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小説「ぼくはわるもの」01


世界がひっくりかえるのを待っている。
 五月、椅子の上で膝を抱えた弟はそう言ったのです。風船の空気が抜けてくような声が彼の顔を覆った前髪を微かに靡かせたのを覚えています。理解のできない言葉なのに怖がりな僕の体は鳥肌を立てていました。喉でつっかえた息を呑み込んで弟に目を凝らすと、頬まで髭を生やしているせいで表情はまったくもって分からなかったのですが、二つの黒く丸い瞳が潤んでいるようにみえました。
この日は珍しく晴れていて、閉めきったカーテンの隙間から射し込む黄色い光線が部屋に舞う埃を照らし、奥に座る弟を、のらくら国の王様のように神々しく演出していました。こんな風に弟の部屋をまじまじと眺めるのは初めてかもしれません。シューマンのトロイメライが聞こえるのは、少し前にリビングで父のレコードを流したからです。
床一面に平積みにされた本たちが城壁みたいに僕と弟を隔てています。棚に整列した歴代の仮面ライダーとあらゆる怪人たちが鎧兵のごとく僕を睨みつけていました。容易に踏み入ることのできない城だ、と怖気づきそうになるのを咳払いでごまかしました。
「あれだな、その、あのーあれだ、今日は、いい天気だな。窓開けて換気でもしたらどうだ」
王様は黙ってこっちをみつめたまま微塵も動くつもりがないらしいのです。
「外に出て一緒に散歩でもしないか?」
「散歩はこうやって座ったままでも出来る」
「……は?」
「悪者の王様だから」と言った弟は可動式の背もたれに首を預け、頭が逆さになるほど後ろへのけ反ります。弟はこの体勢が昔らか好きでした。大抵このポーズが出た時は「ほっといてよ」の合図なのです。放っておける人間だったら、最初からそうしています。
僕は次の言葉がみつけられず、なまけものの王様を外に連れ出す気力も失せてしまいそうでした。まあ、自らを王様と名乗って、偉くなってしまったのだから、平民の僕が意見しても聞き入れることはないでしょう。
悪者というのは、自分を卑下しているわけではないのです。俺が悪者を引き受けるよ、と弟がよく口にしていました。そういう変な奴なのです、こいつは。
僕たちを男手一つで育てた父はこの世にいないので、ここには弟だけが住んでいました。だけど弟はほとんどをあの椅子の上で過ごしています。このままそうしていれば体に苔でもむしてしまうのではないか、と心配しています。
僕がこうやって時々、食料を補充しにこなければコイツは餓死してしまうのです。苔を食べて飢えを凌ぐわけにはいかないでしょう。こっちが拒絶されている理不尽さに憤りを感じたものの、拳を握ってそれを静めました。
一歩引いた右足で踏んでしまった何かが、ぎぎ、と軋んで、ばり、と割れる音がしました。おもわず体が跳ねていました。プラスチックのトランプケースが床に落ちていました。上面に罅が入り、壊れてしまった透明のケースをみて、僕は完全に萎えました。
ゆっくり後退り、腐った蜜柑の臭いがするコイツの王国を脱出して扉で蓋をしました。すぐに聞こえた内鍵のカチッって音を僕は忘れないでしょう。
その夜、弟は死にました。


死んでいる弟を発見したのは数日後の夜だった。
父の遺品を整理しようと実家を訪ねた。この日は雨が降っていて、僕は玄関に入るなり、濡れて足にへばりつきペショペショと鳴る靴下と、だぶだぶに水をふくんだズボンを剥ぎ取るように脱いだ。着替えは弟のいる部屋にあるはずなのだが、あいつと顔を合わせるのを躊躇った。
いつからこんな関係になってしまったのだろうか。子供の頃は仲の良い兄弟だった。歳が一つしか変わらないのもあって話も合い、競うにも面白く、互いに恰好の遊び相手だった。
小学生に通い始めたくらいから弟は口を閉ざしていることが増え、会話も減っていったのだ。父と母の離婚が原因だろうか。辛うじて中学までは同じ部屋を共有していたこともあって弟との心の距離を感じることはなかったはずだ。
父と離婚した母が家を出て行ってから、どこか重たい空気が漂っていた。そんな淀んだ雰囲気を一掃しようと、新たな環境を求め、このマンションに引っ越してきた。四十を手前にして父がローンを組んで手に入れたのだ。しかし、父の願いも空しく、家族の間にある違和感は残り続けた。
そんな家を嫌い、実家から離れたところにある高校を選んだ僕はひとり尞暮らしを始めた。そして段々と弟は社会にも馴染まなくなっていったのだ。
弟の部屋はリビングに向かう廊下の途中にある右側の扉がそうだ。その少し後ろ左側の扉が父の寝室、奥にリビング、リビングには大きな窓があり十階から眺める街の景色は夜になるとそれなりに綺麗だった。都会で一般家庭が購入できるニ十階建て分譲マンションの中流所得者向けらしく、どの間取りも広くはない。だけど家族四人で暮らすには十分な家だ。
初めてこの家に来た時の、あの新築の香りを今でも思い出せる。結局、この上木家に男三人で暮らしたのは、ほんの数年だった。僕がここを離れ、父が抗がん剤の治療で入退院を繰り返すようになり、弟は引きこもりになった。おかげで、入居して十五年以上が経つというのに、壁やフローリングは綺麗さを保っていて、生活感を感じない。
物音も誰かの声もしない、聞こえるのは外のタトタトと鳴る雨音くらいだ。これじゃ一緒に外に出ようではないかとも誘えない。まずパンツ一丁で遺品整理なんて間抜け過ぎる。やはり弟の部屋から着替えを頂戴しよう。
リビングには古い型の蓄音機があり、そこにレコードをセットして針を落とす。これでクラシックを聴くのが父の趣味だった。弟の部屋に向かう時は、こうやって父の力を借りる。サティの中でも一番有名な曲が流れた。
僕は呼吸を整えた。行くか。
コンコン。コンコンコン。
「リク」
弟は何の反応もしない。
「あのさリク、ちょっと入ってもいいかな」
コンコン。
扉を叩く度に部屋の臭いが僅かに漏れてきて、それがいつものとはちがうことに違和感があった。返事が返ってこない。ぐるっ、ドアノブを回して手前に引くと扉は開いた。
中は薄暗かった。珍しくカーテンが端に寄せられていて隣にあるマンションの明かりの灯った窓々がみえる。弟の定位置である王様の椅子は無人。鼻を塞ぎたくなる腐敗臭が廊下に抜けていく。
床に目を移すと仮面ライダーと怪人の人形たちが散乱していて、本の城壁も崩れ落ちている。
僕が立っている足元から部屋の中央に向かって、トランプが道を作るように落ちていた。その道の先に目が止まる。瓦礫に埋もれ倒れている弟がみえた。とたんに僕は「リク!」と大きな声を上げていた。
近寄って仰向けになっているリクの肩を掴み揺すった。リクの体はマネキンのように同じ姿勢のまま硬直していた。
首には縄跳びの紐が巻かれていて、胸には包丁が刺さっていた。
リクを抱き起こして「おい、リク」と頬を手の平で叩いた。冷たい。五月の生ぬるい空気の中、陸の顔に添えた手だけがほんのり冷えた。リクは死んでいた。僕は体中の血液が沈んでいくのを感じた。暫くの間、弟の顔を呆然と眺めることしかできなかった。
「なんで死んでんだよ」
 その言葉は独り言になった。ちっとも腑に落ちないので直ぐに悲しさはやってこなかったが、眉間の深部に鈍い痛みを感じた後、あー、とか、わー、とか僕は叫んでいた。
 刺さっている包丁は僕の力では引っこ抜けなかった。弟は左手で一枚のトランプを握っていた。絵柄はジョーカー。弟は何故かジョーカーがたいへん好きで、子供の頃、トランプで遊ぶ時は決まってこのジョーカーに執着していた。トランプゲームの一種である「大富豪」では、ジョーカーを利用して「革命」という技を多用した。革命、は一番弱いカードが一番強くなることで、優劣が引っ繰り返り予想外の番狂わせを起こす。だけど、弟が大富豪で勝つことは少なかった。
弟は「ババ抜き」でもジョーカーを手札に持ちたがった。ジョーカーを持ったものが負けるのに、だ。なので、弟はババ抜きでもいつも負けていた。
 ゲームに勝たないと気が済まない僕にとって、弟は都合の良い相手だった。いや、たぶん、リクはわざと負けていた。負け役を買って出ていた。負けると機嫌を悪くしていた僕のせいだろうか。弟がいつも勝ちを譲ってくれているということに僕は気付いていた。それなのに僕は、変な戦い方をする弟に嫌悪感を抱いていた。わざと負けられるのも勘に障るのだ。
 弟が死んでいるのは間違いない。救急車を呼ぼうと立ち上がった時、デスクの上にあるメモ紙に気付いた。遺書かもしれない。何かが書かれているメモ紙を手に取った。そこにははっきりとした文字で、こう書かれていた。
「僕がお父さんを殺した」
僕の心臓がバクンとおっきな音を立てた。
とっさに僕はそのメモ紙をクシャクシャに握り潰し、部屋を飛び出してトイレに駆け込み便器に放り込んだ。弟は罪を償ったんだ。執行猶予期間も満了して、弟がしたことは帳消しになったのに、こんなことを書き残して、何になるというのだ。
水を流すと勢いよくトイレの底に沈んでいった。それと同時に、悪いことをしてしまったという僕の後ろめたさも吸い取ってくれた気がした。あれは、よかった、よかったんだ、リクがしたことは悪いことじゃない。リクは悪者じゃない。


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