行く河の流れは絶えずして
MMTというのをご存知でしょうか。
Modern Monetary Theory 現代貨幣理論。
ぼくとても、他人様にご存知ですかと言えるほどには中身はよくわかりません。雑な理解で言ってしまえば、「国家はいくらでも借金してOK!」という理屈らしい。とある条件が整えば、だけれど。
MMTというのは、「とある条件」についての理論であるらしい。
そのMMTについて、林業ジャーナリストの田中淳夫さんという方が、こんな文章を書いているのを目にしました。
畑違いの人間の感想といった類いの文章です。そのぶん、一般人の感想に近く、ツッコミのハードルが低いと見えて、BLOGOSにはコメントがいっぱいついていたりします。
理論の正誤はよくわかりませんが、ぼくたちには記憶があります。リーマン・ショックという金融事件の。あれだって、確かとされる理論、ノーベル経済学賞(正しくはスウェーデン銀行賞)まで受賞した経済学者の理論に基づいて金融ファイナンスを構築したのに、蓋を開けてみたまったくもって確かではなかった。
後追いで、なぜ確かではなかったのかという理論書が出て、いっとき話題になりました。「ブラック・スワン」というやつです。
こっち方面の話もいずれはしてみたいと思っていますが、今はまだ準備ができていないというか、力不足というか。自分の言葉で語れるようになるには、まだまだ時間がかかりそう。
なので、別の語り口から。
MMTについて。
資本主義について。
貨幣について。
秩序について。
人間破壊と環境破壊について。
サクッと語ってみたいと思います。
行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。
誰もがご存知、鴨長明の『方丈記』です。
この有名な文章を現代科学の用語で言い換えるなら「動的平衡」がふさわしいでしょう。
動的平衡とは、
1.外形的には同じであるように見えるが、
2.実は中身は次々に入れ替わっている
という特徴を持つ。生命現象のそうした特徴を捉えて福岡伸一さんが“動的平衡”と表現したわけだけれど、そうした特徴を持つのは生命だけではなくて、川もそうだし、雲もそうだし、地球上で起きている現象の多くが同様の特徴を持つとして、そこからガイア理論みたいなものも唱えられたりします。
出てきた順序はガイア理論の方が先ですけど。
地球交響曲とか、いっとき流行しましたよね。
動的平衡という言葉は「○○が動的に平衡していること」という意味ですから、この「○○」について考えなければ動的平衡について考えることにはなりません。では、「○○」にはどういった言葉を入れると包括的に考えることができるのか。
「関係性」という言葉がふさわしい。
川の形は、水と地形と重力の関係性の動的平衡。
雲は、水蒸気と気温と気流の動的平衡。
動的平衡が出現するのは非平衡開放系で、非平衡開放系ではイリヤ・プリゴジンが発見したように、エネルギーの流れがもっとも効率よくなるように構造が自己生成していく。自己生成した構造は、人間の目では「形」があるように認識されるので、外形は一定に保っているように見えながら、実は中身が入れ替わる(エネルギーが流動している)ということになる。
こういった現象をオートポイエーシスと言います。
生命現象も、もちろんオートポイエーシス。
自然現象はふたつの例外を除いて、すべてオートポイエーシスが作用すると言っていい。
1.偶発的な現象。木が倒れて水の流れを遮る、など。
2.人間の所業。
のような。
いずれの例外も、自然はオートポイエーシスの中に呑み込んでいこうとします。
ところが、現代。人間の力が大きくなって、オートポイエーシスに対抗できるようになってしまった。自然の巨大なオートポイエーシスを歪めることができるくらいに人間の力が大きくなってしまいました。
人間はどのような方法で自然をオートポイエーシスを歪めていくのか。
ダムを見てみればわかります。
ダムの「形」は動的平衡で出現している〈形〉ではありません。静的な平衡によって成り立っている【形】。
1.外形的に同じであるように見え、
2.かつ、中身は入れ替わらない
ダムでは水の大きな流れは殺されてしまいます。川を〈形作る〉流れは殺されて、位置エネルギーになります。そして、人間が必要とするときにエネルギーは放出される。たとえば、発電機を回すタービンにエネルギーが必要な時に。
ダムは自然のオートポイエーシスを遮って作られた、人間にとって都合のいい【形】です。
動的平衡を為す「○○」を「関係性」だと考えると、同じでかつ入れ替わらない【形】は、目に見える世界に留まらないことがわかります。
人間同士の関係性は目に見えませんが、この領域にも【静的な平衡】が侵入してきています。
人間の内面に侵入する【静的平衡】には、よく知られた一般的な言葉があります。
「秩序」と言います。
外形的に同じであるように見え、中身は入れ替わらない。
いえ。
秩序を形作るのは、命に限りのあるヒトですから中身は入れ替わらざるをえません。だったらどうするか。「儀式」をする。身体は入れ替わったけれど、身体の中身は継承されるのだといったようなことを示す。
日本の天皇家の場合だと、三種の神器を継承する、とか。ちょっと考えてみれば、なぜ3つの品物を譲り受けただけで天皇家が維持されることになるのかよくわかりませんが、これは一種の入れ替わりの【形】なんですね。
とはいえ、秩序を保つには、外形的に同じであるように見え、かつ中身も入れ替わらない方が望ましい。儀式などなければないほうがいい。
そういった条件に適うのは、身体よりモノ。
とはいえ、モノは占有者にしか確認できません。秩序が成立するには、人間社会の中で広く共有されなければならない。そうすると情報にならざるをえない。
入れ替わらない情報とは?
音声はすぐに消えてしまいます。
テキストつまり書字。そして貨幣です。
ぼくたちはお金に価値があると信じています。
貨幣は不思議なもので、未だにその正体が詳らかになったとは言えない。これだけ身近にあって、毎日毎日日常の中で接し、社会システムの根幹になっているのに、正体は謎。これまた奇妙な話です。
貨幣がどのように生成したのかは謎です。ただ、一旦成立すると、不思議な機能を発揮するようになる。価値があると多くの人間によって信じられることで価値を維持するという〈形〉を形成する。
貨幣の〈形〉は、「信じる」ことをエネルギーだと解釈すると、ある種の動的平衡だと言うことができます。
フリードリヒ・ハイエクが言ったように、自生的秩序です。
ただし、その〈形〉は人間にしか理解ができない。つまり人間にとっては〈形〉だけれど、人間以外の存在にとってはオートポイエーシスを阻害する【形】であると言わざるをえない。
そして、です。
人間には、「信じる」といった人間的な挙動をする“人間”の部分と、感覚的動物的に行動する“ヒト”の部分とがある。身体の作用はヒト的なのに、文明化した頭脳の作用は人間的になる。
【人間の自生的秩序】と〈ヒト的オートポイエーシス〉とが、同じヒトの身体の中で併存し、対立し、葛藤します。この対立を人間の都合のみによって【形】になった社会構造が増幅するという構図になっている。
人間は、ヒトとヒトの存在を許容している自然環境とを、〈オートポイエーシス〉を【人間の自生的秩序】へと置き換えることによって、破壊しつつあるということ。
ヒトと自然にとっては破壊であることが、人間にとっては都合がよく暮らしやすい居住環境の構築になっている。
地球環境は確かに、人間にとって都合のよい暮らしやすい環境に改変されている。そうした能力を人類は持っていて、その能力を行使してきたのだから、当然の「成果」でしょう。
けれど、「成果」は反面で「侵犯」でもある。
オートポイエーシスを人間だけの秩序の置き換えるという侵犯。
1960年代の終わりにローマ・クラブが設立されて以来、人類の「成長」には限界があるのだということが世界の認識として広がりました。もっとも、まだ成長限界論は共通認識になっているとは言えない。人類はまだまだ成長できると意見も、未だ根強いものがあります。
なぜ成長限界論は未だに強固な支持を得るのか。
現実を見ない愚か者がそれだけ多いということか。
そうではないとぼくは考えています。
「無知の発見(by ユヴァル・ノア・ハラリ)」があったから。
無知とはその構造上、限界を知ることができない性質のものです。限界が把握できればその時点で、無知ではなりますからね。
けれど、人間の認識が有限であるということと、世界が無限であるということとは一致しません。むしろ、するはずがない。
動的平衡は、膨大ではあるが有限の「関係性」の自然な在り方です。動的平衡にはオートポイエーシスという生成原理が内蔵されていて、自生的に〈形〉を生成していく。その性質は、
「行く川の流れは絶えずして...」
という文学的な言によって象徴される性質を持っています。
ところが今や、絶えず流れるはずの〈動的平衡〉は、ダムに象徴されるような人間が作る物質的・精神的構築物による【静的平衡】に【置き換え】られてしまい、巨大なはずのオートポイエーシスが歪められるところまで来ていると認識せざるをえません。
話を冒頭のMMTに戻しましょう。
MMTの本質は【置き換え】です。
ぼくの私見ですけれど、ね。
不確定な未来、可能性に満ちた未来、つまりは〈動的平衡〉の流れを、貨幣という【静的平衡】へと【置き換え】るもの。そしてそれは、資本主義が駆動している原理でもあります。
林業は自然の流れの〈動的平衡〉と人間の都合の【静的平衡】とがせめぎ合う最前線のひとつです。かつてはそこここにあった最前線の、数少ない生き残り。
そんな場所を生業にしている文筆家が、条件付きとはいえ果てしなく【静的平衡】へと置き換えていこうする理屈に違和感を表出するのは、ぼくには当然のことに感じます。
ぼく自身も、幾度も書いているように、かつては樵でしたから。
けれど残念なことに、違和感の表出を、ただ違和感としてしか言明することができない。せいぜい自身が知っているそれらしい理論のアナロジーとしてしか語るくらいのことしかできません。
【置き換え】の言語は発達している一方で、〈指し示し〉の言語は衰弱の憂き目にあります。弱り目の〈指し示し〉は、娯楽の対象として【置き換え】られ消費されていく構造ができあがってしまっています。
言葉が奪われてしまっていると感じます。
大切なことを伝えるはずの言葉。
こんなような風貌の言葉です。
播磨国高砂の浦につき給うに、人多く結縁しける中に、七旬あまりの老翁、六十あまりの老女、夫婦なりけるが申しけるは、わが身はこの浦のあま人なり。おさなくよりすなどりを業(わざ)とし、あしたゆうべに、いろくずの命をたちて世をわたるはかりごととなす。ものの命をころすものは、地獄におちてくるしみたえがたくはべるなるに、いかがしてこれをまぬかれはべるべき。たすけさせ給えと手をあわせて泣きにけり。上人あわれみて、汝がごとくなるものも、南無阿弥陀仏ととなうれば、仏の悲願に乗じて浄土に往生すべきむね、ねんごろにおしえ給いければ、二人とも涙にむせびつつよろこびけり。
感じるままに。