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新緑の季節

 長いトンネルを抜けると新緑の季節でした。

 今朝は、朝の犬の散歩に久しぶりにスマホをもって出かけました。いままではトンネルを意識して、あえて持たずにいました。桜の花の前ではいくどか後悔しましたが、そちらへ没入してしまうとトンネルの中には入れなくなりそうな気がして。
 本は望遠鏡のようなものです。「今、ここ」ではない遠くを見渡すことができる。ただし、視野は狭い。なのでずっと覗き続けていると、トンネルの中を進んでいるような気分になってしまいます。
 それが昨晩、やっと本の世界から抜けだして、いつもの場所へ戻ってきた。天気模様はあいにくですが、それでもまぶしい。同じ世界なのに別の世界に入り込んできたかのよう。
 これでやっと、一区切りがつきました。折しも、時代は平成から令和に変わりました。
 本の世界を覗き続け、自らも文章と格闘している間、感じていたことがありました。それは、日本語は縦書きだ、ということです。なぜ日本語は縦書きがしっくりくるのか。うまく説明することはできません。上から下に、右から左へと書き進めていく。敢えて言うならDNAとでも言うのが適切かもしれません。
 別に横書きに、左から右へ、上から下へ書くことだってできないわけではないし、実際、書き慣れてもいます。ことにネットに文章を書くとなると、横書きが標準。けれど、ちょっと考えてみると変ではあります。なぜなら、モニターは普通、横長なのだから。横長のモニターには日本語のように縦書きに書かれた文章を表示することが合理的なはずですが、そうはならなかった。それは世界標準――というより欧米標準が前提だったからでしょう。アルファベッド文字は横書き。それも日本語のように、縦横どちらでも書けるというようにはできていません。これは「歴史」というものの性質だと言っていい。そして今、日本ではちょうど時代の変わり目です。
 といって、別に何かが大きく変わるわけではない。天皇は代替わりしたらしいけど、それは今の時代ではせいぜい「消費」の対象になる程度のことです。確かに社会の中には天皇の代替わりと直接に関わる人も――天皇自身を筆頭に――いるのは間違いないだろうけれど、ふつうの庶民であるぼくたちにとっては、昨日と大きく違う今日がきたわけではない。年に一度やって来るお正月の特別バーションがやってきた程度のこと。しかも、正月ほどぼくたちの暮らしに関わってこない。だから、時代の変わり目であることに間違いはないけれど、正直言って他人事です。今の時代だから、まだ消費の対象に格上げになっているという方が正確なはずです。メディアが発達していなかった時代では、庶民には天皇の代替わりなどといったニュースは知りようがなかったはず。それが印刷技術が発達して出版資本主義が誕生して云々とベネディクト・アンダーソンな話なわけです。
 奇妙なのは、「格上げ」と書くときに違和感を覚えることです。消費の対象となったことは、むしろ「格下げ」だという印象を抱く。この逆接はいったい何なのか。もうひとつ奇妙なのは、「格下げ」と感じるにもかかわらず、それが間違いなく進行していることです。この進行は不可逆なものにさえ感じる。
 ぼくはすでに五〇を超えた年齢です。なので、時代が昭和から平成に変わった変わり目の記憶はかなりしっかりある。三〇余年前は、まだしもぼくたちの暮らしに関わってきた。今回はGWと重なって一〇連休らしいですが、「らしい」と言いたくなるくらい他人事です。一〇連休の恩恵に欲している人においてさえ――ぼくは恩恵はまったくない階級に属していますが――、そうではないか。自分たちの暮らしには関係がない人たち、消費を盛り上げることでぼくたちの歓心を買うことにしか関心をもっていないような人たちが決め、そして騒いでいることに付随する棚からぼた餅だか金盥だかわかりませんが、どこにかとばっちりと言いたくなるような感覚がある。
 昨夜までぼくはとある文章を書いていたのですが、その文章の主題がまさにこの感覚です。こうした感覚はどこから始まったのか、というのがテーマ。ぼくはこれは、パウロから始まったのだと考えます。キリスト教を創設した、あのパウロです。ただ、申し訳ありませんが、今はその文章をアップするわけにはいきません。できるのは半年後です。

 話を日本語に戻しましょう。
 縦書きが日本語のDNAであるとして、ゆえに日本語は縦書きであるべきであるといった類いの主張は、ぼくはナンセンスだと思っています。元号をめぐって、このような議論があったようですね。日本の元号は中国古典から牽くのがDNAであるという主張。といって、じゃあ、日本の古典へと切り替えるのを支持するのかというと、こっちはもっとナンセンスだと思う。別にどっちでもいいと個人的には思うし、古来から続いた伝統だからといって変えてはいけないとは思わない。女性天皇だっていいと思う。ナンセンスだと思うのは、変えるにあたっての「性根」です。消費に資さえすればいいのだと。これを始めたのはパウロ――話が舞い戻ってしまいました。

 日本語は縦書きであってしかるべき。「しかる(然る)」が入っているかいないかには、微妙だけれど決定的な差があります。ところがこの差は、言いあらわすことが大変に困難なもの。明確に言いあらわそうとすればするほど遠くなっていくような性質の「複雑なもの」です。
 だからといって、言いあらわそうとすることを放棄するのは面白くない。言いあらわせないことを何とか日本語で言いあらわそうとして、その試行錯誤の中でなんとなく、「日本語は縦書き」だということがわかるようになってくる。そうした類いの面倒くさいこと、だからこそ愉しいこと。
 面倒くさいことは、もう、どうしようもない。実はこれ、「生きること」と同じです。だったら、いかに「愉しく」するか、です。
 これまた面倒くさいことですが、「愉しい」と「楽しい」は混同したくない。面倒くさいからたのしいが「愉しい」です。コンビニエンスに手に入れられる「楽しい」とは微妙だけど決定的な差がある。この差が感じられなくなってしまっていることが、「格下げ」と感じられつつも不可逆に進行する時代――端的に言って資本主義――というものの鍵なんだろうと思っています。


感じるままに。