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[gururi note] わがまま、そのまま

「お店を始める」ということは「わがままになる」ということだ。

そう、ここ数年で感じている。

わがまま、と言ってしまったら語弊があるだろうか。

でも、たくさんの事柄や物が溢れている世の中で「これは好き。これは嫌」と、ひとつひとつ選んでいく作業を怒涛に繰り返して、日々お店を作っているわけなのだから、語弊も何も、まさにそうだ、と思うのだ。

もちろん、普段の日常生活の中でも多かれ少なかれ自分の意思で何かしらの選択はしているわけだけれども、そんなの比べ物にならないくらい、正直、gururiを始めてから、今まで以上に自分の気持ちにわがままになった。

何をするにも、嫌なことは嫌だ、好きなことは好きだ、ということを軸にして進んでいる。

それは、わたしだけでなく、夫婦共々。

何でもない普段の会話の中で、「昔はこんなにわがままになれなかったよね」と、お互い口にすることが多い。ふたりとも些細なことを気にする性格だし、慎重なタイプだから、勝手に"制約"を感じて、これまでの人生わがままになりきれなかった。

そんな二人が、二人でgururiを始めたことで、過去に感じていたそのなんというか”制約”のようなものが取っ払われて、何かに縛られることなく、自分たちの意のままに選ぶことができている感覚がある。

わがままになって「やりたい」と思ったことはやろう、という向き合い方で、日々を過ごすことができているのだろうなぁ、と思う。

そんな自分たちが「やりたいです、やりましょう」とふたつ返事でお誘いに乗ったイベント。

昨年の秋にも開催した、リスノ雑貨店・OGU Donuts・gururiのコラボイベント「リスノ喫茶店」。

2回目が開催されたのは、2024年4月22日。新緑が色づき始める、春のいい季節。

少し前の天気予報は雨と曇りだったのに、日が高くなるにつれ雲がだんだん晴れて、大きな窓の向こうに広がったのは琵琶湖まで見通せる綺麗な空。

もうこの景色だけでも幸せな気持ちになれるのに、美味しいパンケーキとドーナツと珈琲が楽しめて、さらに雑貨のお買い物まで出来るんだから、こんな最高な1日はない。(主催側が言う台詞じゃないかもしれないけれど、こんなふうに言えてしまうくらい本気で思っているのだ)

前回のイベントが終わった後にも、思いの丈を徒然と、でもたぷたぷと余韻に浸りながら書いたのだけれど(前回のnote:[gururi note] したためる)、それと同様、今回もひたひたと余韻に浸りながら、これを書いている。

今回も今回で、参加してくださった方も主催者側も、それぞれがそれぞれに楽しそうで、もちろん自分もとても楽しくて、カメラを片手に思うままに写真を撮ったり、来ていただいた方とお話ししたり、雑貨を見て回ったり、それはそれはもう十二分に堪能した。

参加してくださった方の嬉しそうな顔を眺められたのはもちろんのこと、あくせくせず気持ちをゆったりと持って自分たちも楽しめたことに、なんとも言えない幸福感を感じたし、あの時ふたつ返事をして良かったなぁとしみじみ思う。

わがままの話で言えば、人との関係も随分と“わがまま”になった。

生きていると色々な人に遭遇するもので、自分が削られていくような言葉を投げてくる人もいるし、同じものを見ているはずなのにお互いの焦点が合わずに時間と共にただただ自分が疲弊してしまうような相手もいる。

そういう相手が良いとか悪いとか、そういうことではなく、ただ単純に自分と“違う”、“合わない”だけなのだけれど、そんなことも言ってられず対峙していかなければいけない状況も環境も、過去に沢山あった。苦しいなぁ、と思っていた。

だから尚更のこと、お店を始めて“わがまま”になれたことで、自分たちが心地良いと思う人たちと時間を過ごしていきたい、と今まで以上に強く思うようになった。小さなことを気にしてしまう性格だからこそ、齟齬のない関係性がとても大切になった。

そんな中、「“違う”から“合わない”わけじゃないのだなぁ」と改めて思えたのが、この「リスノ喫茶店」だった。

それもそのはず、この「リスノ喫茶店」を主催する3組(夫婦)は、面白いくらいに全く違うタイプなのだ。

イベントという大きなものに一緒に進んでいくことでその違いは見えてきたのだけれども、不思議なことに全く嫌な気持ちにならず、むしろどんどん興味が湧いて、イベント後の打ち上げではそれぞれの夫婦の“違い”の話で、わははわははと大いに盛り上がった。

そんなに違うそれぞれなのに、どうして、齟齬ない関係でいられるのだろうか。

きっとそれは、お互いがお互いの見えてくる違いを楽しんだり尊敬したりしているからで、誰かを削ってしまうような言葉が行き交うことなく、違っていても同じものを焦点を合わせて見ることが出来ているからで、それぞれが「好きなものは好き、嫌なものは嫌」を軸に生きていて、そのままの自分の気持ちを伝え合えているからなのだろう、と思う。

そういう意味では、3組とも、とても素直に”わがまま“なのだ。

わがまま、って、決して駄目なことではない。

わがままになる、ということは、自分のそのままの気持ちを大切にする、ということなのだと、今は思う。わがままになれないのは、そのままの自分を蔑ろにしてしまっている、ということなのかもしれない。

昔は全然そんなふうに思えなかったけれど、事柄にも物にも、そして人にも“わがまま”になれたことで、ちょっとずつ変わってきた。人間って成長するものだ。

だから、わがままになれるなら、わがままになった方がいい。(もちろん時と場合は考えなければいけないけれど)

わがままなんて言わないで毎日頑張っているんだから、ちょっとくらいわがままになったって、全然いい。

どんな場所にいたいか。どんな人と付き合いたいか。どんな生活を人生を送りたいか。

そのままの気持ちを大切にして、“わがまま”に生きていきたいものです。

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