noteは故郷たりえるか

noteがまたひとつ、やってくれました。

試験的にということだそうですが。


先日から続けている〈物語〉についての話の流れで、noteの仕様について、ちょうどそんなようなことを語ろうと思っていたので、ぼく的にジャスト・タイミング!な発表でした。話を始めるきっかけになってくれるだけでもありがたい。


ちなみにぼく自身は、他の方がどのような記事に「スキ」をつけているかについては関心がありません。「私はこんな記事にスキをつけています!」といった記事がタイムラインに出てくれば読みますし、その記事に「スキ」をつける可能性は高いですが、こちらから敢えて他人様の「スキ」を探りに行きたいとは思いません。

といって、自分の「スキ」を隠す必要があるとも感じませんが。あってもなくてもいいけれど、あっても不思議ではない、存在することそのものは自然なことと思います。noteが自らミッションとして掲げていることからすれば、道理に適っていると思う。


それは、ぼくの言い方で言わせていただければ、〈物語〉をつなぐ。

“物語”を〈物語〉と表記するのには理由があります。〈物語〉とはひとつひとつ独立した「物語」を指すのではありません。自立してはいるが、つながっていく性質を持ったものという意味で“〈 〉”の表記を使っている。人間がそうであるように、「物語」もまた自立し、かつ、つながっていくことができる。

「スキ」をつけるというのは「つなぐこと」、すなわち〈物語〉だと思います。〈物語〉は、閲覧するかどうかはそれぞれの意志でしょうけれど、閲覧できる状態にあるということは、〈物語〉として認知されているということになると考えます。


そう考えるなら、では、有料記事の購入や投げ銭、サポートについてはどうなのかという疑問が湧いてきます。

ぼくが提示しようと思っていたこと、「〈物語〉を断ち切るもの」として具体的に記そうと思っていたこと、タイムリーにもnoteがきっかけを提供してくれたこと。それは、noteでお金が絡んでくること。

noteはお金のやり取りができる仕様になっているのに、お金のやりとりそのものは公開される仕様にはなっていません。このギャップは、現代人の感覚からすればあって然るべき常識的なことですけれど、ゆえにこそ哲学的に考えてみる価値があると思うわけです。



noteの運営は今回、試験的に特定のnoterがつけた「スキ」の一覧を公開する仕様をnoteに施しました。記事については、どのnoterから「スキ」がつけられたのかは、すでに一覧できるようになっています。

一方で、記事が購入された、投げ銭があった、サポートがあったという情報、もしくは特定のnoterがそれらの経済行為を行ったという情報を公開する仕様はまったく存在しない。

単なる情報ということであるなら、「スキ」も「お金」も同じことです。「スキ」の一覧を公開するなら、同じように、金銭のやり取りの一覧も公開できるし、しない理由はない。noteが謳うクリエイターのクリエイティビティを涵養するという目的からも外れるものでもありません。むしろ「スキ」を公開するよりも金銭のやり取りを公開したほうが、noteのミッションからしても、またnoteの収益からしても、より目的に沿うのではないかと考えられる。

なんと言っても「スキ」をつけてもらうことよりお金をもらうことの方が嬉しいのだし、そのことを目的にnoteをやっている人だって少なからず存在するはずなのだから。


noteの運営は試験的に行った「スキ」の一覧公開の次の段階として、金銭のやり取りも公開することを考えているかもしれません。試験結果が良好なら次のステップへ、というわけです。

もっとも、お金については公開することをまったく考えていない可能性も高い。いずれにしても、note運営は、「スキ」と「お金」を同一には扱えないと考えていることに間違いはないし、その感覚はぼくたちユーザーの感覚とも一致します。

「お金」は単なる情報ではないということです。


〈物語〉というものも、とどのつまりは情報です。「スキ」や「お金」よりはずっと情報量が大きく複雑なもの。ぼくが「スキ」に関心がないのは、単純な情報だからの一言に尽きます。それはお金についても同様です。もしお金についての情報が公開される仕様になったとしても、「スキ」と同様に、ぼくから積極的に閲覧に行こうとはしないと思います。

ぼくの関心はただ一点、「お金」は単なる情報ではないということ。単純でかつ単なる情報でないがゆえに、複雑な情報からなる〈物語〉を断ち切ってしまう作用があるということ。その切断作用はあまりにも強力で、〈物語〉はそこかしこで分断され、複雑なはずの人間を【単純もの】へと変質させて行ってしまいます。


前記事で取り上げた『北の国から』の「泥のついたピン札」は、「分断された物語」の端的な一例です。このエピソードにおいて留意しておかなければならないのは、分断したのは純その人であり、美談の主の運転手もまた分断を唆しているということ。自ら分断したために、それは単なるお金として奪われることになってしまったということです。

もし、2万円を強奪した純の先輩が(ぼくたち視聴者と同じように)「泥」に込められた〈物語〉を知っていたなら、果たしてどうなっていたか。視聴者は知っていて、強奪した人間は知らないという情報の非対称が、独立し閉じた【物語】となっているのが『北の国から』でもあります。だからこそ、視聴者であるぼくたちは、安心して(リアルな自分とは関わりのないフィクションとして)ドラマを楽しむことができる。

「スキ」もリアルな自分と関わりないという意味では似たようなものです。が、お金になればリアルな自分と密接に関わりを持ってくる。お金が単なる情報ではないのは、リアルな自分との密接な関わりがあるからに他なりません。

もし仮にnoteが、お金についての情報を公開できる仕様を実装したとしても「スキ」と同様に行かないことは誰にも容易に予想がつきます。公開・非公開の選択において、非公開を選択する人間は「スキ」よりも圧倒的に多くなることが予想されるし、「スキ」をつけられたことについては何の抵抗もなく受け容れたクリエーターも、自分たちにも選択肢を与えるように運営に苦情を申し入れるでしょう。そしてこれまた多くの者が非公開を選択する。

誰もが純と同じように分断する方を選択するだろうし、それが当然だと思っているはずです。

そうした選択にもちろん悪意はありません。だから批判すべきことではない。それは常識に過ぎない。単純な情報しか伝達しえなかった過去から積み重なってきた歴史が醸した常識です。それは単純に考えて、従うべきもの。

ただ、歴史的な常識だからといって、それがホモ・サピエンスのアルゴリズムに従っているかどうかは別問題です。



「スキ」をつけることを合理的――自らのクリエーションにも「スキ」をつけてもらい、フォロワーを増やすこと――に考えるならば、何も考えずに片っ端から「スキ」をつけるのが効率的です。「スキ」もまた単純な情報ですから、こちらが何を考えて「スキ」をつけたかは相手には伝わりません。何も考えていなくても、「スキ」は好意的な情報ですから、相手も好意的な反応を返してきてくれる可能性が高い。

そうアタマでは理解しても、心が許さないのが人間というものでしょう。人間はそんなに単純になれない。機械に徹するのは複雑な人間にとっては非常に大きな苦痛です。人間は、読んで、聞いて、味わい、考えて「スキ」をつけたい。人間への信頼がなければnoteのミッションにも意味はありません。

同様のことは、お金についても起こります。行動経済学で頻繁に持ち出される最後通牒ゲームというのが典型的な例です。

二人一組のうちの一人にまとまったお金を渡し、そのお金を思うがままに分配してよいと告げる。お金を受け取った者にとってもっとも合理的な選択は全額自分のものにするということだし、その権利を与えられたわけだけれど、合理的な選択をする人間はきわめて稀であることが実験から知られています。多くの人間は平等に分配、あるいは少し自分の取り分を大きくする程度の分配を選択するといいます。

「スキ」についての人間一般の振る舞いと「お金」についての振る舞いは、必ずしも合理的でないというところでは共通しています。


大きな違いもあります。おそらく最も異なるのは、「スキ」をつけるときと、お金を支払う時の心理の違い。こころの負担の違い。どちらも相手には喜ばれるとはわかっている点では同じで、それゆえ人間は不合理に振る舞うわけですが、リアルに密接に関連しているという点が「スキ」とお金ではまったく異なるので、それに応じて心理的な負担も大きく異なります。

この心理的負担が、お金の情報については開示を拒む原因になっていることは誰でも想像がつくでしょう。「自分のもの」「自分を守るもの」という感覚。不安の感覚です。

つまり、お金という単純なものによって、複雑なはずのぼくたち人間は不安に駆られ、お金を不安の下支えとしているということです。それは、上に記したように歴史的な常識ではあっても、複雑なはずの人間にとってはアルゴリズムと合致しない不自然で不安定な状態だと言わざるを得ません。

不安だからこそ余計にそこへしがみつく。精神分析でいうところ「依存」状態です。お金への依存が、お金についての情報開示を拒む原因になる。歴史的に、人間はそんなふうになってしまっているということです。


「スキ」の開示がクリエーターのクリエイティビティを促進するなら、お金についても同様かそれ以上の効果が期待できます。ただし、お金であっても「スキ」ときのようにちょっとした前向きの気持ちでできるならば。

お金はお金である以上、それはできない相談である――と、ぼくは考えていません。繰り返し述べているように。「スキ」をつけるのに近い感覚で他者を気軽にサポートすることができ、なおかつリアルな自分と密接に関わりをもつお金に近い情報。それは〈物語〉を繋いでいく複雑な情報でしょう。

現代社会は昔とは違って、複雑で容量の大きなデータを瞬時に遠方へ伝達することができるようになっています。ということは、「スキ」と「お金」の両方の性質を備えた〈物語〉の伝達が技術的には可能になっているということ。実現の可能性を阻むのは、技術ではなくて、ぼくたち自身のマインドです。お金についての情報は非公開であるのが当然だとしてしまう、貨幣メカニズムに適応してしまった歴史的常識。


ぼくたちは、歴史的な常識といえどひっくり返すことは不可能でないことをすでに知っています。そうした革新のことをイノベーションと言うのだということも知っている。イノベーションが起これば常識が変わり、新しい常識が誕生することを知っています。

また、お金についても、新しい動きが生じていることも知っている。同時に、お金の古い体制の有効期限が切れつつあることも感じてもいます。


noteは、クリエイティビティの発露を促す先進的なプラットフォームだと思っています。もこ侍さんがnoteは現代のアゴラだという仰っていますが、

同意できるところは大きい。古代ギリシャのアゴラは、同時に市場の役割を果たしていましたが、その面においてもnoteは機能していると言えると思います。

ただ、市場のあり方は、さすがに古代のそれとは違うしても、「現代の」というには憚りがある。知的議論の行なわれる場所という面においては「現代の」というのはその通りだと思いますが、知的な議論だけで人間は生きていけるわけではないし、歴史を顧みるならば、知的な議論が必ずしも善き結果をもたらしたとは限らない。リアルな暮らしを蔑ろにした知的遊戯は、むしろ社会を空洞化させていったというのが歴史の示すところです。

クリエイティビティについても同じことが言える。暮らしに背を向けた創造は、一時的に人間の癒やしにはなったとしても、やがて潰えていくというのが歴史の流れ。それは所詮は一部の限られた人たちのものでしかない。

古代ギリシャのアゴラは、市民の資格を持つ一部の限られた者たちのものだったでしょうが、そうした意味で「現代のアゴラ」ではないでしょう。


古代ギリシャの人たちにとって、アゴラは故郷でもあったことと想像します。そこには知的な議論とともにリアルな暮らしもあった。ゆえにこそ、精神的な中心地であったのだろうと思います。

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愚慫

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