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『82年生まれ、キム・ジヨン』

「お客様は神様です」という、演歌歌手の三波春夫が発した言葉があります。この言葉は有名になり過ぎ、発した当人の真意とは離れて一人歩きしたために、言葉を発した三波春夫が釈明しなけれならない事態になっていたりしています。

三波春夫にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。客席にいらっしゃるお客様とステージに立つ演者、という形の中から生まれたフレーズなのです。
 (中略)
 しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、(中略)俗に言う“クレーマー”には恰好の言いわけ、言い分になってしまっているようです。
(https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html)

「神様」とは敬う対象を指す言葉。ステージの上に立つ三波春夫は、下から見上げる聴衆を敬って「神様」と呼んだ。上から下を敬って下に位置する存在を神様と言った。

これは三波春夫がたまたまステージに立つ歌手だったからというわけではないでしょう。関係の上下にかかわらず、敬う対象を神様とよぶのは日本の文化。上だの下だのというのは人間の都合であって、そうした都合も含めて人間を上から、あるいは下から支えている(と感じられる)存在を日本人は「神様」と呼んでいた。「神」は常に上に存在すると考えるのは、西洋の思考様式です。

三波春夫が弁解しなければならなくなったのは、三波春夫に原因があるわけではない。「お客様は神様です」という言葉を取り巻く文化が変容した。「神」と「神様」は、記号は同じようだけれど元々は全く別物。それが混同されて、しかも外来の方をホンモノと見なすようになった。その方が人間に都合がいいから。


『82年生まれ、キム・ジヨン』は、韓国の小説です。

韓国女性を取り巻いているハラスメントが描写されています。韓国女性は女に生まれたというだけで軽んじられる。軽んじられることに反発して成果を上げると疎ましがられ、さりとて成果が上がらないと女だからと馬鹿にされる。こうしたダブルバインドは、ハラスメント以外の何ものでありません。

本作は発表されるや韓国女性の絶大な支持を得た。「キム・ジヨンは私だ」と感じる女性がたくさん出現した。『82年生まれ、キム・ジヨン』は、現代の韓国を映し出す鏡となり、アメリカから発した「#MeToo」の世界的ブームもあって、女性ハラスメント反抗の狼煙となった。

韓国が儒教文化の国であることはよく知られています。そして、儒教といえば男尊女卑。男性上位の社会です。けれど、上位であることは必ずしも優位を意味しない。この逆接の象徴が「母(オモニ)」という存在ではないか。

「オモニ」という言葉は日本でもよく知られています。父は「アボジ」というそうですが、日本で見かけることがない。「オモニ」は彼の国を下支えするパワフルな存在というイメージ。日本ではイメージですが、当の韓国ではイメージ以上の実存でしょう。このことは、本作の中でも象徴的な形で描き込まれています。

「半分とは呆れたわね。少なくとも七対三でしょ? 私が七。あなたが三」

このセリフはキム・ジヨンの母が父に向かって発するものです。IMF危機の荒波をうまく乗り切ったと自賛する父に向かって母が発する。そして、この比率はキム・ジヨンの家庭の、IMF危機においての特殊事例でない。「七対三」男性上位社会である韓国社会一般の象徴的な比率ではないか。男性上位だけれど内実は女性優位で、そのことを男性もよく識っていて、だから、上から下への敬意が機能していた。「オモニ」という言葉の響きには、そうした敬意が含まれていたのではないか。

ところが、今の韓国社会には「オモニ」の言葉に象徴される「敬意の回路」とでも言うべきものが機能していない。その機能不全の象徴が小説には出てきませんが「ママ虫」という言葉――解説に記されているところによれば、です。

韓国の社会は男性上位女性優位でバランスがとれていのが、男性上位男性優位へと変貌しようとして、歪みが生まれてしまっている。そのシワヨセを女性が追うハメになっている――と書くと、加害者は男性で女性は被害者のように思えます。本作もそのように訴えている。けれど、優位を手放して上位を目指したのは、当の女性の側ではないのか。キム・ジヨンとは、優位よりも上位に重きを置き始めた韓国女性がシンボライズされたものであるようにぼくには思えます。

キム・ジヨン氏――当作では女性は固有名詞で「氏」付け表記、男性は固有名詞が一切登場しません――は、企業人がよく首からぶら下げているIDカードに憧れを感じます。IDカードには所属企業と個人名が記されていて、求められればすぐ提示できるように首に掛けられている。IDカードは社会で自立した人間の象徴として受け止められている。自立が大切なことと見なされる社会は男性が上位であるばかりでなく優位でもある。

一方で、家庭の中の機能としてしか扱われず、誰々のママと固有名詞で呼ばれることがない女性に対して、同じ女性であるキム・ジヨン自身が不満を感じている。キム・ジヨンの不満は男性のように蔑視が含むようには感じられないけれど、「機能」に重きをおいていないことには間違いがない。けれど、IDだって企業としての「機能」どころか「部品」であることを表示しているだけなのに、そこには疑問は持たないんだ――この点がぼくが感じた疑問で、その疑問が冒頭の「お客様は神様です」につながります。

「お客様は神様です」は、今では三波春夫が指摘しているように、客の側の理不尽なクレームを正当化するお題目として使われるようになり、批判を浴びています。しかし、「お客様は神様です」を都合よく取り入れたのは、客の側だけではない。お客のお金を目当ての企業もそうだった。積極的だったのは企業の方だったでしょう。そして企業に都合のよいお題目に従わざるをえない力関係に置かれた一般従業員が、このお題目のシワヨセを喰らった。同様の構造は韓国の女性にも当てはまるのではないか。

本来、客と店はどちらが優位ということはない。ただ、上下で言えば客が上。上であることに店は敬意を払い、客は下支えに敬意を払っていた。その関係を崩したのが「お客様は神様」の言葉――ではなく、企業に所属して社会の中で自立した社会人だと見なされたいという欲望です。三波春夫の言葉は、そうした欲望を取り繕う大義名分として使われたに過ぎません。キム・ジヨンにあるのも、家庭を、ひいては社会を下支えするといった「機能」よりも社会の中での自立に重きを置くようになった女性の姿。要するに男性と同じものを求めるようになった。「社会的上位」の取り合いというのが、著者の意図せざるところで描き出されているところではないだろうか、と思います。


このように見れば、「上位の取り合い」は日本と韓国の関係でもあるということに気がつきます。男性原理が優位に機能する国際社会では、上位=優位です。日本と韓国には、アメリカ・中国という上位で優位の国家があって、その下で上位と優位のポジションの椅子取りゲームをしている。日本からみれば韓国の、ことにムン・ジェイン政権になってからのなりふり構わない「上位取り」姿勢に嫌悪感を覚えていますが、それは日本も上位が欲しいから他なりません。韓国は日本の弱点(歴史)を突いて上位に立とうとするけれど、優位なのは日本なのだから悠然と構えていればいさえすればいい――といったような論評もよく目にします。そして「弱点を突く」という手法は確かに韓国(男性)のやり方で、本作に描き出されているところ。その弱点にコンプレックスに抱いているいう点は、(韓国)女性も日本も同じ。そうした社会の潮流の中で、上から下への敬意の回路がどんどん痩せ細っている。

ちなみに日本において、上から下への敬意を象徴しているのが天皇という存在です。天皇家には――網野善彦が指摘するように――伝統的にそうした機能がありましたが、この機能をより際立たせたのが平成上皇・上皇后でした。今上陛下もそこのところはしっかり受け継いでいるように見受けます。しかるに、天皇制を取り巻く政治環境はどうかというと、甚だ心許ないと言わざるをえない。伝統的上位である天皇を利用して、自身の優位を確保したい。こうした心性は、『82年生まれ キム・ジヨン』が指弾する韓国男性のそれと変わらないと思います。


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