〈物語〉の復興

昨日、このような記事を目にしました。


コンビニオーナーの死亡率が通常残業者の3倍――

さもありなん、というのがぼくの実感覚です。


ぼくが昨年までコンビニ働いていたというのは以前記した通りですが、まだ書いていないこともあります。今は足を洗いましたが最盛期(?)は、コンビニの「掛け持ち」をしていました。

セブンとローソンで同時に働いていたりした。セブンではオーナー店と直営店を掛け持ちしたり。ファミマでも働いて「三股」もしてみたかったのですが、それはさすがに時間がなくて出来ませんでした(笑)


というようなわけでコンビニオーナーを実際に何人か知っているわけですが、みなさん、頑張りすぎていると感じます。そしてオーナーのご家族も。

コンビニのFCは夫婦で経営することが条件になっていますが、ぼくの見た範囲ではオーナーの奥さんは、みなみな不機嫌です。直営店でいると本部社員と接する機会があるので、それとなく聴取してみたりもするのですが、奥さんが不機嫌という傾向はコンビニオーナー夫妻にどうやら謙虚なようで。


度を超えた激務が人間を(心を)蝕まれていくのは誰もが実感しているところでしょう。蝕まれた者は、ともに暮らすやともに働く者も蝕んでいく。

人間は、どうあっても人間同士つながります。だから〈しあわせ〉は伝染していく。と同時に【不機嫌】も伝染していく。


「しあわせ」の対義語は「ふしあわせ」ではありません。
「しあわせ」の対義語は「ふきげん」です。

だから、どれほど経済的に恵まれていても(「成功」)していても、不機嫌ならば〈しあわせ〉とはいえない。逆にたとえどれほど貧しくても、上機嫌で生きていられるなら〈しあわせ〉だと言える。


ストーリーを紡ぐ才能に長けた人なら、貧しくてもしあわせな〈物語〉を語ることができるでしょうし、そのような〈しあわせ〉な物語を語ること自体、きっと〈しあわせ〉なことでしょう。

逆に、成功しても【不機嫌】な物語だって書くことができるはずですが、そうした【物語】を書くことはあまり心地が良くないはず。心地よくないことをどうやったら〈しあわせ〉へと変換できるのか。

〈しあわせ〉を求めずにはいられないのが人間であるはずです。


なのに、現実はそうはならない。
なぜか。

【分断】されているからです。

ぼくには物語を紡ぐ才能はないけれど、その分、人間を実際に暮らし、眺めているという自負があります。それも【分断】された人たちと。


【分断】されている人たちは、【分断】しようとしてきます。


コンビニで毎日大量の廃棄が出ることはご存知だと思います。

一日数回、ベンダーから商品が搬入されてきて、お客さんに購入してもらうように陳列をします。売れたら棚に空きができるので、それを並べ直す。お客さんの目について、少しでも買ってもらうことができるように。

ここまではいい。

商品は、時間がくれば廃棄しなければならない。

これは仕方がない。
仕方がないけれど、上機嫌ではできません。人間だから。



仕方がない。
不機嫌になっても仕方がない。

この「仕方がない」はどういうことか。

不機嫌になってもOKという意味なのか。
不機嫌になっても意味がないという意味なのか。

人間だったら、後者でしょう。
それはいい。

けれど、ここで生まれるのが【分断】です。
切り離さないといけない。
不機嫌な身体と、自身を「自身である」と思い為している心とを。


本当に切り離すことができるわけがない。
人間なんだから。
人間にできるのはせいぜい「不機嫌でない振り」をするだけのこと。


「成功」というのは、「不機嫌でない振り」がやりやすいという状態に過ぎません。

だから、自分が「不機嫌でない振り」をしていることに気がつきたくない人間は死に物狂いで「成功」を求める。

そうやって「成功」を求める姿勢が【大人】であるということ。

【大人】であるということは、【分断】を自身の「ライフスタイル」として受け入れるということです。


商品を、本部を設けさせるために、本部との契約を維持して自身の収入をえるためは「仕方がない」として廃棄するその心と、

同じ職場で同じ仕事を働いているのに、身分で(正社員/契約社員)で報酬が異なることを「仕方ない」とする心は、

同じです。

それを強いる者も、強いられる者も、【分断】されている。


「物語」を紡ぐ者なら、問うことでしょう。

その【分断】は、あなたが求めたことなのか?


人間なら問わずにはいられないし、問うならばもはや哲学です。なぜなら、求めていないはずのことを「仕方がない」と受け入れざるをえないその理由を問うのだから。


ぼくの結論はこうです。
それは、

【分断】を自身の「ライフスタイル」として受け入れないと、生きていけないから。そのような「ライフスタイル」を生む生活環境を作り上げてしまったから。


コンビニが失われた20年の象徴というのは正しい。けれどそれは矮小化された結論でしかないと思います。意地悪な言い方を敢えてするなら、経済学者や弁護士たちの「ポジショントーク」です。

「コンビニが失われた20年の象徴」という「物語」の消費です。


消費される「物語」は〈物語〉ではありません。

物語を語る人は、おそらく物語を語っている最中が最も〈しあわせ〉でしょう。なぜなら、物語の中で生きているから。その中で

〈生きている〉ということが〈物語〉です。
人生がそうであるように。

〈物語〉を自身から切り離した瞬間から、「物語」は消費される【物語】へと変質し、消費することができる対象になる。

だから金銭で売買ができる。
そして、自分の人生(の一部)を金銭で売買できるようになり、【分断】を自身の「ライフスタイル」として受け入れなければ生きていけなくなる。そうやって、自身を生かす【システム】を(心ならずも)必要とするようになる。


ミシェル・フーコーが言った「生権力」いうやつです。

感じるままに。