カデナ(池澤夏樹著)を読んでみたんだ

今回紹介するのは、池澤夏樹さん著「カデナ」。
1968年、ベトナム戦争が激化した年のアメリカ占領下の沖縄で、スパイ活動をすることになったフリーダと、朝栄、タカの三人。

主にフリーダの語りと朝栄の語りを主軸に物語は進む。
アメリカ人の父とフィリピン人の母を持つフリーダは、アメリカ空軍の曹長。凛とした中にもどこか二十代女性らしさを残した語り口で、アメリカの豊かさに包まれた基地の中の恩恵や母の血からかふらりと寄るコザのフィリピン人の営む食品店等が描かれます。自分たち母娘を裏切った父の国アメリカに少しばかり吠え面かかせたいとばかりに始めるスパイ活動(米軍の出撃状況を北ベトナムに横流しする)のくだりさえなければ、アメリカ兵の視点で描かれた沖縄の想い出語りを読んでいるように文体が淡いのです。それにより、フリーダの葛藤や欺いた中で見つけた恋とその行方の熱さが際立ちます。
対して、かつて日本領だったサイパンで生まれ育つものの、太平洋戦争で父と母と兄を失い、父と母の故郷である沖縄に引き揚げ、模型屋を営む朝栄。その穏やかな語りはサイパンであまりにも多くの死を見、戦争や国の大義名分で翻弄され、自身も死に直面したからなのかあまりにも俯瞰の視点で語られ、凪の海のように穏やかな文体からサイパンでの出来事でどこかが壊死した朝栄の心が垣間見られます。だからでしょうか、恩人のベトナム人の安南氏からスパイ活動を依頼されて妻への後ろめたさから少し揺れるものの、朝栄は淡々と受け入れています。
この二人の主軸に比べてタカの視点での語りが弱いのですが、基地の中でロックを演奏する傍ら、フリーダと朝栄の仲介役としてスパイ活動をするタカもまた、太平洋戦争の後遺症から自殺という形で母を失った重いバックグラウンドを持ってます。彼の青臭さが小花模様や無地が主軸のパッチワークに少し派手な柄の布をアクセントとして縫い付けたように箸休めとなっています。

多くの人がこのような題材で小説を書く場合、多少のイデオロギーがこぼれ匂うのでしょうが、「カデナ」はまるで良質の海外ジュブナイル小説のような文体で描かれており、68年~73年の沖縄の夏を切り取った青春群像劇を読んでいるようですし、例えるなら、冷やしたグレープフルーツを半分に切って食べた時のような爽快さと心地よいほろ苦さすら感じます。
しかし、終盤の悲劇は間違って皮の部分をかじり、口の中に焼けるような苦味がずっと残った時と同じくらいのひりひりした痛みを与えます。
フリーダが欺いていることへの葛藤で揺れながら愛するエリートパイロットのパトリックの墜落死です。 彼は戦争への心の傷から心を病み、酒に逃げ、性的にも不能になってしまいます。フリーダとパトリックの寄りそうことはできても繋がることができないベッドシーンの優しさともどかしさを幾度となく見せられ、やきもきした挙げ句のよパトリックの快癒、ほほえましいベッドシーン、交わりのあと明るい将来を夢想する二人に心からエールを送りたいと思った矢先のパトリックのあまりにあっけない死は、朝栄、タカ、そしてフリーダ同様に読む我々すらその死にうちひしがれそうになります。
そして、ラストシーンもまた、夏の終わりの青空を網膜に焼き付けて、ぎゅっと目を閉じた時に瞼の奥で澄んだ、けれども物悲しい青色が見えてくるようなそんなラストシーンです。
本を閉じると既に日暮れ、物語の中の夏とシンクロするかのようにちりちりと西陽が部屋に差し込み、ほんの少しばかり涼しい風がそよぎます。
夏の間は思い出したようにまたカデナを読み、フリーダ、朝栄、タカの物語に入り込むのでしょう。
そんな気持ちになる、夏に相応しい沖縄小説なのです。

(文責・コサイミキ)

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