言っちゃ可けない。あるなら早く出したまえ。それがあると無いとでは大変な違いなんだ。人に世話をやかすのも大概にしておくものだよ。弁護士の方だって厭気が差して引退るかも知れない。君自身の死活問題じゃないか。」

「無いと何うなるのですか。」

「それは僕にもわからない。けれど先方の起訴の理由を打消すだけの――打消し得ないにしても、いくらか軽くするだけの材料と理由がなくては困るだろう。つまり証拠の有無で君の運命が決るんだ。若し全然それがないとなると、いくら名弁護士でも救いようがないだろうね。」

「そうですか。じゃ出しても大丈夫ですか。裁判所へ取あげてしまうような事はないですか。」

「さあ、それは何うするものかね。君のものは永久に君のものだろうと思うが、今そんな事を言っていても仕方がないじゃないか。」

「富美子を裏切ることにならんですか。」

「君は莫迦だね。」

「莫迦だってか。」向山は苦笑した。

「先方で君の手紙を公開しているじゃないか。それも随分甘い手紙だからね。」

 韮崎は新聞で発表された其の手紙をよくも読まなかったけれど、甘いといってもそれは単に遊びに来て下さいとか、お父さんが二人の結婚を許して下さるなら、自分は何んなことをしてもいい、もっと実社会に打って出て、お父さんの気に入るような社会的事功を樹てて、自分の偉大さを示すくらいは何でもない。大臣がいいなら大臣になってもいいと言ったような、若しくはそれに似通ったような、ずいぶん古いお芝居じみた妄想が、ちょうど彼の創作が、略こんなものでもあろうかと韮崎が思った程度のものに過ぎないのであった。それは向山の罪を鳴らすために、発表したものとしては、可也莫迦げきったものであった。

「ちょっ。」向山は一つ舌打ちをした。

「じゃ出してしまいますか。」と、いつもの癖のわざとらしい優しい微声(うらごえ)で言って、両手を袖口へ引込めたかと思うと、内懐のところで、何か頻りに手先を働かせていたが、やがて二通ばかりの手紙がそこへ取出された。そして其の二つともが、美しい模様のある封筒であった。

「へえ、こんなものがあるのか。」韮崎はその一通を取あげて、中味を出してみた。そしてちょっと読んでみた。たしかに其は向山に逢って帰ってからの、甘い恋の酔心地からまだ全く醒めきっていない、思いのふかい倦怠を思わせるに充分な美文であった。

「こんなものがあるなら何故もっと早く出さないんだ。これくらいの有力な証拠はないじゃないか。」

「ええ、みんな出してしまえ。」

 向山はこう言って、その時するすると胴巻を引出して自暴(やけ)に振うと、胴巻の腹からばらばらと、大凡そ十幾通かの美しい封筒に葉書が韮崎の目の前に落散るのであった。そして悉皆(すっかり)振(ふる)ってしまうと、彼はいくらか得意のような悲痛なような表情をした。


十六


 令嬢から来た十二三通の手紙を早速小山弁護士に提供するように言含めて、向山を帰してから、韮崎は漸(やっ)とほんとうに落着くことができた。向山はそれらの手紙を一つも残さず胴巻に入れて、どこへ行くにも肌身に着けていたものらしいが、そうした彼の仕草は滑稽といえば滑稽だが、振った胴巻からばらばら落散った手紙を見たときには、韮崎も妙に感傷的な気分になったのであった。韮崎は秦野家の告訴状が新聞に出て以来、幾分の敵愾心をもたせられたことは争えなかった。殊に強盗という文字が彼の神経を脅威した。向山の行為を是認しようとは夢にも思わなかったけれど、そういう風の罪名で彼を糾弾することが、果たして紳士的であるか何(ど)うかは疑わしかった。温和な秦野家の家庭気分にも、決してふさわしいものだとは思えなかった。韮崎はそれを遺憾に思った。丸山氏によれば、誣告罪(ぶこくざい)が成立つような話でもあったが、そうなると争いは益々醜くなるばかりであった。 

 韮崎は向山の胴巻を見ない前に、一度隆一氏の訪問を受けたが、それは勿論韮崎の提言が、あの場合秦野家の周囲の人達によって、取上げられるだけの余裕もないまでに気分が緊張していたので、それらの了解を得る為であったが、韮崎は隆一氏の顔を見ると、向山によって撹乱された家庭の傷ましさが思いやられて、口を利く事もできなかった。殊に令嬢の方から向山に対して、自発的には何一つ恋愛らしい交渉をもとうとした事のなかったこと、令嬢が入院中であること、それもちょっと重い傷なので、全治までには相当の時日を要することなど聞かされると、それが幾分自分の責任ででもあるかのように頭が下るのであった。韮崎の疑点は、勿論二人の恋愛が何んな風のものであるかと云うことであった。韮崎に限らず、この事件に興味をもっている一般人が考えているように、令嬢の方にも幾分その意志が働いていたか、若しくはまるで無かったかが明瞭(はっきり)しない以上、この事について妥当な判断を下すのは困難であった。

 しかし韮崎としては隆一氏の言を信じない訳に行かなかった。向山がそれについて、何の説明も興えていないところから想像しても、彼は自分に近づいて来たこの無邪気な文学少女の気持を、深く察する余裕もないまでに、魅惑されてしまったものと思うより外なかったけれど、十二通もの令嬢の手紙、殊にそのなかの大切な一二通を見てからは、見方が遽(にわ)かに変って来た。勿論初めから終りまで令嬢の方に愛があったとは思えなかったが、或る時は恋愛といっても可いくらい、気持が向山の方へ働きかけていたものと見做す方が、至当のように思われた。事によると、もっと熱情的な愛を感じたことがなかったとはいえなかった。しかし向山を知るに従って、それが遽(にわ)かにさめたと見做すべき理由もあったし、それが又向山の狂態によって、極度の恐怖と嫌悪にまで変って行ったことも、想像するに難くなかった。とにかく向山に恋愛と思わせるだけの、友誼的な親しみ以上の或る気持の働いていたことが、一度くらいはあったとしても、大した間違いではなかりそうに思えるのであった。

 いずれにしても、手紙を見てからの韮崎は、自分だけの気持としてもいくらか溜飲が下るような感じであった。それが向山に有利であるとかないとかいう事は、自ら別問題であった。

 すると或る日の夕方、小山弁護士のところから、電話がかかって来て、韮崎の妻が出て行って聞いてみると、ちょっと相談したいことがあるから、これから伺いたいというのであった。
 此の上にもまだ何か自分が必要なのかと、彼はうんざりした。


十七


 間もなく三人がやって来た。向山と丸山と小山弁護士と。
 小山弁護士とは、韮崎はその時初めて逢ったが、体の細(ほっ)そりした引締った顔立の優しい秀才型とでもいいたい瀟洒(しょうしゃ)な風貌の持主で、しかも少しも気取ったところのない平易な感じの若紳士であった。弁護士よりか医者といった方が適当らしく思えた。

「今度は飛んだ御迷惑をお願いしまして。私がちょっと顔を出すはずでしたが、つい失態していました。」韮崎は挨拶した。

 小山弁護士は更に気取ったり、勿体ぶったりする風がなかった。

「それについて丸山さんとも、色々御相談の結果、少し貴方を煩わしたいことがあって、揃ってお願いに出たわけですがね。」小山弁護士は思慮ぶかい態度で切出した。

「そうですか。」韮崎は、不安を感じながら答えた。

「それは何ういうことですか。私は事件が法律へ移された以上、もう手のつけようもないので、専門家の貴方にお委せして、すっかり局外に立ったつもりでいるんですが。」

「それはそうでしょうが、その方の手続は出来るだけ手を尽くしましょうが、事件が事件ですから、やっぱりそれだけでは面白くないので、もう一度秦野家へ御同道を願って、穏かな話をしてみた方が好いと思いまして。」

「そうですか。実は私も一度行って、ぴょこぴょこお辞儀をして来たのですからね。しかし其時はもう秦野家で起訴と決定していたらしいので、間もなくあの告訴状が公開された始末なのですから、私としては二度と秦野家へ出向いて行くのは余り好ましいことでもないし、また必要もなさそうに思うんですが…。」 

 小山弁護士は多くを言わなかった。強いようともしなかった。

「それは色々先方の事情も聞いてみますと、向山君のした事は、全く乱暴で秦野家の家庭の受けた損害は、想像以上なのです。あの告訴状は少しひどくはないかとも思いますが、あの人達の心持を考えれば、無理のないことで、向山としてはこの際、潔く法律上の制裁を受けるのが至当だと思うんです。また向山君の性行について貴方にこの事件を御依頼した私として、彼此糾弾がましいことを口にするのもおかしいようですけれど、実際このくらいの事はあってもいいと思います。」

 小山弁護士は少し惘(あき)れたような表情をしていた。向山のために起った韮崎が、向山を盛に攻撃しはじめたので、意外の感じがしたらしかった。

「貴方方には法律上、できるだけの事をやって戴いて、向山君のために成るべく有利な結果を得させていただきたいし、又それが御職掌でもあるのですが、私自身としては向山君には実は余り同情出来かねるのです。今度のことがなくとも、何かこれに類した事件を持あげずには居ないので、寧ろこのくらいのことですめば軽い方でしょう。若し向山君に芸術家として本当に好い素質があるなら、一度ぐらい監獄へ入って来たところで、人間としての修養にこそなれ、そのために滅びてしまう理由はない筈です。まあ獄舎生活でもして、膝を屈して静かに考えた方が、まだしも生きる道がひらけて来るだろうと思うんです。我々は書くものが本当でさえあれば、決して世間から葬られる心配はないんですから、その点から言えば、これが却って死中活を求める動機になりはしないかとも考えられるので、向山君の心掛次第では、将来新しい生面の開ける機縁じゃないかと思うので、実は向山君がその試練に堪えられるか何うかを、静かに観ていたいのです。破廉恥罪なんかと違って、そう悲観したものでもなかろうと思っている。」


十八


 勿論小山弁護士等と一緒に入って来たときの向山の態度が、韮崎に対しては格別としても、相変わらず何時もの傲慢ぶりを発揮していたのは可いとしても、皆んなが誰のために心配しているのか解らないような風で、「ああ!」と嫌悪と倦怠との溜息をついたり、小山弁護士や丸山氏――殊に丸山氏が何かいうと、「貴様たちは何を言うか」と言った風で、「何ッ」と変な目つきをしたり、冷笑したりするので、韮崎も見かねて、彼を少しへこませておこうと思って言ったことが、ついはずんでしまったのであった。殊に入って来た時、小山弁護士を凌いで上座に押直ろうとしたことなぞも、韮崎の気を悪くした。

 向山は韮崎の言うことには、一言半句も反抗がましいことは口にしなかった。彼は左(と)に右(かく)この事件が片付くまでは――それは彼自身の意味では、首尾よく結婚という大団円まで漕ぎつけることらしいのであるが――何はおいても韮崎の袂の下に隠れているのが、一番安全な方法だと感じていることがありあり判るのであった。

 韮崎の向山非難が少し猛烈なので、座が白けてしまった。韮崎も少し調子に乗りすぎたのに気がつくと、後は反(かえ)って空虚感に襲われてしまった。そして小山弁護士のわざわざ出向いて来た意志を無にするのを、済まない事に思った。

「しかし私が行っても効果はないでしょう。前に断った手前もあるし、反って意地になりはしないでしょうかね。」韮崎が漸く小山弁護士の方へ向直った。

「いや、そういう事はないでしょう。」小山弁護士は言うのであった。

「向山君の手元にある、秦野令嬢の手紙もあることですから、実は明日にも検事局へ向山君と同行して、大分事実相違の点もあるから至急一つ取調を願いたいというんで、逆襲的に出るつもりで、その方法も考えているんですから、そう悲観するほどのことはないんですが、どっちにしても法廷で争うということは、事件の性質上余り面白くない。やはり貴方が最初お立ちになった趣意に添うようにして、成るべくなら和解した方が円満じゃないかと思いますので、誠に恐縮ですが、一つ御出馬が願いたいんですが。それで先方で応じなければ己むを得ませんから、その時は手続を踏むより外はありませんが、その前にもう一度手を尽して見たいと思うんで。」

「争うとなったら、何ういうお見込みですか。」

「やって見なければ判りませんが、まあ…。」小山弁護士は余り望まないらしい風であった。勿論その地位名声からいって、決して好んで手にかけたい事件ではなかった。

「あんな手紙があっても、やっぱり駄目ですか。」

「あれは有利です。しかし双方法廷で争うということは何うですか、あれを和解の材料に使うのは好いとしても。」

「そうですか。」 

 韮崎は再び秦野家の閾を跨ぐ気はしなかったけれど、しかし依頼した弁護士から改めて頼まれるとなれば、それをも拒むのは心に忍びなかった。

 到頭彼は出向くことになった。

「貴方はもう余り何も口を利かない方がいいですよ。」奥へ入って袴をはいている傍に立っていた韮崎の妻が言った。

「今夜なんかの向山さんの態度ったらないじゃありませんか。誰のためにこんな騒ぎをしていると思っているんでしょう。」彼女は憎らしそうに言うのであった。

「あれを気にしていた日には…。」

 やがて韮崎は二人とつれそって、向山を残して出て行った。

「どうか先生お願いします。」向山は坐ったままで玄関へ出る韮崎に言った。


十九


 新緑季節の蒸し暑いような晩で、雨が降ったり晴れたりしていた。韮崎達は待たせてあった自動車で出かけたが、出かける前に、秦野家に電話をかけようかなぞという説もあったが、いきなり行ってみることにした。

「厄介ですな。単に事件を扱うだけなら可いですけれど、向山という人間を扱うのには骨が折れるんでしてね。可哀想でもあるが、癪にさわるような事が随分あるんですからね。」

「天才は狂人だというが、実際ちょっと変わっていますね。私は介意(かま)やしませんが、あの調子じゃ、ずいぶんお手のかかることでしょう。」

「御覧のとおり礼儀を知りませんから、どうか遠慮なくびしびし極めつけてやって下さい。私はよく知っているから可いが、知らない人は驚きますからね。一面にまた極く罪のないところもあるんです。帰朝後も色々話をきいてみると、なかなか優れた観察眼ももっているんですが、何しろあの調子だから…。」

「惜しいもんですね。何とかしてやりたいもんですね。」

「秦野令嬢の手紙を出すときなんか、実際おかしかったですよ、令嬢に対する思慕は実に幼(うぶ)で純なので、悪く感じれば何だか少し芝居をしているようにも思えますがやっぱりあれが真実なんでしょう。」

 すると小山弁護士も、目を見張って、

「いや、なかなかあれを見せませんでした。非常に神聖なものと思っているらしいんで、私に宣誓をしろというんです。しかし色々話をした結果、漸(や)っと了解できたとみえて、私に握手を求めて、その後で手紙を出すと云う始末です。あれなんか見ると、余程熱情をささげているものらしいが、結婚談を進める訳には行かないんですか。」

「駄目ですね。」

 韮崎は投出すように言った。

「秦野家でもいっそそうした方がいいんじゃないんですか。私はそれを基調にするのが円満な解決を得る捷径(しょうけい)だという考えで、この問題を緩和することに非常に役立つのです。」

「成程!」韮崎は小山弁護士の着眼点に直ぐ気がついた。その事が成立しようとしまいと、秦野家でその話に好意をもとうともつまいと、弁護士としては、それはどうでもよかった。ただそう主張することが、こっちの立場として有利なのであった。
 韮崎はそう推察したが小山弁護士にしたところで、それが実現すれば、それに越したことのないのは無論であった。
 しかし韮崎としては、結婚問題を提言するなぞは、何としても空々しいことであった。

「秦野家にはその意志がないのですか。」

「あるものですか。向山があの近所へ姿を現わすことさえ怖れているんです。たとえ又秦野家にその意志が充分あるにしたところで、僕として勧める気にはなれません。娘を一人犠牲にするつもりならばですが、さもなければ迚(とて)もできない相談でしょう。今度の秦野家の場合なんかは、私としてはそう大したことでもないんで。私はあれ以上のことを知っているものですから…。」

「そうですかね。あの調子じゃ、実際ちょっと困るかも知れませんね。」

「しかし秦野家も令嬢の将来についてはずいぶん困りましょうね。」

 丸山氏も言った。

「どうしますかね。私ならああ云う事件があれば、一切口を喊(し)めて新聞記者なんかには絶対逢いませんがね。出来てしまったことは、令嬢のために善後策を講ずるより外ないことですもの。殊にあんなに手紙の往復なんかしていたとすれば、尚更です。」

 自動車の中で、三人はその話をしていた。するうち秦野家の近くへ来たことに気がついた。


二十


 秦野家では、顔をそろえて行った三人を下座敷へ通して、隆一氏がさも困惑を感じたらしい態度で待遇しただけで、最初の意志を翻す様子はなかった。小山弁護士は頻りに秦野家の弁護士に逢うことを望んで、自身電話口へ行って、方々へ電話を掛けて見たけれど、弁護士の所在は不明であった。老人もちょうど不快で、面会を強要することが憚られた。
 三人は通ったには通ったけれど、何か人の住居へ闖入(ちんにゅう)して来たような感じで、その間に立っている隆一氏に、ひどく済まないような気がした。しかし別に面会を忌避するような様子は見えなかった。ただ少し邪推が許されるならば、弁護士が小山弁護士と会見することを避けているのではないかと思われる節がないでもなかった。
 廊下をへだてた家人の居間の方で、老人の咳入る声なぞがするだけで、話声一つ聞こえはしなかった。

 ふと隆一氏が電話口で話している声が聞えた。

「杉山弁護士じゃないか知ら。」韮崎が言うと、他の二人もそっと聞耳を立てたが、そうでもないらしかった。
 小山弁護士は「では何れ法廷ででも逢うことにしよう。」と言って、仕方なしにその夜は秦野家を引揚げた。

 韮崎が家へ帰って来たのは、大分おそかった、待っている筈の向山も、もう帰ったあとであった。

「向山はいつ頃帰ったの。」

「もうちょっと前に帰りましたよ。」と妻は答えた。

「どうでした。」

「弁護士に逢えないんでね。」

「向山と云う人は厭な人ですね。」

「何うしたんだ。」

「みんなで揃って出て行って、一体どこへ行ったんだってぷりぷり怒っているんですよ。吉原へでも繰込んだじゃないかって、随分人を莫迦にしているじゃありませんか。私も癪にさわったから言ってやったんです。どこへ行くものですか。皆さんがああやって心配して、秦野さんへお話にいらしたのに、お酒でも飲みに行ったように考えて…まさか貴方だってそう思っているんじゃないでしょうけれど、笑談にも程があるって、そう言ったんですよ。すると何うでしょう、すぐ呆(とぼ)けて、何分よろしくって、猫撫声なんです。あの人余程何うかしていますね。皆さんの勝手で何かやっているように思っているんですからね。ああいう人は少し極めつけてやらないと、何処までのさばるか知れませんよ。」

「俺ももう厭になってしまった。」

 韮崎も溜息をついた。

 秦野令嬢の手紙の標本的なものが一二通、新聞で発表されたのはその翌日の夕刊であった。それに小山弁護士が向山を帯同して、検事局へ出頭したことや、小山弁護士のこの事件に対する意見なぞも景気よく記載されてあった。韮崎もざっと目を通したが、それによると向山の演じた暴行は兎に角として、誰が見ても二人のあいだには恋愛に似た関係が、暴行前にはあったものと思うより外なかった。そして令嬢の手紙を読んだ多くの読者の、この事件に対する見方がそれによって遽(にわ)かに一転するであろうと想像されたが、同時に一般の人気と興味が、一層高められて来ることも明かであった。少くとも秦野家の高飛車な告訴状の根底が、一挙にしてぐらつき出したことは争えなかった。
 次の日の新聞では、遽(にわ)かに狼狽しだした秦野家の二重の悲劇が、さも興味ありげに伝えられたが、韮崎自身はそうした手紙の向山の手元にあることを、用意周到な秦野家の人達が漸(や)っと初めて知ったというのが不思議でならなかった。法廷まで持出すのに、その事実がわかっていなかったというのは、何としても不可解であった。


二十一


 その手紙が、文学少女の空想から生れたものか、それとも秦野家で、多分その後声明したとおりに、向山の要求によって芸術的に創作されたものか、それは詳でなかったけれど、とにかく恋愛があったと見做されても仕方のない証左にはなるのであった。しかも十二三通もの手紙が向山の手にある以上、少くとも普通の交際以上の親しみがあったと観るのが至当であった。で、一般的人気がむしろ向山の方へ向いて来たところで、小山弁護士は今一度韮崎の出馬を必要とした。

「あれだけの材料があっても、やっぱり可けないですか。」韮崎は三度も秦野家の閾を跨がなければならないのが、ひどく煩わしいことに思えた。

「あれだけのものがあるから、示談がしやすくなった訳なので、秦野家でも或いは折れて出てくれるかとも思うんです。その点を一つ懇談してみようと思うので、杉山弁護士も今度は会見することになっています。」

「争うとしたら…。」

「そうですね。やって見なければわかりませんが、余りやりたくはありませんね。」

「告訴状を取下げるでしょうか。」

「当ってみなければ判りませんが。条件次第では、案外うまく行くかもしれませんよ。」

「検事の方は何うでしょう。」

「示談ときまれば、双方で出頭して、貴方にも係りの検事に逢っていただいて、取下げを願うんです。検事は割合解りのいい方だし、近頃は法廷の方針も余程かわって来ていますから。」

「大分自由になったようですね。しかし法律の改廃に先だって、裁判官の解釈が自由に利くということも考えものじゃないですかね。法律の威信がぐらつきはしないですか。」韮崎は少し余談を試みた。

「まあ、しかし大分新しくなって来ましたから。」

 とにかく三人で出かけることになった。
 待ちもうけていた秦野家では、すぐ二階へ案内したが、気分が何となく明るかった。韮崎も前のような重苦しさを感ずるようなことはなかった。杉山弁護士が、すぐ入って来た。彼は秦野家の姻戚だということであった。皆んな韮崎と郷里を同じくしていた。韮崎はすぐ郷土的な感じを彼の面貌にかぎつけることが出来たが、彼は郷土の人としては俊鋭な部類の人で、少し話していると頭脳(あたま)の好いというよりか鋭いことが直ぐわかった。彼はむしろ蒼白い顔をした、ちょっと癪の高そうな瘦せ型の紳士であった。そして法律的な頭脳(あたま)で鋭く切込んで来た。韮崎はちょっと逡巡(たじろ)いだ。

「しかし向山も作家ですから、名が大切です。強盗なぞということは、彼に取っては可なり苦痛なことですが、お互いに意地になって争ってみたところで、双方傷つくだけで、御本人のためにも余り好いことにはならないだろうかと思うんです。秘密というと、何か悪いことのように感ぜられるけれど、新聞なんかで、長く世間を騒がすことは、褒めたことでもありませんでしょうから。」 

「いや、向山の方は、今でも熱烈な結婚の意志をもっているくらいで、御本人の手紙を公開することは、むしろ苦痛であったらしいが、それも事情己むを得ず発表したような事で、出来ることなら、そこまで話を進めたいが、それはまあ後として、こちらの面目の立つように、条件は何うにでも御相談に応じさせる積りです。」
 
 小山弁護士も遽(にわ)かに法律の甲冑をかなぐり棄てた。そして気爽(さばけ)て人情的な話に入って来た。ちょうど老父もそこへ来合せていた。

「どうか向山に今後ああいうことのないように、一つ十分に訓戒を垂れていただいて…こっちの方にも監督上手落のあったことは、世間に対して申し訳がないので。」老父は誠意をこめて言うのであった。


二十二


 話が条件に入って来た。たとえ自分の方に弱点があるにしても、人を赦すということは、老父や弁護士の気分を軽くさせて居た。そしてその条件も、決して無理難題という意味のものではなかった。向山に改悛の実を挙げさせることが出来さえすれば、それで可いのであった。勿論今となっては、韮崎の方から慰籍料なぞの話を持出す必要もなかったし、そうした物質的の問題は少しも出ないのであった。

「謝罪状は勿論のことだが、今後一切本人に手紙をつけるとか、呼出すとかいうことは言うまでもなく、当家の玄関を訪問したり、近所を徘徊したりするような、当家に不安と不愉快を興えるような行動は、断じてしないことにして戴きたい。縁談なんかは思いもよらない事です。」杉山弁護士は言うのであった。

「それから向山にモデルにされて困っている婦人がある。小説だから何を書いても勝手だというのは世間に通用しないことで、芸術品として価値がありさえすれば、人を傷つけてもかまわないという訳には行かなかろうかと思う。現にその婦人なんかは足にキッスをしたとか何とか、大変なことを書かれて困っている。私も少し読んでみたが、何うも誇張が多い。今後どうか此事件は絶対に書かないと云うことを誓約してもらわないと、他日これをモデルにして何んな大袈裟なことを書かれないとも限らない。」

 勿論誰も異議はなかったので、杉山弁護士は紙筆を命じて、謝罪状の文案を作成したりした。
一二の箇条について、弁護士のあいだに少しばかり議論もあったが、双方固持するほどのことでもなかった。真実をいえば、秦野家で若し受けてくれるならば、物質的の償いを申出た方が感じがいいように、韮崎は思った。向山が四五万の金をもっていると聞いていたので、金を出すことは何よりも彼の苦痛とするところであるだけに膺懲(ようちょう)の意味では、それが一番痛切であると同時に、彼の面目をそんなに潰さなくて済むことのように思えた。若し令嬢に対する愛が真当(ほんとう)のものなら、向山に三千や五千の金を出させるのが至当だと考えた。
 しかし品格を重んずる秦野家の気持ちをも尊重しなければならなかったと同時に、和解が成立する以上、世間の秦野家に対する思惑をも考えるのが至当であった。で、彼はその話は口へ出さない事にした。

「向山と云う男は、同郷だという話だが何処のものですか。」老父は韮崎に訊いた。

「××の産れだそうです。お父さんは船持であったとかいうんですが、中学時代は△△市にいたようです。」

「惜しいものじゃね。悪い癖があって。」

 要件がすんでから、しばらくそんな話をしていた。
 三人はやがて辞して出たが、韮崎は向山に謝罪文を書かせることがまた一苦労だと思った。

「秦野家の背後に、だれか有力な同情者があるように、この前も隆一氏が言っていたが誰か知ら。」

 韮崎は思ったが、ちょっと見当がつかなかった。しかし別に気にもならなかった。誰が何と言っても、結局落着くところへ落着くより外ないのであった。どんな主張があるにしても、意地を張れば張るものが莫迦を見るより外ないことであった。妥当性と中庸性をかいた正義は、しゃっちょこ張ればしゃっちょこ張るほど、覆され易いのであった。
 時を移さず、向山に謝罪文を書かせることにしたが、それにも韮崎が彼を説得する役目を課せられた。そして其の翌日、みんなで向山をつれて韮崎の家へやって来た。田舎から出て来た向山の叔父も同行した。韮崎はその前にも叔父さんに逢っていた。


二十三


 向山は謝罪文を書くことを拒みはしなかったけれど、やっぱり素直には書かなかった。韮崎が命令的な態度で、その条件が彼に取って恩恵的なもので、でもなかったら刑事上の罪人にならなければならないであろうから、彼此不満を言立てる余地のないことを話すと、彼は口を尖らせて、

「わしに謝罪文を書けってか。」と意外そうに言うのであった。

「そうさ。」

「おやおや。」向山はとげとげしい声で言って、舌打ちをした。

「それだから可かんよ。謝罪文くらいですめば、上等じゃないか。小山弁護士の出方が機先を制したから、君の立場を非常に有利にしたんだ。秦野家では恋愛関係は絶対になかったし、初めから愛もなかったので、ただ唆されて興味的にあんな手紙を書いたと言っている。それも少しおかしいけれど、それ等の事実の取調べはとにかく、君のやったことは何うしたって穏やかでないんだから、それに対して何等かの形式で、多少極りの悪い思いをしなければならないのは、仕方がないじゃないか。それが嫌なら刑事被告人として、法廷に立つより外はない。君の態度で法廷に立って見給え。小山さんがいくら弁護に骨を折っても、決して好い結果にはならないから。小山さんにしたところで、そこまで遣るのは好まないんだし、時日も費用もかかるから何うしたって損だ。」

 向山もそれはよく解っているらしかった。

「そうだ。先生の仰るとおりだ。今度のことで懲りるがいいぞ。」叔父はさも今だといわないばかりに、興奮した口調で言うのであった。

「一体お前は母や叔父の言うことを鼻先で、せせら笑っているからいけない。それはお前は物を書くうえでは天才かも知れん。成程えらい人物であるかも知れませんぞ。しかしその天才を誰に貰って来たと思う。やっぱり胎内から生れて来た同じ人間で、その天才も親から恵まれたものではないか。そう云う結構な頭脳(あたま)をもちながら、自分独りで豪くなったように思うて、親や叔父を馬鹿にするからこそ、こう云うことも起って世間を騒がせ、親に苦労をかけんければならん。」叔父は益々興奮して目を潤ませ、妙な手つきをして、

「わしは是までお前を懲して、その性根を直してやろうと、何か事のあるごとに幾度ぶちのめそうと思ったか知れないぞ。二人子と思うから、ずいぶん面倒も見て来た。わしは姉の食うに困ったとき、色々伝手を求めて田舎の裁判所に入れてやったこともある。お前はそういうところに居る人間じゃなかったとみえて、三月もいるともう逃げだしてしもうた。」

「ちょッ。」向山は苛々しげに舌打ちをした。そして、

「何を言ってるんだッ。」と𠮟りつけた。

 韮崎は向山がその役所勤めをしていたときに、書きはじめたのが彼の処女作で、彼の出世作である長編の第一篇であることを、これもその当時一緒にいた青年で、この事件半ばに上京して、向山の家に足をとどめながら、時々韮崎のところへも来る男から聞いたのであった。
 この新派劇のような一場面がすんでから、文案の草稿が向山の前に展げられ、硯と筆と紙が並べられた。

「この通り書けばいいのか。」向山はべたべたと書きはじめた。

 彼の横着でか、それとも不用意でか、文句が時々省略されたりしたので、小山弁護士がそれを注意したり説明したりすると、向山は遽(にわ)かに筆をやめて、

「おれを一体何だと思っているんだ。」と目に角を立てて怒った。

 温和でお上品な弁護士は呆れた顔をしていた。

「何を言うんだ。なぜ素直に書かないんだ。無礼じゃないか。」韮崎は仕方なしに声色を励ませて剣呑を喰わせた。

 向山はひしゃげた。


二十四


「それから明朝私も出てきますが、貴方にも一つ御迷惑でも係の検事に逢って頂きたいんですが。」

 謝罪文が出来あがったところで、小山弁護士がまた韮崎に言うのであった。

「私も出るんですか。私なんか行っても効果はないでしょう。」

「いや、そうではないですよ。先方も弁護士と誰かが出るでしょうが、こっちも向山君帯同で、一同出頭します。貴方には特に検事に逢って、何か少し言っていただきたいんです。」

「そうですか。私は口不調法で、おしゃべりが下手だし、却って検事の気持ちを悪くしやしませんかね。」

「何に、別にそう大してしゃべっていただかなくとも、出ていただくだけで結構なので、唯向山君の保護者として、ちょっと口を利いて頂ければ、それで十分なのです。」

 勿論裁判になれば、彼も証人として時々呼出されて、検事や判事の前に立たなければならない事はわかっていた。それから見れば和解の成立を報告して、告訴の却下を願うために弁護士について行くくらいの事は何でもなかった。この場になって彼はその労を厭(いと)う訳ではなかったが、新聞に書かれたり何かするのが嫌だった。
 しかし、検事に逢うだけでは済まないのであった。

「それからあそこに記者溜りがありまして、そこに各社の司法記者がいます。又始終あそこにいて、記者のために色々便宜を謀ってくれる人がいますので、検事に逢ってから、ちょいと其の溜り場へ行っていただいて、事件の円満解決に就いて、少しばかり話していただくと大変いいと考えますので…。どうせ何かきかれますから、一々応対しているのも面倒です。あそこなら一時に行渡ってしまいますから。」

 韮崎もそれはそうだと思った。で、無論それも了解した。

「それじゃ一つ何か草稿のようなものを作っておきましょう。」

「そうして頂ければ尚結構です。」

 それから暫く雑談に時を移してから、皆は帰って行った。
 韮崎はその晩、記者たちに示すために、この事件の解決についての一つの報告的説述を文章に綴った。
 明朝丸山氏と同行して、そう遠くもない小山弁護士の家を訪ねたのは、朝の七時頃であった。
小山弁護士の家は中古の和洋折衷の建物で、外神田の町中の、ちょっと閑静な場所にあった。大きな門をくぐって、右へ曲るとそこに大きな玄関があった。ちょっと上って待ってくれというので、応接室へあがって待っていると、直に小山氏が仕度を調えた。自動車がやがて遣って来た。

「どうでしょう。こんな風に新聞へ出して貰おうと思うんですが…。」韮崎は自動車の中で草稿を示した。

 小山弁護士は手に取って読んだが、ちょっと一箇所二三の文字を訂正することを注意した。韮崎も依存はなかった。
 法廷では、少壮弁護士によってその頃新たに造られた静かな室へ、皆で入って行った。そしてお茶を呑んでいると、杉山弁護士もどこからか、軽い洋装姿を現して来た。隆一氏も黒い洋装で来ていたが、事情の委曲と自分の心持の詳しいことが、こんな場合は左右(とかく)大難束に片付けられがちなのが、飽足りなく思えると云う風が、韮崎にも同感できるのであった。
 小山弁護士は向山の謝罪文を杉山弁護士に交付したりしたが、二人のあいだにちょっとした意見の相違か、感情の行違いがあったりして、杉山氏の青筋を立てているのが韮崎の目についた。


二十五


 向山はその日は倫敦仕立の紺地に派手な棒縞の背広を着て、髪なども綺麗に手入れをして来たので、風采が数段あがって見えた。顔もふっくらして愛嬌をもっていたから、誰が見ても華族の若様くらいには見えるのであった。隆一氏と偶然室を同じくしたときは、彼はいつもの傲然とした態度であったが、さすがに孰ちも――殊に隆一氏の方が心から向山を忌避していた。

「あれが向山君ですか。」

 後で隆一氏はいつもの吃るような口調で訊いたが、向山も陰で韮崎に同じような事を、わざとらしく訊いた。

「ありゃあ一体誰です。」

 そして秦野氏だときくと、紹介でもしてもらうか、直接口を利くかしたそうにも見えたが、韮崎は寧ろ隆一氏の迷惑を察して、わざと隔てるようにしていた。

「韮崎氏…。」向山は廊下の入口で、韮崎と二人で、或る社の写真班のカメラの前に立ったとき、そっと呼びかけた。彼はそろそろ先生の敬称を撤回しつつあった。

「おれは秦野の様な者なぞと顔を合わすのは絶対にお断りですぞ。」

「隆一氏の方々も同様だから安心したまえ。」

 韮崎たちが係の検事と面会したのは、大分時がたってからであった。室は狭かった。真ん中の卓子を囲んで、双方の弁護士と韮崎と隆一氏とが、三方に椅子を取った。そして弁護士同士で、今度は機嫌よくこの訊問室が、検事の一身に不安な機会のあったことなぞを話していると、そこへ大きな身体をした検事が、背広姿で入って来た。彼はふっくらした風貌と応膺で平易な態度の持ち主で、唆酷とか辛辣とかいうような気分は、どこにも見出せなかった。

「お待たせしまして。」彼はそう言って、にこやかに席に就いた。

 小山弁護士が韮崎と秦野氏とを紹介して、出頭の理由と和解の成立事情を述べると、検事は「ああ、そうですか。」と頷いていた。

 杉山弁護士が続いて告訴状を撤回する理由について、述べるところがあってから、韮崎が起こった。

「この事件につきましては、好奇(ものずき)な世間が大変騒いで居るようですが、私一個としましては、実は法廷を煩わさなければならぬほど重大な問題だとは思えませんので…。」彼はそう前置をして、妙に調子づいたような風で、口早に六七分ばかり喋ってしまった。

 それから小山弁護士が起立して、卓上に両手をつきながら、厳粛な態度で、和解について検事の了解を求めた。向山がどこまでも結婚の希望を棄てないことなどが、その中に格段目立たないように含まれていた。

「この結婚云々は、素より今直ちに実現することは、事情が許さないことかも知れませんが、少くとも遠い将来の希望として残されておりますので、どうかしてその希望に到達するよう努力したいと思うのでございます。その前提として私共はこの和解を意義あらしめたいので。」彼はそう言った風の態度で、慎ましげに述べるのであった。

 そこを出てから、一同は記者溜りへと導かれて行った。若い記者達が、多勢でわいわい騒いでいた。
 隆一氏と韮崎とが、中程の椅子にかけると、そこでも又カメラが向けられた。
 そこで小山弁護士が起こって多勢に話しかけると、杉山弁護士が向山の謝罪文を、写真に取らせるために壁に貼りつけたりした。
 韮崎がしゃべる代りに、草稿が記者の一人によって読みあげられた。それが記者達によって書取られた。

 裁判所を出ると、韮崎はやっと助かったという気がした。重苦しかった頭脳(あたま)へ、初夏の風が爽かに吹通るようであった。

 向山はそれからも時々韮崎を訪れた。そして何時までも結婚の希望を諦めなかった。終いに彼は韮崎と彼の妻に煩くそれを迫った。弁護士に取って、「結婚」は立派な言前となったが、韮崎自身に取っては疫病神であった。

(完)

                               
※臨川書店版『秋聲全集』第七巻(昭和十二年三月七日初版発行)平成二年復刻版本文を底本に現代的仮名遣いに改め適宜補訂※


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