オキナワンロックドリフターvol.3

深夜から夜8時まで仕事して、帰りの電車の窓を見ると、むくんだ顔と世の中への恨み言に満ちた目をした私がいた。
寒くて疲れていて、今思うと、何か拠り所とかすがるものが必要で無意識に手を伸ばしていたのかもしれない。
大晦日の夜。ポータブルレコードプレイヤーの電源を入れて、5年前に行き着けの中古レコード屋で買い込んだ紫のレコードをセットし、針を落とした。
初めてDouble Dealing Womanを聴いた時の衝撃と、なんとも形容しがたい郷愁が蘇った。
乾いた土に水が注がれ、生き返るかのように心が回復していった。
そうだ。まだ私は彼らに会ってない。世を儚むのは紫のメンバーに会ってからでもいいじゃないか。
そう思ったらいっぺんに気力が蘇った。
ネットに繋いで彼らの現在について調べてみよう。
そして5分後。
あえて詳しくは書かないし、Wikipediaにも載っているので割愛する。
私はメンバーの近況の隔たりを知り、卒倒し、元旦早々熱を出して寝込んだ。
やはり一目惚れしたメンバーの近況が(本人の自業自得とはいえ)あまりにもあんまりというのはやはりショックが大きい。
しかし、そのショックが大きすぎたからだろうか、私はホームページビルダーを使い、突貫作業でサイトにオキナワンロックのコーナーを作り、後にサイトを通して仲良くなった友達から「ひとりミニコミ誌」と言われるくらい、主観と独断と偏見とミーハー精神に溢れたオリジナル紫音源レビュー7日連続でアップした。
今やったら体を壊すこと間違いなし。若さとバカさと空回りしまくった熱意の賜物である。
仕事が終わってネットサーフィンすると、紫やオキナワンロックのページのあるサイトが当時はいくつかあり、仲間がほしいなと思い、私は掲示板やゲストブックに書き込みした。
たぶん、当時は最年少だったので他のサイトの方々からは若手の後追い世代と珍しく思われたのだろう。 折り返し、サイトの掲示板に書き込みがあり、私のサイトは活気づいた。
同時に古本屋やパルコの古本市で1976年から78年頃のミュージックライフや音楽専科を見つけては紫の記事はないか買ったりして、記事が見つかるとその記事のレビューをサイトに更新していた。
サイトをはじめて二ヶ月後。いつものように紫メンバーの名前で検索してみると、北九州の沖縄料理屋さんが開店十周年パーティーをするということで、そのゲストにチビさんこと宮永英一さんがこられると知り、パーティーの主宰である沖縄料理屋のオーナーにメールにて問い合わせた。
気のよさそうなオーナーは、パーティーの概要と参加費と振り込み先を丁寧に教え、サプライズを用意しているから、待ってるよと電話にて親切に応対してくださった。
なけなしのお金をはたいて振り込み、普段は暗澹たる気分でしていた仕事も一生懸命励み、その甲斐あって当時の上司から許可が出て連休が取れた。
熊本から北九州の距離は遠いので一泊するしかない。楽天トラベルやじゃらんを駆使してどうにか会場に近い安い宿も見つけた。
何も知らない私はまだ見ぬ紫のメンバーに会える日を指折り数えて待っていた。
あの頃の私は若くバカで夢ばかり見ていて無軌道で、今でこそタイムマシンがあったら思い切り頭を殴りたくなるが、そのがむしゃらさのおかげで今もどうにか世を儚まずに生きているのだからあの頃の私にちょっとだけありがとうを言ってあげたい。

そして、沖縄やオキナワンロックについてぐいぐいと調べていくと、何も知らないほうがいいと忠告した人たちが複数いたが、知ったからこそ見えるものがあると妙に息巻いていたあの頃の私に「だよな。痛い目にもあったけどな」とコーラでもおごりながら同調してあげたい。

文責・コサイミキ

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