見出し画像

野望

ぼくは野望を抱えています。
身のほどを大きく越えた、不届きな願望を。


ぼくが野望を抱くようになったの樵として暮らし始めた頃でした。

その頃は、インターネットが広く普及し始めた時代でした。ADSLの登場で従来のアナログ電話回線でも高速通信が可能になり、ストレスなく大容量の画像や動画を閲覧できるようになった。ブログなども整備されて、多くの人が発信をし始めた。

当時ぼくが暮らしていた過疎地域でも、その流れは強いものでした。行政の後押しがあって、高速インターネット回線が整備された。ケーブルTVの普及と併せて、光回線が張りめぐらされた。

ぼくも、そうした流れに乗っかった大勢の中のひとりでした。


仕事の方では間伐という作業に携わることが多かった。林の中に入り、木を間引きする仕事です。樹齢が30年を越えるともう立派な木でしたが、それらも間引きをした。伐り倒した木はそのまま林の中へ打ち捨ててきました。


書くこと、すなわち、自身の裡に湧き上がった「何ごとか」を言語にして表現することには、大きな効用があります。

間伐で立派な木を打ち捨ててくるというのは、そのことに慣れた者にとっては、なんでもないことでした。ですが、まだ慣れない初心者からしてみれば、カルチャーショックです。危険を伴う作業をして、その成果を捨ててくるのですから。

間伐する理由をアタマでは理解することはできても、はい、そうですかと簡単に腑に落ちるものではありません。そのことをブログを通じて発信するようになった。「書くこと」によって初心がぼく自身の基盤になった。

ブログがなければ、ぼくはおそらく、日々の作業のなかで初心を忘れ、木を伐り捨てることに対して「感じること」を心の深いところへ埋めてしまっていたことでしょう。


基盤ができれば、疑問が生まれます。なぜ、木は伐り捨てられなければならないのか?

長く林業に携わっているベテランに聞けば、以前は必ずしも伐り捨てるものではなかった。地元の林業家に聞けば、昔は間伐材も十分な価格で売ることができ、労力を掛けて搬出しても勘定にあった。

立派な木が伐り捨てられなければならない理由は経済にありました。銭勘定に合わない。単純明快な理由でした。

それ以来、ぼくは経済に関心を持つようになりました。



勘定に合わないものを合わせるようにするには、大きく二つの方法論があります。

ひとつは技術開発です。技術でコストを抑えることができるようになれば勘定が合うようになる。ほとんどの経済人(ホモ・エコノミクス)は、こちらの考え方を採用するであろう、主流の思考です。

もうひとつは、経済環境の改善です。

地元の林業家たちがしばしば口にする言葉に、「せめて材価が倍になれば...」というのがありました。ぼくは最初、その言葉に呆れていました。「せめて、倍」だなんて、どれだけ世の中とズレているんだろう。

が、ぼく自身も山のなかでの仕事を続けているうちに、最初は呆れていた言葉が至極真っ当なものに感じられてくるようになってきた。確かに世の中の基準とはズレている。けれど、木は太古の昔からずっと同じ。


木は何十年も先を見越して植えられます。農業は一年周期が主流ですが、林業は50年単位。木を植える者は孫の世代のことを考えて植える。こうした人間の「想い」もまた綿々と受け継がれてきたもの。

それを一時の経済の変化が台無しにしてしまう。経済の変化が人々の暮らしの基盤を、経済的にも精神的にも崩してしまう――山奥で暮らしを営みながら、危惧を募らせていくようになりました。



自然というものは、優しいものでも厳しいものでもありません。温かいものでもなければ、冷たいものでもありません。時に優しく、時に冷たく。自然は、言葉通りに「あるようにある」ものです。

そうした自然を前にすると、人というものは温かく優しくなる。自然が優しいのではなく、人が優しい自然が暖かいのではなく、人が温かい

人間が優しく暖かいのは、アルゴリズムです。そのように生まれ、そのように生きることで自然のなかを生き抜いてきた。自然は優しさや暖かさのアルゴリズムを機能させる環境条件です。

一方で、ホモ・サピエンスのアルゴリズムは、環境条件が違えば異なった発動の仕方をします。とある環境の下で人間は、自然な感情を押し殺した冷たい生き物になってしまいます。そうしないと、その環境条件下では生き残ることができないからです。


人間には自然とは異なった社会環境を築き上げる能力を備わっています。人類はその能力を発揮して文明を発展させてきました。

けれど、そうやって築いた社会環境は、ホモ・サピエンスが持ち合わせているアルゴリズムと整合するものではありませんでした。人間が作り上げる社会は有機的な生命体ですが、それはホモ・サピエンスのアルゴリズムとは違ったメカニズムを持っている

そして、もう一つ。ホモ・サピエンスにはメカニズムに適応する能力もあります。メカニズムへの適応を果たすことで、ホモ・サピエンスは「人間」へと【成長】します

そうやって生まれた【人間】は、冷たい生き物になります。そうなった方が有利だから。自然環境下では不利になることが人工の環境下では有利になる。ホモ・サピエンスは環境に合わせて変化することができる。



ぼくの野望は、山で木が伐り捨てられることなく、活かされる社会環境を創ることです。樵を辞めてしまっているので、もはや妄想の類いではあるのですが、書くことを通じて培ってきた想いは変わりません。

そうした環境は、人の優しさや暖かさを引き出す環境でもあります。自然環境がそうであるように。社会環境もまたそうであって欲しいと願う。と同時に、現在なら実現可能だとも考えています。


優しく温かい人間になることは、現在の社会環境のなかでも可能です。その努力は尊いものだし、認め合うべきもの。

ただ、ぼくにはそちらの方法は、「技術開発」の方向性だと感じられています。

人間はより発展して、すなわち自己啓発をして、より有用な存在になることができる。現在社会では優しく温かな人間には大きな需要があるので、その需要に応えるよう努力をしよう。

たいへんに「立派」なことだと思います。


けれど、社会環境が人間の優しさと暖かさを引き出すことができるようになったなら、人間は優しくなろうと個人的に努力をする必要から解放されることになるでしょう。社会に適応していきさえすれば、ホモ・サピエンスとして持ち合わせたアルゴリズムに従って、自ずから優しく温かくなる。取り当てて「立派」な人にならなくても、「ふつう」で優しく温かい。

ホモ・サピエンスのアルゴリズム発動を阻害しない社会。優しくもなければ厳しくもなく、温かくもなければ冷たくもない社会。

そんな社会が実現することを夢見ています。


感じるままに。