オキナワンロックドリフターvol.2

The Whoのロックオペラ、"Tommy”の中に“Sparks”という曲がある。この曲は、「あの頃、ペニーレインと」(原題・Almost Famous)という映画でも主人公のウィリアムが、家出した姉が残したロックのレコードから、Tommyを聴き、それがきっかけで母親の言いなりに勉強の虫だった彼は、ロックに没頭し、やがて最年少の音楽ライターとして開花していくシーンで印象的に使われていく。
火花散るような出会い、そして音楽が頭から爪先、毛細血管の隅々までしていくような感覚。

ウィリアムにとってのSparksのような出会いは、ニュース番組の中のドキュメンタリーコーナーだった。

1997年10月27日の出来事である。
当時の私は学校、家に居場所がなく、何もかも八方塞がりで、息することすらできないくらいしんどく、たった一つの願いが叶ったら後は死んでもいいやとすら思うくらい無気力だった。
そんな時、無意識に手に取り、読んだ新聞のラテ欄に ニュースステーションで紫の再結成ドキュメンタリーが特集されると知り、見ようとその日の夜は仏間の小さなテレビにかじりつくように正座して待機していた。
当時の私は、古本屋で買ったディープパープルのムック本から、紫をディープパープルのコピーバンドなのだと間違った認識をしており、なんでそのコピーバンドの再結成を全国区のプライムタイムのニュース番組が特集するのかわからなかった。しかし、特集するくらいだから思っている以上にすごいバンドなのかもしれない。
論より証拠だ。見てみよう。
そう思ってあくびしながらニュースステーションをだらだら見ていたらCMに入る前に、紫の映像がちらりと出た。
那覇空港の到着口から次々と現れる紫のメンバーの短い映像。アップでひょこっと現れ、おどけるメンバーの一人に心奪われた。城間俊雄さんである。
え?この人たち本当に日本のバンドなの?洋楽アーティストみたいじゃない。かっこいい。

さらに追い討ちをかけるように、全盛期の紫の映像を見て、すっかり陥落してしまった。
と、同時に。1997年当時のメンバーの近況が映像で流れ、現役で音楽活動をしているジョージさんとチビさんとは対照的に、ドキュメンタリー内での城間兄弟の暗い瞳が心に焼き付いて離れなかった。
緩慢な動作でバーテンダーをしていた俊雄さん、息子さんに急かされ、ご友人である音響の屋嘉部さんの一周忌に参列する正男さんの危うさがひどく気になった映像だった。
後にその理由は人づてなり本人の口から語られてわかるものの、その時の私はなんでこんなに悲しい瞳をしているのかわからなかった。彼らの姿が、ドキュメンタリー内で流れた紫の曲とともに印象的で、「この人たちに会おう。それまでは生きよう」と決意させるくらいだった。会える根拠なんてなく、なけなしの手持ちのお金をはたいて買ったるるぶ沖縄を読んでも那覇市と沖縄市の区別がつかず、どうしたら会えるのかわからなかったくらいなのに、何故だか会えると確信していた。
後にこれを人に話すと、ある人はそれを思い込みの激しさと呆れ、ある人は愛だねと微笑み、ある人は執念深いと怯えた。
今でもあの根拠のない会えると確信したものはなんだったのかわからない。けれど、あの時に過ったものは「会いたい」という願望より「会おう」という意志と気力だった。
そして、偶然見た映像が一人の人間の心を動かし、生きるためのロープとなってくれたのは事実だった。
しかし、結局、一人で旅行すらしたことのない私は色々あって沖縄行きを断念し、るるぶ沖縄を読んではまだ行ったことのない沖縄に思いを馳せるしかなかった。
そんなこんなしているうちに1997年の12月に母親が病で他界し、さらに立て続けに我が家に災難がふりかかり、父親との関係断絶から私は祖父母の家に住むことになり、目まぐるしい環境の変化にしばらくは沖縄も紫も記憶の片隅に置いていた。 父親に絶縁を言い渡され、養育費等を打ち切られ、大学進学の道も絶たれたので働かざるをえない状況になり、砂を噛むような毎日の中、音楽を聴くことも忘れてしまい、そのうち心も磨耗していった。

久しぶりに紫を聴いたのは2002年の暮れのことだった。

文責・コサイミキ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?