オキナワンロックドリフターvol.100

6人のサインが書かれたLPと、正男さんから頂いたマフラーを抱きしめて私はぽろぽろと泣いた。
夢は叶った。けれど磨耗し、失ったものも多い5年間だった。
結局、私のしたことはなんだったのだろう。
ただの無鉄砲ではないのだろうか。
ファンと名乗って傍若無人に振舞って秩序を乱し、勇気と無謀を履き違えて事態をもっとひどくしているのではないかという疑問がわき上がった。
達成感よりも虚脱感の方が大きかった。
放心したままでぼけーっとしていてるとある用事を思い出した。
オスカーの店、“Luxurious house”に帽子を置き忘れたのだ。しかも、お気に入りの黒のハンチングを!
それを取りに行かないと。早くしないとバスが。
ということでバスに乗り、いざ普天間へ。
バスから降りると普天間にあるビルの最上階にある私が知っている中で最も優しいジャマイカン、オスカーの店へと一目散。
息を切らす私にオスカーは温かいさんぴん茶を出してくれ、「これ忘れてたデショー」と帽子をかざして手渡してくれたた。
オスカーと話すときは英語上達のためになるべく英語で話すようにしていたのだが、この日はまったく頭が廻らなかった。
日本語で、14日と15日の悲惨な出来事の詳細とその夜の会食のことをありていに極力動揺を見せないようにゆっくりと話した。
オスカーは黙って聞いてくれた。
そして言った。
「よくガンバッタね。ツラカッタね。マイキー」
その言葉を聞いたとたんに下地さんのフォロー、正男さんの握手、そして人が変わってしまった俊雄さんの顔がフラッシュバックした。
同時に、私は声を上げて泣いた。叫ぶように泣いた。
泣く私の手にそっと重ねられたオスカーの手が大きく温かかった。
私が泣きそうになると、「泣いちゃダメだよー」と忠告する彼も、その日ばかりはこう言ってくれた。
「泣いていいよ。思い切り泣いて、明日笑えばイイサー」
その言葉に甘えてしばらく涙が乾くまでオスカーの店でゆっくりすることにした。
彼と他愛のない話をしたら少し楽になった。
もう少しゆっくりしたいもののさんぴん茶で粘る私がいたら邪魔だろうし儲けにならない。
そして、帰り際にオスカーにハグされつつ、「マイキーのことだから、トシオとマサオを探すだろう。そうしないようにまっすぐ宿の近くの停留所で降りなサイネ!」とぴしっと言われたのでそうした。実際そうしてしまうのは100%確実なのだから。
さらにオスカーは、「旅が終わって、家に着いたら聴いてね。新しいことで忙しくなるミキのためにセレクトした、気持ちが優しくなるバラード」と、ミックステープならぬミックスCDを私に手渡した。
キルスティン・ダンスト演じる客室乗務員が、色々あって失意のオーランド・ブルームにミックスCDを手渡すそんな映画があったよなあと一瞬思ったが、オスカーの私への労りがひしひし伝わった。私はオスカーから渡されたCDを鞄にしまった。

交通費節約のために、バスでコザに帰った。コザ行きの最終便に乗れたのは幸いだった。しかし、やはり静まり返ったコザの街は無味乾燥で、気が滅入りそうになった。

宿に帰って、横になっても全く眠れなかった。
体は疲れているのに眼はさえたままだった。
せめてもの記念に会食によって達成された戦利品を携帯のカメラで撮った。
カメラで撮ったLPは少しよれていた。よれた理由は以下のとおり。
最初に会った紫メンバー、チビさんに会った日は大雨だった。
そのために濡れてしまいよれてしまったのだ。ずぶ濡れになり、慌ててチェックインした宿のドライヤーで半泣きで乾かしたのも今となっては懐かしい。
そしてサインをもらった順に文字と写真をなぞると遅ればせながらうれしさがこみ上げてきた。
周りからするとくだらないかもしれない。
しかし、それでも、オリジナル紫メンバー6人のサインが記されたファーストアルバムのジャケットは、私の人生で数少ないしっかりと成し遂げたものの証だった。
そう思うと少し誇らしくなり、浅いながらも眠りにつくことができた。
翌日はコザを離れた宿をとっていたのだが、いまだに情緒が安定していないので正解だったと思う。
3月19日と20日に初めてコザ以外のゲストハウスに宿泊予約をし、オーナーと何度もメールでやり取りをした。
ゲストハウスの名はタフ&ココナッツ(現在は閉業)。
ココナッツムーンの姉妹店であったこのゲストハウスは清正さんが実の子のように大事にしている豪気な江戸っ子タフさんと、タフさんの奥様にしてバーテンダー、ミユさんが営むゲストハウスである。
いろいろあって疲弊して、それどころか早く熊本に帰りたいとすら思ってしまっていた私は早く清正さんに会いたいと切に願った。
清正さんに会うと、緊張が解れて安らぐからだ。さながら、干したての毛布に包まったときのように。
コザクラ荘を出て、デイゴホテルの大浴場にて熱い湯につかり、少し肌寒いので、コートを羽織ってバスに乗ることにした。
しかし、手渡さなければならないお土産は多く、それはかなりずしりと重い。ということでタフさんに援護を要請した。
携帯からタフさんののんびりとしたバリトンが聞こえた。
「わかったー。それじゃあコサイさん、安慶名まで来てくれませんか?そこで待ち合わせしましょう」
私は安慶名までバスに乗ることにした。
ぜいぜいと重い荷物を抱え、胡屋バス停から乗り込んた。遠ざかるコザの街を見て、悲しいことに少し疲れが取れた。
9時に具志川は安慶名バス停に到着し、荷物を引きずりながらよろよろ歩きつつ私はタフさんを待った。
それから20分してタフさんの車が到着。
タフさんは、ブログでお顔は拝見していたが、写真よりずっと恰幅がよく、頼れるアニキといった風貌の男性だ。
「電話では何度かやりとりしていたけど、会うのははじめましてですね!」
かなり力の強い握手でタフさんは私を出迎えてくださった。
タフさんと談笑しつつ車は宿にて。

宿は具志川は昆布にあるピンク色のかわいらしい一軒家だった。
幸さんに土産と宿代と観光案内オプション料金を手渡して観光案内の時間まで少しごろりと横になった。

ドミトリーの内装はどことなく、バリ島の宿のようにエキゾチックで、リゾートにいる夢が見られるかもなとクスクスひとりで笑いながら、寝巻き代わりにと国際通りで買ったTシャツとバミューダパンツに着替えて少しごろりと横になった。楽な格好に着替えて横になったからなのか体が楽になっていく。タフさんによる北部観光案内の時間の11時半まで私は眠ろうとしたのだが、着信があった。
見ると、チビさんのマネージャーさんからだった。
そういえば。
今回の沖縄旅行客旅行は長い滞在だからと、私はチビさんのマネージャーさんにメールにて、『鼓響館』でチビさんのライブを観たいけれど大丈夫かと問い合わせたものの、「チビはその時期は離島へ出張だから」と申し訳なさそうに断られた。
それなのに、チビさんのマネージャーさんから着信とは。まさか、コーキー夫妻はチビさんの知り合いで、私のしでかしたことがチビさんたちの耳に入ってきているのではと、そんなネガティブな予想をし、私は青ざめながら電話に出た。
「ミキちゃん、旅楽しんでる?」
私は困惑しながらも「はい」と返した。
すると、「あのね。今夜チビが帰ってくるから、空いている日ある?チビにミキちゃんが沖縄にいると話したら、すごく会いたがっていたよ!」と弾んだ声で仰られ、私は固まった。
どうしよう。スケジュール表代わりのメモ帳を見ると、明日の夜ならあいている。明日は那覇に行って元六人組、今は10行のボーカリストである前にミユキ(現・カリミ)さんに会う予定だけれど、夕方に宿へ帰ってくれば大丈夫だ。
私は「では、明日の夜に。何時頃がいいですか?」と尋ねたところ、20時ならということで予約をした。
やはり私の旅はなにかとせわしなくなる運命のようだ。
私は、せっかく“Rest your wings”という言葉をくださった正男さんに心の中で詫びながら目を閉じ、しばらく眠ることにした。

(オキナワンロックドリフターvol.101へ続く……)

(文責・コサイミキ)

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