『万引き家族』

ぼくにとって安藤サクラは「怪演」の女優でした。『万引き家族』以前の安藤サクラは園子温監督作品の安藤サクラでしたから、怪演が彼女のイメージになっていたのは順当だろうと思います。そのイメージが『万引き家族』で変化した。

今は安藤サクラは「好演」の女優。「好きな演技」をするという意味で。母になれなかった女の演技が「怪」を「好」へと変化せしめました。


母とは何か。あるいは父とは何か。
辞書でみると、「親である女(男)」「子を産んだ女」と出てきます。いかにも辞書的な記述。

問い方を変えてみましょう。
子にとって母とは何か。あるいは父とは何か。

それらは、自分が自分になる前、すなわち自意識が確立する以前から、母としてあるいは父として、自分の傍らにいる存在。自分と自身の関係以前に成立している自身との関係


安藤サクラ演じる柴田信代は、池脇千鶴演じる警察官に「子どもに何と呼ばれていたのか」と尋問されて涙を流す。

祥太(城桧吏)は、信代を母とは呼べませんでした。家族のなかで母の機能を果たしていたのは信代であり、祥太も家族の一員としてそのことは理解していた。この理解があるがゆえに齟齬もあった。


祥太を自白へと導こうとうするシーンに「もし本当の家族だったら子どもを棄てたりしない」というのもありました。妹のりん(佐々木みゆ)をかばって万引きに失敗し、警察に補導された祥太を家族は棄てて逃亡しようとする。

祥太にとっては非情の決断だけれど、そうしないと家族が家族でいられない。祖母の初枝(樹木希林)が死んだ際に届けを出さず、埋めたのと同様に。死が公になると、法的には成立していない家族が公になってしまう。

公になると、家族は家族でいられない。


共同体が共同体を維持するために成員を切り棄てるのはある意味当然の行為、歴史的にはどこの地域でもみらる行為。日本では、特に貧しかった東北地方においてよく見られて、映画やドラマの題材にも頻繁に取り上げられる。すぐに思い浮かぶのは『おしん』でしょうか。

『おしん』が日本のみならず世界中で好評を博すのは、家族は家族を切り棄てるということが事実としてありえるという共通認識をふまえているからでしょう。この認識こそ『おしん』というドラマを楽しむことができる前提。

ですから、「もし本当の家族だったら子どもを棄てたりしない」というのは、端的にウソです。ところがこれがウソに響かない。この言は道徳規定だから。ウソだと認めづらい。

家族はときに家族を切り棄てる。けれど、自身が自分である以前に成立していた関係は、変形はするだろうけれど消滅はしません。逆に言えば、母や父は、自我の確立以降はなり得ない存在だということになる。


信代がこのことを弁えていたならあの涙はなかったでしょう。また弁えていたのが警察官だったとしたらあの尋問もなかったでしょう。つまり弁えていないのは視聴者、世間一般です。

信代と治(リリー・フランキー)が「自分たちは選ばれたのだ」と喜び合うシーンがあります。曲がりなりにも家族が成り立って、ふたりが祥太とりんに対して「母」や「父」としての機能を果たすことができているという自認からでてくるセリフ。

確かにふたりは祥太とりんの「安全基地」として機能している。ここでいう「安全基地」とは、愛着理論の用語です。

安全基地(あんぜんきち、英: Secure Base)とは、アメリカ合衆国の心理学者であるメアリー・エインスワースが1982年に提唱した人間の愛着行動に関する概念である。子供は親との信頼関係によって育まれる『心の安全基地』の存在によって外の世界を探索でき、戻ってきたときには喜んで迎えられると確信することで帰還することができる。(Wikipedia)

夏の昼下がり。信代と治は家で冷やしソーメンを食べている。と、信代は「女」になる。情事が取り交わされ、延長戦だのなんだのと戯れているところに、夕立に降られてびしょ濡れになった祥太とりんが飛びこんできます。信代と治はただちにモードを切り替えて、「女と男」から「母と父」に変身する。まぎれもなく子どもがいる「家族」です。

りんをネグレクトしてた本当の父と母ならどうか。映画には出てこないから想像ですが、「本当の父と母」はきっと「女と男」と「母と父」のモード切替は子どもの存在によっては行われないでしょう。というより、そもそも「母と父」というモードがない。


家族はときに家族を切り棄てる。ということは逆に言えば、家族は事後に成立するものだということです。母や父は選べない。けれど、家族は選ぶことができる。子どもが家族を選べないのは、母と父を選べず、かつ、まだ家族を営むだけの能力が不足しているから。

『万引き家族』が描きだしているのは、実は家族に「母」や「父」は必須ではないという推測――おそらくは事実――です。ここでいう「母」「父」は、事前に成立している関係という意味です。大人に家族を維持するだけの能力があり、子どもを家族として受け入れる能力があれば、自ずと機能としての父母――子どもにとっての安全基地――はできあがっていく。

子どもが、子どもを受け入れる能力を備えて大人になっていく学習の場を提供することが家族というもの役割です。この学習のバックグランドになるのが「愛着」でしょう。学習教材は使えるものならなんでもいい。万引きですらOK。そこが安全基地でありさえすれば。

家族を維持する能力とは、現代社会の常識では通貨を獲得する能力、稼ぐ能力が必須だとされています。つまり商品を獲得する能力です。ところが『万引き家族』はこの常識を覆している。家族が家族として機能するの必要なのは子どもを受け入れる能力であって、家族の維持の仕方はさして問題ではない。まっとうに社会に適応して稼ぐのが(社会的には)好ましいけれど、反社会的であってもかまわない。むしろ反社会的であるほうが「安全基地」としての機能は際立つ

ここのところの際立ちが、『万引き家族』の吸引力になっている。と同時に、反社会的でありながら実は反社会的になりきれない人間を際立たせてもいます。

信代は、なぜ警察官の尋問に涙したのか。
社会常識としての「母」の観念を受け入れていたからです。祥太も受けいていた。だから信代は母とは呼ばれなかった。母としての機能は果たしていたのに。祥太もそのことを理解し、視聴者も理解している。

警察官の尋問が常識的であるがゆえに陰湿に暴力的に響くのは、ぼくたちに共通の理解――母としての機能――があるからです。でも、それは「母」ではない。「母」と「母としての機能」は分離している。にもかかわらず、その事実は一般常識になっていない。このギャップを『万引き家族』は描いています。



フェルディナン・ド・ソシュールという人がいました。人文科学の分野ではビッグネームです。人文学を人文科学に転回するのに大きな功績がある人。

ソシュールの業績で重要なのが、言葉の機能についてです。言葉の機能はモノや行為、現象を名指しするだけにとどまらない。言語が社会を規定しているのだということを指摘した。ここから二十世紀の構造主義と呼ばれる哲学が派生していきます。

安藤サクラの涙が指し示した「母」は、社会が言語によって規定されているということを示す端的な例だと思います。

母でない母の機能を果たしても「母」ではない。少なくとも社会はそのように認知しませんし、その社会的な認知を信代も祥太も警察官も、ぼくたちも受け入れている。

でも、ちょっと考えてみましょう。祥太には信代を母と呼ぶことはできたはずです。どのタイミングでもいい。惣菜屋の店員に声を掛けられたときでもいいし、非公式家族が発覚して御用になった後でもいい。祥太が(母としての機能を果たした)信代を母だと認定することができれば、信代と、そして治は「救済」されることになったでしょう。

社会の言語規定から脱した、自分だけの〈母〉という言葉。社会が何と言おうが、信代を母と、治を父と呼ぶことができるのは祥太とりんだけです。母や父という言葉は、普遍的な出で立ちをしているけれど、実のところは極めて個別的な言葉です。この個別性の〈扉〉を開けることができれば、祥太とりんは、信代と治の「救世主」になることができたはず。けれど、映画はそうはなりませんでした。祥太は社会の言葉を受け入れ、祥太にしたがって信代と治も社会の言葉を受け入れることになります。

そうして「家族」は溶解してしまいます。映画の終盤、「万引き家族」は社会からよってたかって壊されるように見えます。社会が壊そうとしているのはそうだけど、でも、最後の最後に溶かしたのは、家族自身。そこにはすでに〈Wonder〉が失われている。祥太はヘレン・ケラーのようにはいきませんでした。〈ことばの神秘の扉〉を開けることができなかった。

すでに言葉を習得している人間にとって、〈ことばの神秘の扉〉を開けることとは、すでに知っているはずの言葉を、自身で新たに再定義するという形式になります。社会の言語規定から逸脱する個別的な言葉の再創造です。こときに伴う〈Wonder〉が「救済」の手掛かりになる。

ヘレンが生涯にわたって創造的でいられたのは、Memory of Wonder があったから。6歳まで言葉の発見を引き延ばされたということは、一見、不幸のようだけれど、実はとんでもなく幸運だったのでしょう。

Memory of Wonder を獲得するチャンスは、ぼくたちにも開かれています。開けれているけれど、隠されている。社会が隠しているからです。『万引き家族』をぼくはもどかしい思いをしながら鑑賞することになりましたが、それは普段は隠れされているものが、この映画の中にチラチラと覗き見えているように思ったから。なのに見逃してしまった。



社会が隠蔽しているところを透かして見ることは、実は自分を観ることに他なりません。なぜなら、ぼくたちは社会が規定する言葉によって縛られているからです。

座禅を組むなどして「言葉の向こう」に行くことはできるでしょう。そこに辿りつきさえすれば、自分はよく見えるだろうと思います。「言葉の向こう」の自分。「言葉の向こう」は「社会の向こう」と同義です。

社会の中に留まっていながら自分をよく識ろうとするならば、自分を知るだけでは片手落ちというもの。「自分を知る」ことによって識ることができるのは「社会が規定した言葉で規定されている自分」でしかありえない。信代や祥太のように、どこかもどかしいものを抱えることになる。

ヒトという生き物は、いやになるくらいに社会的な生き物です。

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愚慫

コメント7件

そうですね、傾聴時、最初のころは、同調し動揺し、心乱されていました。
それが、相手の気持ちを受け入れる事だと、勘違いもしていました。
ですが、そうではなかったです。話し手の気持ちの有り様、それ自体は、心から同調しますが同感動揺はしません。不思議なんですが、こちらが同調すればするほど、話し手は、このままじゃ良くないって自ら考え出すところです。
最近はそこに、人の力みたいなものを感じて、信じてみたくなります。

>危うさを何か別のモノに置き換えてしまうことが、傾聴という行為の延長線上に起きうる...。

なんでしょう、今はまだよく分かりません。心に留めておきたいですし、気づきたいところでもあります。
>けれど、そう、もう掻き乱されはしないです。むしろもどかしいと感じます。そこはどうやら「経過」したようです。

私にもそういう時が来るのでしょうね。そして息子にも、いつか…。
何が何にどう置き換わるのかは難しいところですが、、、たとえば、キューブラー=ロスの『最後のレッスン』などはその当たりのところを示しているでしょう。キューブラー=ロスは終末医療を、傾聴の系統に似たような方法で切り拓いた人ですね。

キューブラー=ロスが言っているのは、相手に同調することを懸命にやってきたけれど、それがために自分に同調することが最後のレッスンの課題とした残った、ということ。「不思議」を作動させたのに、みずからを「不思議」の埒外においてしまっていた、ということでしょうね。

身体は同調します。けれど、それは自分の手柄ではないのですね。自分の手柄だと思うから、自分と身体との同調が蔑ろになる。その同調は被傾聴者が訴えるように辛く苦しいもののはずなんですが。
>それがために自分に同調することが最後のレッスンの課題とした残った

まだよく分からなくって、ピンとこないのですが、胸がざわつきます。このざわつきが何なのか分かればきっと、見えて来そうな気がしてます。
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