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私が、公務員を続けることをやめれないのは、自分の中で自分を自分として肯定できてないからであった。③


この話は、島根の海士町へ私が行って、高校生のみんなに話した事をもとにしています。

前回はこちら→


人は同じことを、繰り返す。


そうだ、自分をフラフラさせながら(たまに旅行しながら)仕事と両立していけばいい。働きながら、海外に行ったり日本を回ればいい。そういう風にしている人は沢山いる。私も趣味の旅を充実させる働き方を。



そう思って、復帰したら、もうすぐに夏に再度倒れてしまった。
早退した帰り、職場を出て振り返り、大きな箱形の固そうな建物を下から見て仰ぎ、
私は、ただ一言「やっぱり、ここに適合できなかった・・・。」とつぶやいた。



そこから、また色んな病院へ行き、MRIも受けるしCTも受けて、大腸ファイバーもやったし、謎に親知らずも痛み出して抜くわ、肩が動かなくなり29歳で五十肩(正確には二十肩だね。)になるわ、もう体調不良オンパレード最高!

各所で「会社を辞めること、考えてみませんか?」というニュアンスの話を受け、私の中に会社を辞める選択肢が出来てきた。


しかし。


辞める・・・。

それは、私の中では、今まで自分を否定してきた人々に負けることを意味していた。
私は、負けたくない。私は、適合している。最後まで屈しない。


「最後まで屈しないって、何に?」

突然に、また血尿だの腹痛だの発熱だのが重なった時に、うぐぐぐgと
呻きながら、ふと思った。

「何に?」
「私は、こんな痛みまで感じて、何と戦っているのだろうか?」
「何が根源だ?」「自分じゃないか?」
「自分が自分に縛りをかけてないか?」
「敵は自分ではないか?」


そうか。私は私を縛っているのか。
そうだ。私は私を社会不適合者だと思っているんだ。
一番自分を信じられてなかったのは、自分だ。



前述したけれども、考えてみればルールブレイカーだったので、今ある社会を壊してしまうという意味で、現状での統率を好む人達には嫌われがちだった。
且つ、私がリーダー気質もあるので、反対派の集団を扇動する力もあり、私をよく知る上司にはチェ・ゲバラをお手本にしているのだと思っていた、と言われるほどだった。(何じゃそりゃ!(笑))



現状の社会を維持したい人たちからすれば、異端児である。
その意味で、“あなたは社会不適合だ“と言われてきたのだろう。
そのままの字面を何度も自分の中で反芻しては、自分を攻撃してきたのは自分だった。

私が、公務員を続けることをやめれないのは、自分の中で自分を“MARIKA“(私の名前ね。)として肯定できてないからであった。



私は、自分が何者かわからなかった。
そこで運良く、公務員という名をもらった。
私は、それにすがり付き、働いているうちに、数年前に海士町で手にした自分の名前が大きく職業名に書かれている地図帳を心の奥底にしまい込んだ。



その事実がわかった今。
真正面から、見つけた今。
私は職業に、すがりついている場合では無い。
職業、MARIKAとして生きねばならぬ。


とても可愛がってくださり、心底(親と同等にみなさん心配してくださった)心遣いいただいた職場の皆様に切り出すのが大変に心苦しかったが、仕事を辞めることにした。(本当に気をかけてくださっていたのにごめんなさい。ありがとうございました。)


やめること、を書くことにフォーカスしたかったので、付け加えると、私は、高校卒業後にも大学へ進学せずにMARIKAで生きようとしたことがあるが、NPO法人立ち上げたり会社を立ち上げを手伝ったりしながら、結局は大学へ進学した。自分を信じきれずに、社会の既定路線から外れることが“やめれ“なかった。


大学卒業後も、就活もせずにフリーターと旅を繰り返していた。このまま行くのかと思っていたけれど、何をしているのか、問われたときに明確なことが言えず"MARIKA"として生きていると宣言できなかった。この時もまた、自分を信じきれずに、会社へ入ることとなり、現存の社会構造のよく見るレール上で生きることを“やめる事“ができなかった。



私は、この“現状の”社会には適合しない。
じゃあ、適合する状況を作ればいいじゃないか?


社会に私が合か不か判断してもらうんじゃない。
私が私を生きれているのか、否か。それだけだ。



今回、3度目の正直で、既定路線から外れてみた。

しかし、今までを振り返るとまた、信じきれずに戻るかもしれない。
だけど、今回は、今までと違って、このループを俯瞰して見ることができたところに何か成長を感じているところである。


“やめる“ということが、1番難しい。
何故なら、やめる時は先が見えず、怖い。


私も、何回もやーめよう!と“何か“を、やめて来た。
それらは、とても簡単にやめることができ、安心できる道へ入れた。

だけど。


振り返れば、もし簡単にやめれたならば、それは、ただ決断を先送りにしているに過ぎないのかもしれない。
私が簡単にやめて入れた安心できる道は、ただただ現在の社会として安心な道なだけであり、私の道ではなかった。私は、どうしても自分を疑う事、自分を否定する事をやめれなかった。




この春。

私は、もう一度スタートラインに立ち、6年前に海士町で手にした“職業名にMARIKA“と書かれている地図帳を広げた。

私の道に帰ってきたぞ、と身体にも伝えるために4月に訪れさせてもらい、5月に田植えをして、隠岐國学習センターで人生劇場を開いてもらい高校生のみんなに私の人生を聞いてもらったり質問してもらったという訳である。


全くもって、またスタート地点に立ったばかりのオールドな新米にこんな大層な役を仰せ使って恐縮ではあるが、みんなが聞いてくれたので、前の自分の道を軽く歩いていた頃の情景と重なり(よく、学生の相談に乗っていたので。)戻ってきたようで、とてもほっこりした。聞いてくれてありがとう。みんなが、みんなのままでただ椅子に座っているだけで尊い。

そして、直接お話しはできてないけど、この日海士町で同じ空気を吸っていた島前高校のみなさんにも、

こんな感じで、私がただ息吸って吐いて役所に勤めて生きて存在してただけで、6,000字も書けちゃうようなストーリーになるんだと伝わったら嬉しい。

そう、みんな、ただ息吸って吐いて生活しているだけで、今日も誰かの役に立っている。
一番重要なのは、ただ呼吸して、生命維持していることが、誰でもない、まず自分の役に立っていると言うこと。

貴重な機会、ありがとうございました。
また話してね〜!


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