『みんなの学校』
昨日は映画を鑑賞しに出かけてきました。久しぶりに。
ぼくが暮らしている富士吉田市には映画館はありません。映画館は映画を観るところですが、映画は映画館で観るとは限らないし、映画を見に出かけていくとしても映画館とは限らない。
訪れた場所は、国立市の市民会館。そこが映画の上映会上だったから。自主上映というやつです。
前々から見てみたい、見なければならないと思っていた課題がやっと果たせました。
自主上映という「興行」形式で取り上げられる映画として一番人気だという噂も聞いています。
以下、感想文。
まず何より、距離が近い。大人(教師)と子ども(児童)の距離が近い。心理的に近いであろうということはタイトル等々から予想はつくけれど、映像を見てみると、実際的に、身体的に距離が近い。
もともと、子どもという生き物は距離が近い生き物です。「パーソナルスペース」という概念でいうと、「個体距離(相手の表情が読み取れる空間)」が子どもの標準の距離感でしょう。それが成長して(性的にも)成熟していくと「社会距離(相手に手は届きづらいが、容易に会話ができる空間)」へと距離感が変化していく。
動物としてのヒトとしては、自然な変化です。
学校という社会的な空間でも「ヒトとしての自然」は当然働きます。なので、子ども同士、大人同士、子どもと大人とでは、それぞれ「距離」が違うのが普通になる。小学生あたりでは子ども(児童)は大人に対して無意識のうちに身体距離を縮めていこうとするのだけれど、同時に大人(教師)のほうは無意識に距離を広げようとする。
こうした無意識の距離感の違いは、ある種の緊張感を生みます。「せんせい」ということばの響きの中に漂う微妙な緊張感はこれ。漂い具合は千差万別でしょうけれど。
この緊張感をサブカル的に表現すると、
「ATフィールド」です(笑)
ところが「みんなの学校」では、ATフィールドが機能していないんです。先生と生徒という属性は変わりませんから、関係性に上下はあります。でも、距離感は「子どもの距離」。大人が大人の距離を取ろうとせず、子ども距離へと寄り添っている。実際に、身体的に。
大空小学校では、「アンチATフィールド」が作動しています。その発生源は一目瞭然。校長先生です。
「ふつうの学校」なら、校長こそ強固な「ATフィールド」で守られている存在でしょうけれど。それが反転している。
ドキュメンタリーの最初の方で、大空小学校に新任の教師が戸惑う様子が映し出されています。ベテランの教師でも大空小学校では戸惑う、と。
さもあらん。「みんなの学校」では、ある面で大人を棄てることを要求される。「大人の距離(社会距離)」ではなく「子ども距離(個体距離)」で接することが要求される。
いや、「要求」というのは違うかな。
木村泰子校長がやって見せて、同じようにやろうとすると、どうしてもその距離にならないといけない。具体的にそこを要求されているわけではないのに、言葉で表現される要求となっているのは別のことなのに、言葉上の要求に応えようとすると自然に身体(距離)が相応しいものになっていって、結果、言葉上の要求に応えられるようになっていく。
これこそ〈学習〉と呼ぶべきものです。
身体が作る関係性が変化していくことが。
関係性の変化によって、自身のありようが変化していくことが。
知識を頭に叩き込んで、その知識に沿って身体をコントロールすることを、〈学習〉と呼ぶのは相応しくない。それは【勉強】というべきもの。
『みんなの学校』というドキュメンタリーは、ドラマ性が希薄です。もともとドキュメンタリーはフィクションよりもドラマ性は薄くなりがちですが、それでも編集者はなんとかドラマ性を盛り上げようとするもの。
ドラマは人間の大好物だから。
当ドキュメンタリーは、そうしたドラマ性を受け付けないような性質のものです。
ドラマというものの快楽は、乱暴に言ってしまえば「距離が一気に縮まる」ところにある。遠い距離、遠ざかってしまった距離が、紆余曲折あってあるとき一気に縮まる。縮まったことで好ましい結果がもたらされればハッピーエンドだし、そうでなければバッドエンドだけど、いずれにしても「距離の接近」がなければドラマにはなりません。
『みんなの学校』には「距離が縮まる」というシーンがない。はじめから距離が近いから。ドラマになりようがない。
ドラマにはならないけれども、結果でます。それが
ということです。当ドキュメンタリーの言い方ならば、「みんなの学校をみんなで作る」。社会なんて、条件が整えば自然にできていくもの。
ただ、勘違いしていはいけないのは、自然は優しいものではない。むしろ剣呑なところだということです。距離が近くなると、互いに剣を呑み込み合うようにしてやっていかないと関係性は構築できないということ。
発達障害の傾向の強い子どもは、平均的な発達の子どもからすれば「剣」のようなものだと言えるでしょう。「剣」だったはずのものが呑み込まれているうちに、練れていく。
「練れる」とは、別の作品の表現を借りると、こうです。
王蟲にとって「大海嘯」は破滅の場ではなく、〈練り合い〉の場。「みんなの学校」もまさにそう。
『みんなの学校』が示している(とぼくが思う)のは、〈練り合い〉の条件は「個体距離」であるということ。個体距離の中の上位の存在――子どもにとって大人――はその距離を保っているというだけで「安全基地」として機能する。愛着理論でいうところの安全基地です。
子どもは安全基地のなかで剣呑な〈練り合い〉をする能力を身につける。そうやって身につける能力が、社会を機能させていく。
というようなわけで、『みんなの学校』はオススメです。ロードショウと上映形式が違うので、普通に映画を見るという感覚では出合えませんが、かえって息長く続けられているので、探せば機会は見つかるだろうと思います。
小学校や子どもになど興味はないと思われる方も、是非。自分と向き合う良い機会になると思います。
近しい距離の中で繰り広げられる「剣呑」を眺めて、自身の身体がどのように反応するのか。自身の反応を知ることは、自分が「今、居る場所」を知ることです。
もしかしたら、子どもと大人が繰り広げる近しく剣呑な日常に、車酔いをするかのような気分の悪さを感じるかも知れない。もしそうなら、「近しい関係」が危険なものとして身体に刷り込まれてしまっているということ。安全基地であるはずの場所が、安全基地として機能しなかった環境で暮らさざるをえなかったということ(かもしれません)。
感じるままに。