オキナワンロックドリフターvol.18

約束がご破算になってもバレンタインチョコレートは贈ろう。
2004年2月。退職まであと十数日というある日、私は俊雄さんにバレンタインチョコレートを送った。
その数日後、仕事が終わり、携帯をチェックすると着信があった。俊雄さんからだった。
いてもたってもいられず、帰り道を歩きながら折り返し電話したところ、電話には俊雄さんが出られた。
予感は的中し、俊雄さんの声は全く覇気がなく、意気消沈しているのが明らかだった。
「ひさしぶり、コサイさん」
俊雄さんは呟くようにおっしゃった。
「お久しぶりです。あの、俊雄さんは大丈夫ですか?」
私が尋ねると、俊雄さんは長い沈黙の後でこう答えられた。
「俺は大丈夫よ。でも、正男がね。まだ本調子じゃなかった。だからいろいろあってね、今はここにはいない。下地も下地でよ、仕事で色々大変みたい。コサイさん、悪いけれど、飲み会中止にできないかな。コサイさんに申し訳ないけれど、あいつのおかげで俺たち今てんてこ舞い。大変よ」
振り絞るように話す俊雄さんは話すたびに深い溜め息をつかれた。これでは飲み会どころではない。私は気丈なふりをして「仕方ないですよ」と答えた。
「今度は大丈夫だと思ったのになあ……」とひとりごちる俊雄さんの脆さと危うさにこちらが溜め息をつきたくなったものの、私は明るく振る舞い、こう返すしかなかった。
「なんくるないさ」と。
しばしの沈黙に用法間違ってないからなとはらはらしたものの、俊雄さんは少し笑ってくださった。
「なんくるないさ……か。うん、そうだね、そうだね」とおっしゃい、バレンタインチョコレートのお礼を続けた。
送ったチョコレートが疲れきった俊雄さんの血肉になりますようにと願いながら、私は電話を切った。
落胆したものの、しばらく旅行なんてできないだろうから2月の旅行はキャンセルしたくはない。そんな矢先に、飲み会があるという前提で誘った沖縄旅行サイトの管理人さんとは、キャンセルが確定した時の私の落胆とウジウジ感に嫌気がさしたのかかなり辛辣な言葉を返され、カチンときた私も彼女に暴言をメールでぶつけてしまい、それが原因で喧嘩別れしてしまった。嫌なことは芋づる式に続いていく。
気を取り直して、滞在中にチビさんのライブはないかな?とチビさんのマネージャーさんにメールしたものの、マネージャーさんからはチビと私はライブの視察のために中国に行くから、沖縄にいないのです。ごめんなさいと返信されてしまい、さらにへこんだ。
どうしようと途方に暮れていたら、滞在するゲストハウスが追加料金を支払うと観光案内をしてくださるそうなのでオプションとして南部半日ツアーと北部一日ツアーをメールで申し込んだ。
そして、給料の〆日である25日まで私はガムシャラに働いた。最後の月は後任の人への引き継ぎ業務もあって、休みは半休ばかりになり、最終日の25日も半休だった。
最終日。午後14時半に遅番の人と交代すると、私は儀礼的にとはいえ職場の方々に挨拶をし、テナント内のクリーニング屋さんに制服のクリーニングをお願いして職場に別れを告げた。
そして、帰り道に、ランチタイム過ぎでも開いていたラーメン屋さんがあり、一人打ち上げとばかりにラーメンを堪能した。
とんこつラーメンを啜りながら私は「お疲れ様」と自分を労った。誰もそんなことをする人がいないのなら私自身だけでも労ってあげたかったからだ。
冷えきった体はラーメンでだいぶ回復した。ネギ油とマー油の臭いのする息を吐きながら、「よし、次の沖縄旅行はのんびりしよう」と決心した。
家に着き、祖母から「お疲れ様」と労いの言葉をもらうと、私は二階にあがり、パソコンでメールチェックをした。
すると、一通のメールがあった。協会の事務局員のマネーペニー女史からである。
「ミキさん。少しは落ち着きましたか?話したいこともあるし、良かったら飲みに行きましょ。貴女の好きなモスコミュールがおいしい店を探しておきます」とメールがあり、驚きから何度もメールを読み返した。せっかくの向こうからの気遣い、それに、マネーペニー女史がどんな人なのかも知りたかった。
30分後、私はマネーペニー女史に「よろしくお願いいたします」と返信した。
27日にはまた沖縄だ。1泊目だけは那覇のホテルで、あとの1週間はコザのゲストハウスに滞在だ。
出発前夜、私は祖母に前倒しで生活費を支払うと、お土産に何がほしいか尋ねてみた。祖母はスパムが気に入ったようで、スパムをできるだけたくさんと無茶苦茶な要求をした。
私は苦笑いしながら、サンエーとかねひでから細々と買ってきてまとめて荷物と一緒に送ろうとあれこれ考えた。初来沖の時、中の町サンエーでお菓子と雑貨以外のお土産を調達して以来、身に付いた知恵だ。
荷物をまとめておく。沖縄なのにバスセットを手土産にした前回の失敗を踏まえ、今回のお土産は食べ物でなおかつかさ張らないものにした。荷物を軽くするためである。
私は着替えと土産とウォークマンを鞄に詰めながら、正男さんはいないし、俊雄さんにも会えないかもしれないけれど旅行が楽しいものになるといいなと強く願った。
そして当日。福岡空港から昼過ぎの便で出発した。前回と違い、スカイマークエアラインを使った格安ツアーでの旅。飛行機が離陸すると色々な疲れからか、私は泥のように眠った。
口を開けて爆睡していたからか、隣の若いカップルに笑われてしまったものの、羞恥心より眠気の方が勝った。
目を覚ますと、那覇空港まであとわずか。窓からは最初の旅行の時に見とれた瑠璃色の海が見えた。
到着し、タラップを降りると、熱を帯びたまとわりつくような湿った風が吹いた。
沖縄にまた来たんだ!と悲しみが癒えていく。私は急いで空港前のバス停留所に……と思いきや、前回の旅行から半年強の間に廃線になった路線バスがいくつかあることが判明。項垂れながら、ゆいレール乗り場へ足を進めた。
引き返す前に、最新のるるぶ沖縄を空港の書店で買い、それを頼りにしてホテルに一番近い駅はどこか調べた。
県庁前駅までの切符を買って、ゆいレールへ。
沖縄民謡が各駅停車のチャイムになっていて、沖縄なんだなあとわけのわからない感慨深さが心を覆った。県庁前駅に降りると、国際通りの喧騒に圧倒された。時間はたっぷりあるからと国際通りを観光した。この頃から流行りだした海人Tシャツが店頭に詰まれたり、芸能人が来店したことをここぞとばかりに宣伝するお土産屋を通ると、8000円以上買うと送料無料を叫ぶように宣伝する店員さんがいて、送料との兼ね合いから、私はそこでスパムと祖父からのリクエストである亀せんべいを買い込んだ。これで、祖父母からのクエストは完了だ。
EMアイスの店で、沖縄にしてはやや濃厚なアイスクリームを食べたり、牧志の公設市場でミキを飲み、その微妙な味に顔をしかめたりした。
ノロノロと観光をしていたら日が暮れた。私は急いで一泊目の宿であるホテルタイラにチェックイン。
お土産屋やキャバクラの呼び込みが窓の外から聞こえるこじんまりした部屋でくつろぎながら、今夜は何にしようと考えた。
手持ちのるるぶ沖縄をめくると、『ライブイン寓話』というジャズを聴かせてくれるライブハウスがあるという。オーナーの屋良文雄さんは名前だけは知っていた。
屋良さんのピアノの音色はどんな音をしているのだろう。
私は着替えるとるるぶ沖縄を手に『ライブイン寓話』に行くことにした……が、方向音痴で道に迷い、タクシーを使うことにした。
当時、久茂地のやや住宅地寄りの場所にあった『ライブイン寓話』はこじんまりした中にも趣味の良い親戚の家に遊びにきたような寛ぎを与えてくれるそんな店だった。

私は、好好爺然とした屋良文雄さんの姿を認めると屋良さんに会釈をした。
屋良さんはまるで遠くからきた親戚の子を歓待するように笑顔で握手をしてくださった。 細くしなやかな指がとても印象的だった。
お腹がすいてきたので、ゴーヤーチャンプルー定食をオーダー。『寓話』は、メニューが絵本にマジックで書かれていて、ついつい絵本を夢中で読みふけりそうになり、厨房担当の屋良さんの息子さんに「他の人にメニューを渡したいから返そうねー」とたしなめられた。
しゅんとしていたら、コーヒーを飲んでいたベースの方に「もうすぐ演奏が始まるよ。楽しみにしていて」と慰められた。それで少し元気になったら、オーダーしたゴーヤーチャンプルー定食が運ばれた。
繊細かつしっかりとした味わいで、ゴーヤーの苦味とふわふわの卵とカリカリの豚コマのアンサンブルが絶妙なゴーヤーチャンプルーだった。
ゴーヤーチャンプルー定食を堪能したら、デザート代わりにモスコミュールをオーダー。ココナッツのとは違った美味しさで、ビターな中にも爽快感のあるモスコミュールだった。
20分後、演奏が始まった。
屋良さんの指は魔法のように美しい音を奏でていき、ベースとドラムはその音色に緩急をつけていく。
さらさらと心に砂金の川が流れていく、そんな音色だった。



(オキナワンロックドリフターvol.19へ続く)

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