オキナワンロックドリフターvol.13

もしも、一生のうちで緊張した時ベスト3を挙げるとしたら、9月20日午後15時からの30分は間違いなく入るだろう。それくらい緊張した時間だった。
午後15時を少し過ぎた頃、一台の黒いワゴン車がきモスバーガーの駐車場に停められた。乗っているのは黒いベースボールキャップをかぶった浅黒い肌に彫りの深い顔をした小柄な男性。
城間俊雄さんである。
俊雄さんが店にはいるや否や、私は起立して深くお辞儀した。
「はじめまして、先日は大変お世話になりました。私、紫とアイランドのファンサイトをやっておりますコサイミキと申します」
俊雄さんは無言で会釈された。
顔を上げ、俊雄さんの姿を凝視し、私はショックと悲しさでへたりこみそうになった。色々ありすぎたからなのか、俊雄さんの容貌はかなり変化していた。
……50代前半にしては老け込まれ、思った以上に小柄で華奢な体躯をされていた。
フィリピン人の血を引く浅黒い肌には深い皺が刻まれており、置かれた環境からなのか、鋭くなった目つきと目の下にはっきりと浮かぶ青黒いくま、浅黒いを通り越してやや灰色じみたくすんだ肌に加齢だけがもたらしているのではない急速な老いを見て居たたまれない気持ちになった。
不摂生の代償とはいえあまりに悲しすぎた。
しかし、伏せた瞳を縁取るまつげの長さやコンバースのTシャツが似合う細く引き締まった肉体に若かりし頃の面影を見てすこしほっとした。
緊張、興奮、ショック、歓喜、悲嘆、感動が入り交じり、複雑な思いで俊雄さんを見ていると、俊雄さんは開口一番、よく使い込まれた財布を取り出しながらこうおっしゃった。
「暑かったでしょう。何か飲む?」
わざわざ来て下さった俊雄さんにジュース代を支払わせるなんてもってのほか。
大慌てで私は財布を取り出す俊雄さんを制し、俊雄さんの分の飲み物をオーダーし,支払い、渡せなかったバースデープレゼントと手土産を手渡した。
そしてカウンター近くの席に座って俊雄さんと私は20分近く話をした。
俊雄さんは沖縄はどうだったと煙草をくゆらせつつにこやかに問うてくださった。
昨晩のことを心に封じて、小さなかわいい嘘をと思い、楽しいと即答すると俊雄さんは少し顔をほころばせた。
「昨日はココナッツムーンにいたんだってね?楽しかった?清正は元気している?」
俊雄さんは静かに問いかけられた。
「はい。元気でしたよ。清正様って無口な方と思ってましたから意外とお茶目なのに驚きました」
俊雄さんは苦笑いされ、「あいつは見た目とぜんぜん違うからね。そしてそれからコザに行ったの?」と続けられた。
私は正直に、『セブンスヘブンコザ』、“JET”、『ジャックナスティ』、そしてゲート通りのロックバーをはしごしたと答えると俊雄さんは目を見開き、「じゃあ、コザの見所フルコースしたわけだ。すごいねえ」と驚いたような呆れたような声でおっしゃった。
「ジミーは元気ね?」
“JET”に行ったときのことを話すと俊雄さんは真っ先にジミーさんの様態を尋ねられた。
色々な沖縄旅行サイトで見た記事や日記から、当時既にジミーさんはお酒が原因で体を壊して入退院を繰り返し、なかなかステージでジミーさんが見られないとぼやく声が出ていた。


ジミーさんを心配する声のトーンに仲間を慮る俊雄さんのやさしさを垣間見た。
私がジミーさんが元気していると答えるとほっとしたのか俊雄さんは柔らかい表情を浮かべられた。
その表情を見て思った。誰がなんと言おうが、私はこの人を嫌いになることはないだろう。そう確信した。
私は俊雄さんとわずかな間ではあるが話をした。
私が運営している沖縄ロックのファンサイトのこと、互いの近況のこと。
携帯の待ち受けにしている私が拙いながらも作った掲示板用の俊雄さんアイコンを見せると俊雄さんは「これ、僕なの?かわいすぎるよ。でも、上等上等」とふっくらと瞳を細めて笑い、「ほかのメンバーのもあるかな?」と身を乗り出して私の携帯を見た。
白いチュニックと白いハンチングという私の服装を一瞥し、誰を意識したものか気づき、苦笑いしてくださった。
そこに俊雄さんの気取らなさを見た。
俊雄さんは自分の近況のことを問わず語りしてくださった。
正男さんのお子さんを預かり、面倒を見つつ働いているという。
俊雄さんは思ったより穏やかにゆっくりと正男さんの近況を話してくださった。
「そうそう。正男のことだけれど。君が思っているほどすさんでないからね。大丈夫だからね,あいつはちゃんと元気しているし、今年の冬か来年の初めには帰ってくるから。それにあいつ、詩を書き溜めて準備をしているみたい。心配ないよ」と。
嬉しい反面、正男さんは立ち直って帰ってくるのだろうかと不安が渦巻いた。大丈夫と信じたいけれど……。
私は俊雄さんの瞳をじっと見た。
再結成ドキュメントの頃の闇一色のすさんだ瞳はしていなかった。少し憂いの色はあったが薄紫がかった茶色の瞳は凪の瞳だった。
ほっとした。これ以上この人の悲しい瞳は見たくない。
そんなことを思っていたら涙がこぼれた。
ことことと心のもやが解けていく。
俊雄さんと正男さんの精神状態についての心配、不安、ファンサイトを立ち上げた当初、心無い人からメールでお二人を悪し様に言われたことへの憤り、いろんな人から聞かされたお二人の過去への悲しみ。
そして前夜のゲート通りでの出来事と地元の人の嘲りの声。
いろんなことが重なって重なって気が高ぶり、嗚咽交じりで私は思い切って告白した。
「あの、俊雄さん」
「ん?どうしたの?」
俊雄さんは煙草を火を消して耳を傾けてくださった。
「紫を知ってお二人のいろんな話を今までずっと聞きました。でも、覚えていてください.私は正男さんと俊雄さんが好きです。うちのサイトに来てくださるかたもそうです。愛してます」
私は泣きじゃくりながら続けた。泣いてはいけないのに後から後から涙がこぼれて止まらない。
「俊雄さん、そしていろいろあるでしょうがこれだけは忘れないで。ファンはいつまでもあなたたちを思っていることを。どうか忘れないでください。正男さんにもどうかお伝えください。お願いします…」
これ以上言葉が出ず、ただ泣くことしかできなかった。
午後の日差しがさんさんと降り注ぐモスバーガー店内に長い沈黙が流れた。
俊雄さんは静かに笑みを浮かべて「ありがとう、ごめんね。心配かけて」と言い、私の手を握ってくださった。
俊雄さんの手は小さく細く、ひんやりとして湿っていた。
その手の小ささに、その手がしでかした数々の不祥事に、そしてその手が紡いだ魅力溢れる音に狂おしいほどの思いがあふれ、私は俊雄さんの手を強く、しかし、痛くならない程度に握り返した。
この人が心から笑ってくれる日がきますように。
私は握った手に少し力をこめつつ願った。
さて、そこまではよかった。が、一緒に写真をとるのは良かったものの、あろうもことか私がとったポーズは再結成ドキュメントで俊雄さんが茶目っ気全開でしていた「さわやかな気分?」ポーズである。はっきり言って初対面の人間に失礼極まりない。
しかし、俊雄さんは件のポーズをしっかり覚えていて小首を傾げてくださった。
すごくうれしかったし、ポーズをとる俊雄さんはとてもチャーミングだった。
ちなみにこのポーズで写真を撮った際にモスバーガーの店員さんから半笑い混じりの一言。
「なんか可愛いですね、お二人」

私たちは顔を見合わせ苦笑いした。

そして宝物であるファーストアルバムにサインを頼むと、俊雄さんは私がファーストアルバムを持っていることにひどく驚かれた。
「君、どこで買ったのこれ?」
俊雄さんの声に強く感情がこもった。
「え。熊本市内の中古レコード屋で手に入れました」
うろたえつつ答える私の言葉に頷き、俊雄さんはレコードをしばらく眺めていた。
俊雄さんの写真の横には飾り気のない簡素でぶっきらぼうなサインが書かれる。
俊雄さんは裏ジャケットのメンバー写真を見て、口の端を曲げて笑い、「懐かしいね。……またみんなでやりたいね」とか細い声で呟いた.
その顔にいくばくか憂いと悲しみの色があった。
心切り刻まれそうになった。
叶うならば叶って欲しいが、現在の状況を考えると不可能であり、城間兄弟の自業自得を差し引いてもあまりにつらい。どうか立ち直って復活してほしい。それを願うしかなかった。
だって他に何を願えというのか。

そうこうしているうちに時間が過ぎて俊雄さんはお帰りの準備を始められた。
このままお別れは寂しすぎる。
私は息を吸い込み、勇気を出して言った。
「俊雄さん,来年の春に沖縄にまたきます。そのときは呑みに行きませんか?」
いきなりナンパとは常識はずれにも程がある。
そんな度重なる非常識と非礼にも俊雄さんは笑顔で応じてくださった。
「ああ、そのときは正男も帰ってきてるから.正男も一緒に!!あっ、下地も誘おうか。そのときは他のファンの子も呼んでよ。店は君に任せるかいつでも電話して」と。
その瞬間。
俊雄さんの顔に再結成ドキュメントの映像の中の華やかな笑顔がよみがえった。
その瞬間をカメラに収められなかったことを今も後悔している。
30分足らずの対話の中で俊雄さんが見せた唯一のはっきりとした笑顔がそれだったのだから。
そしてもう一言、思いきって言ってみた。
「俊雄さん、正男さんに一言伝えてもらえませんか?」
「何?」
「馬鹿野郎!! 愛してます、って」
すると俊雄さんは吹き出し、ひらひら手を振って応じた。
「わかったー。伝えておくよ。ははは、馬鹿野郎ね」

い、いや。あなたもね!あなたにも言いたいんですよ。ほんとうは。人の事言えないっす!
そう叫びたかったがどうにか飲み込んだ。
そしてもう一度手を握ってくださった俊雄さんに私は一言付け加えた。
「俊雄さん」
「んっ?」
「にふぇーでーびる。かなさんどー(ありがとう、愛してます)」
俊雄さんは少しの沈黙の後に呟いた。
「かなさんどー……か。ありがとね。ありがとう」
今度は俊雄さんの手に力がこめられた。
一礼して店を去る俊雄さんに深々とお辞儀して、俊雄さんの車が去ると同時に席に倒れこんだ。
安堵と達成感とうれしさがこみ上げてまた泣きたくなった。
緊張と興奮から脳が擦りきれたのが、急に甘いものが欲しくなった。私はモスシェイクを追加オーダーした。
一部始終を見ていた店員さんから「良かったですね」と言われたのが照れ臭かった。
甘いバニラシェイクが五臓六腑にしみわたり、疲労と緊張と寝不足でふらふらな脳に栄養が行き渡った。
ふいに灰皿を見ると俊雄さんが吸っていた煙草の吸殻がある。
その小山になった吸殻を見てこんなことを思い出した。
ある俳優さんの言葉の受け売りであるが、少し吸ってはもみ消し、少し吸ってはもみ消す煙草の吸い方はさびしがり屋の煙草の吸い方だと。俊雄さんの煙草の吸いかたはまさにそれ。
さびしい煙草の吸い方をしているなと少し切なくなり、灰皿をじっと見た。
銘柄はバイオレット。
甘い香りのするその煙草の吸殻を私は記念にと紙ナフキンに包んで財布に入れた。ストーカーみたいだなと苦笑いしたが、後にベイ・シティ・ローラーズの追っかけから音楽ライターになった女性の自伝を読んだら、彼女もレスリー・マッコーエンの煙草の吸い殻を包んで持っていった話を書かれていて、読みながら度の過ぎた追っかけの通過儀礼なのかな?と開き直ることにした。

私もシェイクを飲み終えると店を去り,ライブに行くための準備をすべくホテルに戻ると友人に電話を掛け捲った。しかし誰とも繋がらない。
数分後に、メールで励まして下さった深紫さんから電話があり、深紫さんに今回のことを話すと私は電話口で叫ぶように泣いた。
被害をこうむった深紫さんはそんな私に動じず、「よかったね、願いが叶ったんだね」と呟いて励ましてくださった。
この電話によって長く背負った肩の荷が下りたような気分だった。
電話を切り,ひとしきり泣くと顔を洗い,私はサインしてもらったレコードジャケットを見た。
俊雄さんの写真の横には簡素でぶっきらぼうな字があり、溢れんばかりのいとしさを込めて私はその字をそっと撫でた。

そして、私の部屋には俊雄さんと一緒にとった写真とサインしてもらったレコードジャケットがあり、沖縄旅行の写真を撮ったアルバムに紙ナフキンにくるまれた煙草の吸殻を挟んだ。吸い殻はこの日の想い出かつお守り代わりとなった。
いつの間にか吸い殻は粉々になり消えてしまい、今では俊雄さんとの想い出の品は一緒に撮った写真とレコードジャケットに書かれたサインだけだ。
そして、ご存知のとおり、俊雄さんは2011年2月に白血病の合併症で鬼籍に入られ、あの日、メールで私を応援してくださり、電話口で話を聞いてくださった深紫'72さんも2018年12月に急逝された。
深紫さんはお酒の好きな方だった。きっと、向こうで俊雄さんから酒席に招かれ、ジミーさんたちと一緒に私がどれだけ向こう見ずで危なっかしかったか酒の肴にして笑い合っているのかもしれない。

もしも、私が旅立つ時がきて、また俊雄さんと、現世では会えずじまいだった深紫さんに会えるとしたら、2003年9月20日のあの30分間の話をするだろう。あの時は大変だったし、困ったよとお二人にからかわれながら。

それでも私は胸を張って言うだろう。あの30分足らずの出来事は私にとって貴重かつ幸せな時間だったと。今も心に燦然と輝く宝物のような時間だったよと。

(オキナワンロックドリフターvol.14へ続く)


文責・コサイミキ

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