ネット民はタチが悪い?

ぼくはここのところ、かなり不機嫌です。

今も、朝のコーヒーといこうと思ってコーヒー豆を手動のミルでガリガリやっていたら、ちょっとイラッとしてしまった。使っているのはカリタの安物のミルなんですが、これがしょっちゅう挽いている最中に豆が飛び出すんです(笑)

上機嫌・不機嫌は、こういった些細なところに出てきます。

豆がミルから飛び出すのは、豆に物理的な力を加えているから。豆を挽くためには必要なことです。加えて、蓋がきっちりとされていないので、飛び出すのはどうしようもない。もっと高級な器具を使うかしないと。

理性でそのように理解はしても、上機嫌・不機嫌には関係がありません。上機嫌も不機嫌も、無理矢理にでも機会を捉えて表出してこようとする。


「箸が転んでも笑う年頃」という諺があります。最近は言わなくなったように思いますが、妙齢の女性たちの特徴を示す諺(でした?)。これはちょうど、「豆が飛びだしてイラッとした」ことの正反対。

つまり、若い女性は一般に上機嫌だ(った)という観察から、出てきた諺。


若い女性が一般的に上機嫌だというのは、人間一般の傾向というわけではなさそうです。というのも、それが日本の特徴のひとつだと記録されているから。

『逝きし世の面影』は、幕末から明治初期の日本を訪問・滞在した異邦人たちの記録から当時の日本の様子を描きだした本です。ここには、それこそ「箸が転んでも笑う」女子たちに驚く異邦人たちの記録が幾つか紹介されている。彼らは自分の母国の他、中国などとも比較して、他の文明には見いだせない特徴だと記しています。

もっとも、当時の女子たちはお歯黒だったので、余計に目を引いたのはあるでしょうけれど。

記録に残るというのは、それが特異な現象だからです。当たり前のことは記録に残そうとするインセンティブに欠けますから。


ぼくが今、不機嫌なことの理由は、自分ではよくわかっているつもりです。それは、ここのところずっと理性について考えているから。

理性は抑圧する精神作用ですから、それについて考え続けるということは、自然に、自身を抑圧するということになってしまう。思考は身体に影響を与えるし、その逆も然り。人間とは、そういう生き物。心身一体。


もっとも、他の人から見て表面上は上機嫌に見えるだろうと思います。いつも上機嫌だと言われるし、それは今現在も変わりません。かえって抑制が効いているのでしょう。

が、ものを書くとなると難しい。文章を書くことに限らず、表現には表現者の心の状態が反映されます。表現を受け取る者もまた然り。




もしSNSをnoteしか知らない人がいて、ネット民がタチが悪いとする指摘を目にしたなら、妙に思うでしょう。自身の体験とは異なるから。一方で他のSNSの状態を知っている人なら、この指摘は肯定できる。

 今回のアリアナ「七輪」騒動は、ネット民のタチの悪さをあらためて炙り出してくれました。今日もネット上では、遠慮なく攻撃できる「悪者」を探しては、正義の味方気取りで罵倒しまくる醜い光景が繰り広げられています。匿名をいいことに誰かを攻撃している人は、それで溜飲が下がったり偉くなった気分を味わったりしているのでしょうか。だとしたら、ずいぶん卑しい了見だし、ずいぶん物悲しい話です。

そう、まったくもって卑怯なことです。

もしかしたら、人間がこうした卑しい了見を発揮してしまうのは、ネット上だけではないかも。

「もしかしたら」ではありませんし、そうでないことは筆者も識っているはずです。いやしくも社会人なら。

会社がブラックな労働環境になるのも、○○ハラスメントがどれほど指摘されても理解がなされないのも、自身に都合良く解釈したい卑怯なところがあるから。

「もしかしたら」にも、自身に都合のいいニュアンスがある。


人間が卑しくなるのは、この「都合の良さ」です。
許されるから、そこへ乗っかる。

匿名だから、追及されないから、許される(だろう)
正当化できる理由があるから、許される(だろう)

加害する側にしてみれば「だろう」でも、被害を被る側からしてみれば断じて「だろう」ではない。

だから、理性的に考えるならば、もっと理性を働かせて、この安易な「だろう」をなくすように行かなければならない。理性が働くような環境を、理性を働かせて、構築していかなければならない。


重ねていいますが、ぼくは今、少しばかり不機嫌です。なので、

ネット民のふり見て我がふり直せ。どうでもいい批判をしたり、セコイ縄張り意識を発揮したりする誘惑を全力ではねのけましょう。

というような理性的な言にイラッときてしまう。理性的なふりをしてようにしか見えない。



人間は、とにかくいつでも「表出」をしていたい生き物です。いえ、表出していたいのは人間だけではない。ありとあらゆる生き物が、自分たちのやり方で表出しています。

 私が両手をひろげても、
 お空はちっとも飛べないが
 飛べる小鳥は私のやうに、
 地面を速くは走れない。
 私がからだをゆすっても、
 きれいな音は出ないけど、
 あの鳴る鈴は私のやうに
 たくさんな唄は知らないよ。
 鈴と、小鳥と、それから私、
 みんなちがって、みんないい。

有名な、金子みすゞの詩。
すこぶる上機嫌です。

ここにある上機嫌からすれば、「我がふり直せ」は不機嫌に思える。そうした理性的な振る舞いは人間にしかできないものなのかもしれないけれど、「人間しかできないから」もまた正当化にすぎないように思えます。

上機嫌な目で見れば、「だろう」もまた「みんなちがう」あり方にすぎないのではないか。


もう一段、不機嫌な話になります。

(上掲のグラフは、こちらから ⇒ 『社会実情データ図録』


人間は、つねに某かの「表出」をする。しかも、それにふさわしい場所でしようとする傾向がある。noteには上機嫌を、ツイッターでは不機嫌を。

不機嫌の表出ということで考えれば、自殺や他殺は、その究極形でしょう。

自殺と他殺の違いは、どこへ向かって表出するかの違いです。

他殺が減って自殺が増えているというデータから推測できるのは、表出傾向に変化が生じているということです。

では、その変化の原因は何か。


上掲のグラフでは失業率と自殺率とが相関していることが示されています。

失業すれば、ほとんどの人は上機嫌ではいられないでしょう。


自殺と他殺とを、理性という側面から考えれば、自殺のほうが理性的と言えます。では、失業に追い込まれて自殺してしまうのが理性的かというと、決してそうは言えない。どちらも理性的ではないが、他殺のほうがより理性的ではない、という話です。

ここから、理性に焦点を絞って結論を導き出すなら、出てくるのは

より理性的になれ!

たしかに、これは間違いではない。
けれど、それよりも、失業率を改善したほうがいいに決まっています。失業率を下げて少しでも上機嫌になれば、誰も自殺しようなどとは思わなくなるでしょう。

ここに理性というものの卑怯な側面があります。理性的でありさえすれば何ごとも解決すると考える。理性万能論です。

が、科学が解明したのは、人間はさほど理性的ではないという事実です。


アリアナの話に戻ります。

ネット民が、日本を愛しながら日本語をよく知らなかったアメリカの歌姫を攻撃したのは、不機嫌だったからでしょう。

匿名で攻撃することが許された。
日本語により詳しく、正しい知識を伝授するという正当化も可能だった。

が、たとえそうであっても、上機嫌なら攻撃にはなりません。

ネット民のみんながみんな、匿名性と正当化を利用して攻撃しなければならないほど不機嫌ではないことを記事も指摘しています。攻撃するのはあくまで少数派です。

その少数派を取り上げて、理性的になるべきだというが、何か違う。それより、少数派を多数派のほうへ包摂していくように考えるほうが、より理性的だろうと思います。

ところが理性的であるべしとする人間は、なぜかそちらの方向へ考えることが少ない。


「べし」という言は理性的な響きですが、ここにはすでに不機嫌なニュアンスがあります。それをできないものを批判する響きがある。できないことは許されざることだ――(科学はできないと実証しているのに)。



上機嫌な人間にとっては、理性的であることはさほど難しいことではありません。抑制すべきものが少ないなら、それだけ抑制する力は少なくて済む。実にシンプルな道理です。

逆に、不機嫌な人間は理性的であることが難しい。抑制すべきものがたくさんあるのだから、必要とされる力は大きくなる。

そして、理性が卑怯なのは、理性が働いている力の大きさで評価するのではなくて、理性が働いた結果で評価するというところにあります。

どれだけ抑制するものが少なくても、抑制ができていれば理性的。
どれほど抑制するものが大きくても、抑制ができていなければ非理性的。

科学が理性の力には限界があると実証しているのに、理性は未だに結果で判断しようとする。そうするほうが理性にとって都合がいいから。


理性、理性が抑制している不機嫌の大きさで判定するなら、ネット民は必ずしも質が悪いと言えません。背景にどれだけの不機嫌があるのかがわからなければ、理性の力の大きさは判定しようない。

むしろ大きな不機嫌を他殺や自殺のような形ではなく、まだしもネット経由で上機嫌な者に向けているだけ、理性的だと言えるかもしれない。彼女には、ネットで不機嫌を表出せざるを得ない者たちよりも、ずっと多くの上機嫌でいられるリソースを持っているだろうから。


ヒトという種には、公平であることを望む他種には見られない特異な傾向があります。これもまた、近年、科学が明らかにしたところのものです。

実験経済学で行われた「最後通牒ゲーム」がよく知られています。

「報酬」を2人でどのように分配するかというゲームで、心理実験として用いられる。

ある1人(仮にAさん)には報酬配分の提案権を、もう1人(仮にBさん)には提案された報酬配分への拒否権を与えるという2人2段階ゲーム。Aさんが報酬配分を決定できるが、Bさんが拒否したら2人とも報酬を失ってしまう。提案者のAさんは自分の取り分を多くしたいが、Bさんが不公平な分け方を拒否する可能性があり、安易な解決を目指せば公平な報酬配分を選択する。

経済合理的に考えるなら、Bさんが拒否権を行使して利益があるのは配分が「0」の場合だけ。少ないからといって拒否したら自分ももらえない。なのにヒトは、それでも(自分が損しても)拒否しようとする傾向があります。

けれど。

“機嫌”を合理性の基準として考えれば、まったく非合理ではありません。

「上機嫌を独占されるのは不機嫌だから、平等に機嫌よくなろう」

機嫌平等性原理とでも言っておきましょう。


機嫌平等性原理をもとにすれば、いろいろなことが説明可能になります。

ネットで他人を攻撃するのはなぜなのか?
ネット上の上機嫌な投稿に疎外感を感じるのはなぜなのか?
なぜ、他人の不幸は蜜の味なのか?

いずれも理性を合理性の基盤に据えると不合理としか言えませんが、機嫌から合理的に考えれば、甚だ合理的な行動になる。

要するに人間は、自身の不機嫌を抑制してまで他者の機嫌を慮るようにできていない。なぜなら、そんなことをしてしまうと、他種との生存競争に負けてしまう。ヒトは自発的に協力し合うことを生存戦略として選んだのです。


そういえば、「そのようにできていない」ことが主題となって取り上げられているアニメがありましたね。

主人公の衛宮士郎は、ヒロインの遠坂凜から「壊れている」と評されていました。



こちらも、参考までに。

もっとも、ぼくは「不機嫌は罪である」という物言いには不機嫌を覚えてしまいます。なぜなら、不機嫌は自己責任ではないから。

「不機嫌は原罪である」と記すのが正しい。
これなら、自己責任性を免れるから。

不機嫌、言い替えれば、自己嫌悪。
これは「(アドラーがいうところの)ライフスタイル」です。

幼く無力だった子ども時代に、生き残るために選択せざるをえなかった「ライフスタイル」は、それがたとえ壊れたものであるにせよ抜けだすのは容易なことではありません。

抜けださないままに、無意識の底から湧き上がってくる不機嫌な怒りを昇華させて「成功」を求めるという生き方はありでしょう。ただし、それだけの才能があるならばの話。


感じるままに。