『永遠の0』

今朝接したニュースにこんなのがありました。

大人気なんですね、百田さん。
果たしてどんなふうに歴史を綴っておられるのか。

ぼくも興味があります。
予約をして買い求めようとまでは思わないけれど、機会が巡ってきたらいずれ目を通してみたいとは思う。

期待できると思います。
『永遠の0』の作家さんですからね。
不機嫌なオッサンのようですけれど。



『永遠の0』については、前にこのような文章を書きました。

ベートーヴェンを取り上げたのはぼくの趣味だからですが、そう外れでもないと、改めて思います。

『永遠の0』の主人公は“宮部久蔵”というキャラクターですが、偉大な人格として描かれています。軍人であるにもかかわらず「お国のために自らの生命を捧げる」と【道徳】に従わず、「愛する妻の元へ生きて帰る」という〈自身の心〉に真っ直ぐであろうする人格。

アドラーでいうなら、「嫌われる勇気」のある人物。

なのに宮部は、最後は特攻隊を自ら志願して死んでいったという。その謎を宮部の子孫が宮部を知る戦争体験者の話を聞きながら解き明かしておこうというミステリー仕立てになっている。

これがなかなか読ませます。
「嫌われる勇気」を読書体験するなら、お勧めと言いたい。「嫌われる勇気」が「幸せになる勇気」と深く結びついていることも、よくわかる。

戦争の不条理さ、社会の不条理さもわかりやすく描けていると思います。大日本帝国海軍の指導部の無能さと、現代の官僚の無能さとを重ね合わせて批判するような記述もでてくる。【勉強】が人間をダメにしてしまって、惻隠の情を殺してしまうのだという。まったく同感です。


だけどやっぱり、この小説は甚だ不機嫌なものだと思う。端的に表れているのは、特攻兵たちの描写です。だれもが「立派」な人格として描かれている。ひとりひとりが「英雄」です。

本心は死にたくないけれども、上官の命令に逆らう勇気がなくて、特攻を志願してしまう。でも、出陣のときには笑顔で征く。なんと立派なことか。それに引きかけ、特攻を立案した者たちの卑怯なこと――という構図。わかりやすいし、事実にも沿っている。

「死にたくない」という本心に素直な宮部を、特攻に志願した人たちは臆病者と批判します。けれど、生き残って、自分も家族を持つようになるとその気持ちがわかる。宮部は実はとても「勇気」のある人物だった。

「立派」と「勇気」とは並立しないと、『永遠の0』は描いています。


このことは、現代社会に生きている者の実感でもありますね。会社がいわゆるブラックになっていく。そんな環境の中では「立派」であることと「勇気」があることとは並立しません。並立しないような環境こそ不道徳。

『永遠の0』は、戦前戦中に遡って軍隊組織の不道徳を批判します。それは確かに正しい。であるがゆえに、『永遠の0』もまた扇情的な【道徳】になってしまっています。

「正しさ」に依拠して批判するのが【道徳】です。


「立派」と「勇気」とは並立しないけれど、どちらも「正しい」ものです。そのことを『永遠の0』では、「人間として」という言い方をしている。どちらも「人間として」「正しい」。

けれど、ここにはどちらが「より正しいのか」という問いがありません。その問いは、『永遠の0』を読めば自然に湧いてくるものだし、宮部久蔵がなぜ特攻に志願したのかというミステリーの核心もそこにあったはず。なのに核心は、最後の最後でぼかしてしまう。

今更ネタバレを避ける必要もないでしょうが、百田さんを嫌って読んでいない人も多いでしょうから、伏せておきましょうか。「読まされてみる」のも一興だし、「嫌われる勇気」を知るのに好適書でもあります。

最後は超常現象をもってきて、ミステリーに別の回答を与えてしまう――だけ記します。

ぼくは腹黒い人間なので、こういうのを読んでしまうと、「ここは追究したくないんだな」と思ってしまいます。


エンターテイメントとしては、それでいいと思います。
百田さんがエンターテイナーだというならば。
けれど、道徳を追究しているというのであるなら、甚だ中途パンパだと思わざるをえません。日本史をエンターテイメントとして書こうとしているわけではなかろうし。


「立派」と「勇気」は、これまたアドラー的にいうなら、課題が違います。

また古くさい概念を持ちだして恐縮ですが、儒教の概念でいうならば、「立派」は「忠」に相当し、「勇気」は「孝悌」に通じます。『永遠の0』に限っていえば、家族の親愛の情を「孝悌」とみなせば。

本来の儒教では、「孝」「悌」「忠」は「課題の分離」が為されていて(だから、別の文字が与えられている)、「孝」「悌」は「忠」より優先すべきものになっている。ところが、明治維新以降の日本は「忠孝一如」といって、課題を融合させてしまった。

だからこそ、「課題の分離」が「勇気」として現象します。『永遠の0』はまさにそこのところを描いている。にもかかわらず、肝腎要のところをぼかしてしまって、【道徳】的に振る舞う。作中にでてくる新聞社批判など、その典型です。

近頃話題になっている「教育勅語」再評価にかけているのも、この視点だと思います。「孝」「悌」「忠」を融合して「人間として」で見るならば、「教育勅語」は誤りとは言えない。だけど「課題を融合した」のは誤りであり、だからこそ特攻隊のような、悲劇というには余りにも滑稽で残虐な現象が起きた。


もうひとつ指摘しておくべきは、これは儒教に対する老荘からの批判として古くからある構図なのですが、「人間として」を強調する余り、「人間として」が際立つ状況を肯定してしまうきらいがあること。

親孝行が際立つのは、親子が不幸な状況に場面です。忠臣が「忠」を最大限発揮するのは、忠誠を尽くす君主がバカだったとき。戦前もてはやされた大楠公(楠木正成)などその典型で、後醍醐といかいう大馬鹿野郎に尽くして死んで行きました。

「際立つ」のを求めるのは、傍観者の欲求です。当事者からすれば、際立つことなどないほうがいいに決まっている。【勉強】をすると、「傍観者の欲求」を「当事者の欲求」だと勘違いをするようになる。

この現象は、科挙を経て官僚になった者が統治した中国に起こったことだし、戦前の軍組織に起こったことだし、今の日本の官僚たちに起きていること。古今東西を問わず、起こっていること。

『永遠の0』はそこのところに斬り込んでいます。官僚制批判もそうだし、特攻で生き残った者たちの口からいくども、「当事者の苦悩」を語らせる。

にも関わらず、その「「当事者の苦悩」を語らせる」ということも含めて、「傍観者の欲求」に沿ったものになっている。「人間として」のところが、「傍観者の欲求」に沿ってわかりやすく消費されやすい構造になっている。

そうすることで、大きな稼ぎを手にしている。

繰り返しますが、エンターテイメント・エンターテイナーならいいんです。読者の欲求に沿うの使命なのだから。エンターテイナーがもてはやされるのが民主主義というものでもある。


百田さんは民主主義に乗っかりながら、民主主義を道徳腐敗の原因だとして批判しています。

矛盾していますよね。

この矛盾を誤魔化すためにも不機嫌でなければいけないし、大げさに不機嫌を表現しなければいけない。実際、不機嫌だと感じます。「課題の分離」をしようとしませんから。

そうしたオフィシャルでの振る舞いと『永遠の0』で示した「ミステリーの核心ずらし」の手法には、共通したものがあるように感じてしまいます。


(ぼくも不機嫌な文章になってしまいました...)

感じるままに。