『仏教思想のゼロポイント』

いや~、とっても面白かったです。こんなに刺激的な読書は久しぶりって感じです。
著者は魚川祐司さんという方。しりんさんの大学時代の同期という情報も流れてきましたけど、とても真摯な人のようです。資料への読み込みの姿勢もそうですが、仏教徒ではないと断りながら仏教の教えを自ら実践して、その身体感覚で物事を捉えているという姿勢は、とても共感を覚えます。

思索への向き合い方が真摯だからでしょう、提示される思索も結果としてはとてもシンプル。シンプルだからこそ響いてくるし、響いてくるものがあると、響いてくると受け手としてはいろいろと思うところも出てきます。

以下、『仏教思想のゼロポイント』に触れて、僕が思ったところを。

『仏教思想のゼロポイント』では、ゴーダマ・ブッダの思想を「非人間的」だと評します。「非人間的」であることは、一般に“悪いこと”だという予断を持って判断されますが、本書の“ゼロポイント”は、非人間的であることの価値判断を退けて「非人間的であることを突き詰めると到達するところがある」ということを示すところです。その“場所”を「仏教思想のゼロポイント」として提示しています。実践に裏打ちされた資料の読み込みでもって、「ゼロポイント」へと至る道筋を示そうとするのが本書の狙いだと思います。

本書が示した「ゼロポイント」へ至る道筋は、とても明晰です。

明晰なものは改めて説明する必要はありません。その道筋を辿りたいと思うなら、本書を手にとってもらえば済む話です。そしてそれだけならば、特に「思うところ」もありません。本書は良い本です。是非、読んで下さい――以上、終了。

だけど、そうではない。終了ではないんです。「思うところ」がある。それは本書が示した「ゼロポイント」の先、具体的には大乗仏教の捉え方。魚川さんの捉え方に僕は納得がいかないんです。

魚川さんの大乗仏教認識のキモは、個人の「選択の自由」です。

仏教の本質は「世界」を超越した無為の常楽境を知った上で、そこから敢えて、物語の多様に再び関与しようとすることにある。

再び関与しようとするのは「個人」です。簡単に言えば、仏教の多様性は個人の選択の多様性に依っている。だけど、それは「無為の常楽境」すなわち「ゼロポイント」に到達しての話であって、「ゼロポイント」へ至る道は一本道。一本道の先に「選択の自由」がある――。

なお、「選択の自由」に関しては「無我」の考察で取り上げられています。ゴーダマ・ブッダは、「自由」の基盤になる「我」の存在については「無記」、すなわち「ある」とも「ない」とも言わない、という態度を貫いたそうです。

ゴーダマ・ブッダが、「ある」とも「ない」とも言わなかったものを、大乗仏教認識に際しては持ち出してきたという仮説です。大乗仏教の誕生は釈迦入滅後のことですから、話のスジは通るとは思います。

けど、僕はそうは思わないんです。


筆者の仮説に接して思い出したのは、とある物理学者の逸話です。その学者は不確定性原理の理論を構築した学者たちのひとり、僕の記憶だとハイゼンベルグだったんですが、記憶が曖昧だったので確認しようと思って検索してみたら、どうもデュラックの話のようですが、、、誰の逸話かというのは、重要なことではありません。

デュラックかハイゼンベルクか、その学者はあるとき、奥さんが編み物をする様子をじっと眺めていたそうです。そしておもむろに、「おなじ物を編むのに、あなたの編み方とは別の編み方がある」と言って、別の編み方を実践して見せた。学者がして見せた編み方は“裏編み”といって、手芸をする人たちの間では広く知られていた編み方だったんだそうです。

学者のその観察は“止観”だと思います。

「止観」というと仏教用語で瞑想の方法、禅において座禅を組んで心の動揺を鎮めて真理へと至ろうとする姿勢を指します。が、ここでいうのは文字通りの意味。「止めて観る」です。

編み物をするというのは一連の規則的な「動作」、時間に沿って変化していく身体の動きです。私たちの知覚というものは、一般に思われているのと違って、時間軸に沿って動く変化も込みで現象を捉えます。変化がないと、逆に動かないものを捉えることができない。これは心理学の領域である認知科学が明らかにしていることです。

動かないと把握できないというのは、言葉の領域においても同様の現象が見られます。ゲシュタルトというやつです。文章を読むという行為は、読者がそれぞれの時間系列に沿ってひとつひとつの言葉を読み込んでいくという「動作」です。その「動作」によって、単独の言葉の集合以上の意味が文章のなかから立ち上がってくる。この動きを断ち切ってしまうと「ゲシュタルト崩壊」と言われる現象が起こって、意味の把握ができなくなってしまいます。

止観というのは、僕の考えですけれど、意識的にゲシュタルトを崩壊させて再構築する、という行為です。学者が奥さんの編み物の様子を観察して裏編みを発見したという行為は、まさにそれ。人間(動物)の知覚は動きも込みのゲシュタルトの形で把握されますから、別の編み方を想起するなどということは普通はしませんし、やろうと思ってもできません。それをするには通常でない高度な知覚の仕方をする必要があります。

ハイゼンベルクだかデュラックだかは、その高度な知覚をすることができた。そうした知覚があったからこそ不確定性原理などというものを発見できたのでしょう。

また禅は「言葉の意味」を退けて何ごとかの意味を把握しようとしたりしますが、目指すところは、世俗に塗れた「言葉の意味」からフリーになって、別の意味世界へ到達することなのだろうと思います。その方法論が止観。(そんな単純なものではないと思いつつ)


ゲシュタルト理論の発展型にアフォーダンス理論というものがあります。ゴーダマ・ブッダの知覚論は、アフォーダンス理論によく似ていると思います。

アフォーダンス(affordance)とは、環境が動物に対して与える「意味」のことである。アメリカの知覚心理学者ジェームズ・J・ギブソンによる造語であり、生態光学、生態心理学の基底的概念である。「与える、提供する」という意味の英語 afford から造られた。

wikiさんからの拝借です。ゴーダマ・ブッダもどうやら、環境から知覚される情報は、現代の私たちの常識とは違って、予め「意味」があると捉えていたようです。本書の5章の記述によるならば、そのように捉えることができそうです。

ただゴーダマ・ブッダは、そうした「意味」を「苦」だとした。アフォーダンス理論では「意味」は中立なものだと考えますが、そこがゴーダマ・ブッダとは異なる点です。科学と宗教の違いと言っていいのかもしれません。

仏教が唱える縁起説は、価値中立でいわば科学的です。中立なところから出発した人生と世界の認識論が「非人間的」になっていくゴーダマ・ブッダの仏教の起点はここにあると思います。縁起に沿って私たちが環境から受け取る情報は先験的に「苦」であるという認識。

先験的ですから根拠はありません。ゴーダマ・ブッダがそう思ったということです。ただ、そう思っただけではありません。そこから出発して「真理」と言っていいであろう地点に辿り着き、その理路を提示した。「真理」の真実性によって、環境情報は先験的に「苦」であるとしたゴーダマ・ブッダの「予断」が蓋然性を帯びるようになった。


大乗仏教は、僕の把握では、この「予断」を止観したものです。縁起説から出発して、情報は「苦」であるという経路を通って、「世界を超越した無為の常楽境」へと至ります。この認識もまたゲシュタルトです。編み物を編むという行為と同じです。

だとすれば、「裏編み」の手法が存在する可能性があります。そしてその方法は、ゴーダマ・ブッダの手法が「非人間的」なんですから、「人間的」であるはず。この人間的な手法が大乗仏教だと思います。。

そのように捉えると、大乗仏教は「個人の選択の自由」の結果ではありません。ゴーダマ・ブッダの仏教が蓋然性を備えているのと同様の蓋然性を備えた、別の方法だけれど同じところへ到達する同じ宗教だということになる。大乗仏教がゴーダマ・ブッダとは別の考え方をしているのにもかかわらず、仏教であると自認していた理由であると考えます。


もう一段、話を進めましょう。
ゴーダマ・ブッダはなぜ「非人間的」な手法を選択したか。
僕には、それがブッダが王族だったということと深い関連があると考えます。

仏の道を行く修行者は出家し、社会からの施しを受けて暮らしていかなければならない――と、ゴーダマ・ブッダは考えた。ここがそもそも「非人間的」です。

動物としての「ヒト」は同時に社会を営む存在である人間です。人は「ヒト」なのか「人間」なのかという問いは、「我」に対する問いと同じで、答えようがない。どちらを選択しても行きすぎた答えになってしまうという性格のもの。もしゴーダマ・ブッダが問われたなら、これも「無記」という態度で答えたろうと思われます。

しかし不思議なことのようですが、仏教のなかにはそういった問いは出てきません。この問いは仏教をはじめとする世界宗教が成立した時代にはなかった新しい問いだからです。この問いは、ダーウィンの進化論が起源です。それまで、このような問いは人類のなかに存在しませんでした。「社会」という概念もまた、進化論以降のものです。

出家という思想は「非人間的」です。これは「ヒト」として見たときの人間の立場からの答えです。では「社会」としてみたとき、出家し僧は「非社会的」でしょうか。

現代社会では「非社会的」と判定されるでしょう。ですけどゴーダマ・ブッダが生きた時代のインドにおいては「社会的」だったろうと思います。もうすでに文明社会でしたから、生産に携る者と統治に携る者が分業することは、当然のことでした。ゴーダマ・ブッダの思想は、文明社会の「当然」の上に立ったものだと見受けられます。

本書『仏教思想のゼロポイント』では、ゴーダマ・ブッダの思想は時代を超える普遍的なものだという認識です。実際に時代を超えてきたのだから、そのように捉えるのが合理的だとします。僕もその意見を支持しますが、限定つきです。「ヒト」としては普遍的な、ひとつの方法論です。

「動物としてのヒト」か「社会的な人間」かという視点は近代以降のものです。ゴーダマ・ブッダ時代のインドでは「社会的な人間」という視点は存在せず、つまり当時の社会のあり方はデフォルトとして思考の埒外に置かれ「動物としてのヒト」としてどう生きるかという問いが立った。だからでしょう、インドの思想は西洋の尺度で言えば哲学的です。

一方、中国では「動物としてのヒト」という視点がなかった。すべて「社会的な人間」という視点で問いが立てられました。儒家と老荘の対立、諸子百家、全て社会学的です。社会学的ですが「動物としてのヒト」との対立がありませんから、同時に宗教的になります。

本書ではゴーダマ・ブッダの思想を説明するのに老荘思想が援用されています。なぜ儒家ではないのかという問いが立ちます。老荘は「小さな社会」をよしとして組み立てられている思想ですから「動物としてのヒト」に近いのです。対して儒家は「大きな社会」が前提。だから政治的になる。政治的なところは、ゴーダマ・ブッダの視点から世俗となって思考の対象からは除外されます。

ところが大乗仏教になると、一転して社会的になります。これは近代的な「ヒトvs社会」という対立から出てきたものではもちろん、ない。「非人間(ヒト)的」なゴーダマ・ブッダの方法の「裏編み」がなされ「人間(社会)的」なもの仏教が生まれた。

そのことを本書『仏教のゼロポイント』では、仏教の「本来性」と「現実性」という形で論じています。


中国に伝わった仏教が大乗仏教だったのは、社会的な中国からすれば必然です。ゴーダマ・ブッダの仏教も伝わらなかったはずはないでしょうが、それは社会的な淘汰を受けて、受容されたのは大乗の方ということになったのだと想像します。

そして、その大乗仏教が日本に渡来した。中高生の歴史の授業でも教わるとおり、仏教は中国的な社会統治のツールとして輸入さました。しかし、統治ツールとしての仏教は、社会のなかで統治を担っている部分にしか受容されませんでした。

ゴーダマ・ブッダの「裏編み」として成立した大乗仏教は、中国経由で一旦は統治ツールに変容しましたが、日本でもう一度「裏編み」がなされて庶民的な仏教へと変容します。

「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ」

親鸞の歎異抄の有名な一節ですが、社会的だったはずの大乗が、「親鸞一人(いちにん)のため」という個人救済に変容しています。これは、『仏教のゼロポイント』がいうところの仏教の“本来性”というタームで言えば、社会に本来性を置いた上での社会的個人救済です。社会的ということはつまり「他力」です。ゴーダマ・ブッダも目指したのは個人救済でしたが、本来性が「ヒト」にあるので自力救済でした。

もっとも、日本的大乗仏教における「社会」とは文明のそれではない。むしろ「自然」です。日本は非文明的な文明社会ですから。なので、浄土真宗などはレヴィストロースがいったところの「野生の思考」に近い。「国土草木悉皆成仏」はその性格を端的に表しています。そして、その救済の主体はゴーダマ・ブッダが否定した自然のなかで生産活動に勤しむ人たちになっています。

ちなみに、僕がここでいう「裏編み」は大乗仏教に専門用語があります。「方便」と言います。


ゴーダマ・ブッダの仏教と日本的大乗仏教では、アフォーダンス的な知覚の価値判断も違ってきています。ゴーダマ・ブッダは「苦」と捉えた。『仏教思想のゼロポイント』では、「苦」は「不満足」だと解説してくれていますが、もう、ここからしてすでに文明的です。知覚が「不満足」になってしまうのは文明的な環境の中にいるから。自然環境をデフォルトとするヒトを含む動物が、知覚を不満足だなんて感じるはずがないです。それは生命の原理の否定です。そしてゴーダマ・ブッダの仏教は生命原理の否定の否定です。

日本的大乗仏教は知覚を「楽」と捉えます。「楽」のはずなのに「苦」になるから「救済」が求められる。では何が「苦」にするのかといえば「社会」です。


いろいろ書いて長くなったのでそろそろ切り上げますが、ほかにも「思うところ」はいくつかあります。ゴーダマ・ブッダの「まなざし」はラカンのそれと似通っているとか、ブッダが無記とした「我」をイスラームの思考から捉えてみるとか。そういえば井筒俊彦さんは、イスラームの思想も東洋の思想だと捉えていましたよね。

それらは別の機会に...となるかどうかは自分でもわかりませんが、ゴーダマ・ブッダ的「世界の終わり」と「物語」の関係を裏編みすることはしてみたいかな。


感じるままに。