【社会】に適応する

『〈しあわせ〉の哲学』のその5。


今回のネタコンテンツは『コンビニ人間』。

画像は色を反転させてみました。
そんなようなことをしてみたくなるような内容の小説です。


ここから「試し読み」ができます。


前回は「社会をつくる」と題して、大阪市の実在の小学校が舞台となった本を取り上げました。

今回は、その反対です。
「〈社会〉をつくる」の反対が「【社会】に適応する」。
『コンビニ人間』の主人公古倉恵子は、徹底的に社会に適応した人物として描き出されています。


『コンビニ人間』は「音」で始まり「声」で終わる小説です。

 誰にでも聞こえる音。
 誰かにしか聞えない声。

古倉恵子は彼女にしか聞えない「声」を聴くところで物語は閉じる。「コンビニの声」を聴いた彼女は、果たして幸福か? しあわせか?

〔幸福〕かもしれないが〔しあわせ〕ではないというのが「〈しあわせ〉哲学」で主張したいところなのですが、まあ、ここでは流しておいてください。


古倉恵子は「〈社会〉をつくる」ことが苦手な子どもでした。「空気」が読めない。可愛い小鳥が死んだら食べようと言い放ち、ケンカを止めろと言われたら椅子で殴って強制停止させてしまう。発達障害とされてしまうような子ども。

自身のおかしさを自覚した恵子は「〈社会〉をつくる」ことを諦めてしまう。そんな彼女がコーリング(calling)されたのがコンビニです。コンビニ店員が恵子の天職になる。

なんとなれば、コンビニ店員には「〈社会〉をつくる」ことは求められないから。自分の立場を弁えて、客やオーナーの要望に応える。「人間(同士)として」の対応は求められない。コンビニ店員として、すでにして存在する【社会(コンビニ)】に「適応する」ことが求められる。


社会をつくるということは、

 まず第一に、仲間をつくる
 二が、社会に役立つ能力を身につける
 二の次が、秩序を作り遵守する

の三要素を満たすことです。そして、1,2,3の順番で重要度が高い。

古倉恵子は1.を諦めて、3.を最重要視します。でも、これは「人間として」はおかしい。人間の自然に反します。ゆえに、周囲に者たちは恵子に1を期待する。友人や恋人を見つけ、やがては結婚して子どもをなして...。


『コンビニ人間』は薄気味が悪く、かつ恐ろしい小説です。その恐ろしさは、古倉恵子の個性にあるのではない。恵子の仮初めのパートナーとなる白羽にあるわけでもない。むしろその周囲です。「普通」の者たちこそが恐ろしい。

彼らは恵子を「治療」しようとします。もちろん善意ゆえにです。でも、その善意が2.「能力」ベースなのです。「仲間」としての問題ではなく、「能力」の問題として恵子を捉えている。

仲間ベースであれば、そもそも「治療」は必要ないし関係がありません。そういう人間として受け入れるだけ。受け入れられて「〈社会〉をつくる」ことを始めることができれば、人間は主体的に学ぶようになり、自然に「治癒」していく。

ところがまず「能力」の問題として見てしまうと、仲間になることができる前提が能力になってしまう。ハードルが設けられてしまいます。恵子は、そのハードルを越えることを諦めて「能力があるフリ」をするという選択をする。自発的にというよりは、「能力」を求める適応圧力に押し出されて。


恵子はどうみても、いわゆる「発達障害」です。発達障害は、現在では大きな社会問題として取り上げられるようになっています。

では、昔は発達障害はなかったのか? 
そんなことはないでしょう。
では、なぜ問題にならなかったのか?
「治療」と「治癒」の差ではないのか?


古倉恵子の「フリ」は破綻します。そして恵子はコンビニの「声」を聴くに至ることになる。「コンビニ教」がここに誕生する(笑)

『コンビニ人間』はあくまでフィクションですから、「コンビニ教」には笑うことができます。でも、これはフィクションの枠の中で収まるものなのでしょうか?

過去にはこのような「現象」もありましたね...


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愚慫

〈しあわせ〉の哲学

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