Spark Joy(喜びに火をともす)


今、日本にゆかりのある2人の女性に世界が夢中だ。1人目は全豪オープンで優勝し、世界ランキングの1位にまで上り詰めたテニスの大坂なおみ選手。もう1人が、今年1月から始まったNetflixの番組「人生がときめく片づけの魔法」が異例の大ヒットとなっている片づけコンサルタントの近藤麻理恵(こんまり)さんだ。

大坂なおみはさすがに知ってるけど、“こんまり”ははじめて目にしました。“こんまり”って、最初は形容詞かと思ったけど(笑)


一方のこんまりさんの番組は、ただ、家を片づけるだけではなく、それによって、家族との絆や時間、自分らしさを自ら取り戻すという、一種の「精神セラピー治療」的な側面も、人気の一因となっている。
さらに、家やモノと会話をするように、つながり、感謝をする、といった「アニミズム」(自然のすべてに精霊が宿っているとする精霊信仰的な考え方)的な儀礼やZen的なミニマリズムも神秘的と映った。「ときめきを覚えたものを残しておく」というやり方だが、「ときめき」をSpark Joy(喜びに火をともす)といった言葉で置き換え、直感的にポジティブなイメージを想起させる上手な英語のコピーづくりも功を奏している。

Spark Joy(喜びに火をともす)!

いい言葉ですね。

このような言葉に出逢うと、自分が考え主張してきたことがこの言葉に言い表されているような気分になってきます(我田引水ww)


自分の考えは(いつものように)後で蕩々と述べさせてもらうとして、その前に。

本当の答えは、その人自身が識っている

知識として意識的・明示的に「知っている」のと、
本能的あるいは体験として無意識的・暗黙的に「識っている」のとは、似ているようで根本的に違う(というのがぼくの主張)。

本当はその人が識っている、その人自身の答えに巡り逢ったとき。そういう瞬間を指して言うのにも、Spark Joy(喜びに火をともす)は適切な言葉であるような気がします。


冒頭の記事に戻って、興味深く感じるのは、「アニミズム」「Zen的」という言葉がでてくること。すなわち、西洋の伝統的な考え方、感じ方ではないということです。

西洋ではどのような考え方、感じ方をするかというと、これはダイエットの例ですが、

 2015年5月、ニューヨーク市長マイケル・ブルームバーグは、16オンス[約470ミリリットル]以上のボトルやカップの砂糖入り飲料の販売を禁止するという、異例の措置をとったことを発表した。これはアメリカで広がっている肥満の問題(全人口のほぼ3分の2が過体重、3分の1が肥満)と闘うために導入された対策だった。アメリカの食事の粗悪さには多くの要因が関与しているが、ソーダの消費が最も明らかなものだ。平均的なアメリカ人は1年に216リットルのソーダ飲料を消費するが、これは世界各国の平均消費量のほぼ2倍にあたる。コカ・コーラ一リットルには112グラムの砂糖、すなわち433カロリーが含まれている。毎年216リットルのコーラを飲めば、なんと合計で24キログラムもの余分な糖分を摂ることになる。

挙げられている数字には戦慄しますが、アメリカ人ほどではないせよ、日本人も他人事ではありませんね ^^;

ブルームバーグ市長の政策は独裁的と批判もされたようですが、効果はテキメーンだったそうです。

で、上掲書の著者ジョセフ・ヒースはこんなふうに言います。

 この(肥満の)流行を説明する段になると、人間が変わったのではないことは明白なようだ。変わったのは、環境のほうである。使われる食品および添加物が増えたというだけではない。セルフコントロールを損なって、もっとたくさん食べさせようと、ありとあらゆる種類の認知バイアスを組織的に利用する環境に、私たちは生きている。残念ながら、与えられる伝統的な助言は、個人の意志の力をひたすら強調する傾向がある。セルフコントロールは「頭のなか」のどこかにあるとの誤った考えに基づいたものだ。セルフコントロールされた人物とは、途方もない意志の力を行使する能力をもつ人だと見なされがちだが、実のところ、途方もない意志の力を行使する必要がないように生活を構成できる人のことだ。これは非常に紛らわしい。意志の力と見えるものは往々にして、実際にはその行使が求められる状況を避けることで、意志の力を節約するよう生活を整えた個人の巧みな試みの結果である。

要するに、肥満が流行するのは、肥満になるように環境が変化したからだと。スーパーサイズのハンバーガーが当たり前に売られ、売られている皿もいつの間にか大きくなって(釣られて盛る量も多くなる)、知らない間にカロリー摂取量が増えるような環境になってしまっている。

そうした環境に対して意志の力で対抗しようとしても無理だよ、それは古い啓蒙思想1・0だとヒースは言うわけです。

そうではなく、人間の意志の力は弱いものだということを踏まえて、変えるべきは環境の方である。ブルームバーグ市長がやったように。ボトルのサイズが小さくなると環境が変わり、自然にコーラが飲む量も少なくなる。

そのように環境をデザインすることは意志の力を節約することであり、合理的な(アタマのいい)人間のやるべきことだ、と。


まことにごもっともなんですが、、、「こんまり」はそうした“アマタのいい話”とはちょっと違います。なにせ、アニミズムでZen的なんだそうだから。

(善とアニミズムは、まったくとは言わないが、かなり違うんだけど)


変わったのが環境というのは、正しいと思います。ただ、環境といっても実は二種類ある。外的なものと内的なもの。

“内的環境”は言語矛盾のようですが、この言葉で指し示されるなにものかを人間は連想することができます。ということは、実存する。

ヒースが注目しているのは外部環境です。
注目の範囲において、それは正しい。
「正しい」以外のなにものでもない。
以上でも、以下でもない。

一方でこんまりさんの記事から連想されるのは、「正しい」以上の何ものか。すなわち「神秘」という言葉で指し示されている何ものか。

そうした言葉を使いたくなるのは外的環境のみならず、内的環境も変化しているからです


まとめるとこうです。

意志の力を節約する方法には2種類あって、(理性的に)1つは外部環境を整える正しい方法。

もうひとつは人間の内的環境を整える神秘的な方法。

どちらの方法も、達成すれば喜び(Joy)はあるでしょう。ただ、同じではない。

前者の方法では “Get Joy” とするのがふさわしい。
後者はもちろん “Spark Joy” でしょう、おそらく。



肥満対策の話を、さらに我田引水しつつ進めます。

Joy を Spark させる方向性でダイエットをするにはどうしたらいいか。

「痩せてスッキリスマートになりたいからダイエットをする」は動機からしてすでに“Get Joy”を向いています。もちろん、それがダメなわけではないので、そうしたい人はそうすればいい。その動機に向いた方法論、つまりは理性的な方法で。


食べる悦び(「喜び」ではなく)を識る(「知る」ではなく)には、方法はたったひとつしかありません。「本当の空腹」を識ることです。

「本当の空腹」は、普通に感じられる空腹感ではありません。

人間の身体には血中の糖度を計測しているところがあって、ある程度以下に血糖値が下がった場合に空腹感を催させる仕組みになっています。

「本当の空腹」とは、それではない。

血糖値が下がっても食べないでいると、人体は、そのような時のために蓄えておいた脂肪の分解を始めてエネルギーを必要としている各部位に供給しようとします。

さらに進めば、次は、エネルギーの消費を節約しようとする。食料供給が断たれた場合にまずどこを止めるかというと消化器官です。消化するべき食べ物がないのですから、ここを止めるのは非常に合理的。

「本当の空腹」が感じられるのは、消化器官が止まったとき。


実は、消化器官が止まってしまうと、空腹は感じません。これはぼくの経験上。何か頼りないような感触はあっても、さほど苦痛ではない。止まってしまえば、わりと平穏です。

ただ、止まるまでとは苦痛です。それから、止まっても周期的に再起動しようとする消化器官の企てが起きるとき。止まっておとなしくしているときは感じないけれど、起き上がろうとすると苦痛に近いような空腹感があります。さほど長くは続きませんが。

消化器官が止まっているときは、となりで他人が食べていても案外平気だったりする。消化器官が止まると空腹を感じるスイッチも切れるのではないかと。

もっとも、さらに空腹が進めば、となりで食べられても平気とはいかないかもしれません。エネルギーの節約が消化器官の停止程度で済むならまだしも、ほかの部位のエネルギーも節約しなければならない状況にまで陥ると、常に苦痛を感じるような状態になるかもしれないし、「本当の空腹」とはそうした状態を指すべきものかもしれませんが、幸いにして、ぼくもそこまでは体験したことはありません。


食べる悦びの Spark は、停止した消化器官が再起動するときのもの(だと思います)。それは再生であり、リセットです。

実際、消化器官の再起動は感覚のリセットでもある。
ことに味覚、嗅覚。

この再起動感覚を一度識ると、リセット感を味わいたいがために断食をするという動機が生まれるようになります。

痩せたい美しく見せたいといったような願望とは、異質な動機。


「本当の空腹を識る」ことが内的環境を整えることになる(と考える)のは、外形的な効果としては外部環境を整えることに依存しなくても済むようになること。

内的には空腹感の経過の仕方を把握しているので、辛抱するのが楽になるというのもあります。この「楽」がすなわち「意志の節約」ですが、主観的には節約という感じではない。むしろ「意志のドーピング」と表現したいくらい。空腹であることを愉しんでいる自分がいる、という感じです。


というわけで断食をオススメするわけですが、

初回はなかなか辛いものがあるし、変にガンバッテしまって「やせ我慢」になってしまうとリセット感覚を捉え損ねる可能性もあります。そうなっては骨折り損というもの。

そうならないために、また初回のハードルを下げるために、外的環境の変化は利用する価値があります(今回は詳説しませんが)。



話をもう一度、こんまりさんのところへ戻しますと、

一方のこんまりさんの番組は、ただ、家を片づけるだけではなく、それによって、家族との絆や時間、自分らしさを自ら取り戻すという、一種の「精神セラピー治療」的な側面も、人気の一因となっている。

外部環境の整備(片づけ)が内的環境(絆、自分らしさ)にまで至ると、人間はインセンティブのあり方が逆転します。規律的なものから内発的なものへと変化する。

人間という生き物(に限らず)内発的な動機から自身が備えている能力を発揮することが〈しあわせ〉なのだというのがぼくの考えですが、それは、山田スイッチさんがいうところの「本当の自分を識っている」ということでもあるのではないかと思っています。

逆に、規律的に能力を発揮しなければならない状態は人間にとっては本来は苦痛で、その苦痛を紛らわせるためにドーパミンといったような脳内麻薬を分泌させるような【成功(Get Joy)】が欲求されるようになる。

“Spark Joy”は、セロトニンの方でしょう、たぶん。

文明的・都市的な環境は、直線に満ちた視覚的な外部環境から非常に規律的です。そうした環境で生きていると、人間は規律的にならざるをえない。が、それは、ホモ・サピエンスの本来の生き方ではない、かなり無理をした生き方なんだと思います。

だから、多くの人が自然に不機嫌になっていってしまう。文明社会のなかで【成功(Get Joy)】を果たした人だけが上機嫌なふりをすることができるが、それは麻薬のようなものですから、その欲求には抑制が効きづらい。


ヒースの『啓蒙主義2・0』は、効きづらい抑制をなんとか(理性的に)効かせようという主張ですが、それはどうも、無理にムリを重ねるような話に思えます。

それよりも、こんまりさんのような方法論ではないかとおもうわけです。といって、記事を読んだだけで内容は知らないのですが(笑)。



感じるままに。