鳥肌

「やめましょう?それってすごく悲劇的なことに聞こえるわ」
と影が言ったので、必要なもの(それは懐中時計やメモ用紙や文庫本といったこまごまとしたものたちではあるが)を手にとって影が眠っている布団へと潜り込んだ。影は目を瞑って腹と胸の中間あたりのところで手を組んで鼻で息を吸い、悪夢でも見てしまう不安があるかのように小さな胸を上下に揺らせながら規則正しく呼吸をしていた。
「今、私とあなたがセックスをしたら、きっとすごく悲劇的だと思うし、私とあなたとの間に生まれる様々の宇宙みたいな丸い世界は住みづらくって暗くって憂鬱な場所になってしまう気がする。新しく買ったばかりのコーヒーメイカーは私を眠りの果てまでも追いかけてきて嘲弄し、針が曲がってしまって半音高い音しか出なくなってしまったレコードプレイヤーは窓の外で鳴いているパトカーのサイレンと共鳴して私の布団を剥いで行き、熱帯夜はアブラゼミたちの格好の寝床としてあなたと私の情事を睨む」

誰も、恋人との熱い抱擁や接吻や、世界が変わるような激しい情事の話を聞きたがるものはいなかった。影はそのことをよく承知していて、彼女はそれを悲劇的だと言ったが真意はよくわからなかった。皆がその話をしたがっているのに、聞きたがるものが不足していたのかもしれなかったし、あるいは皆聞きたくないふりをしていただけなのかもしれなかった。事実や秘密とは情事のことであり、それは全てが終わってからでしか語り得ぬものであった、影はそのことについてはあまり承知していないようでそれについて尋ねても不得要領であって、奸智をきかせた媚態を働かせた甲斐もなく布団の温度は急激に冷えてしまった。影はなおも隣で正しい呼吸を正しい顔でしていた。

「ねえ、だけど私があなたと交わりたいと思っていることだけは本当なのよ?」

 影は言った。目が暗闇に慣れてきて影の表情が明瞭になり始めた、意識がだんだんと明らかになってきていて、サプレッサーを握りしめる左手の重みはズシリと胸にきて影は少しだけ動揺したように寝返りを打った、手と手が触れて指を絡めると彼女は接吻を求めてきたので指を絡める力は以前より一層強くなった気がした。
 温度を失ったベッドに再び熱がこもり、影は熱帯夜の視線を意識する、外側が影を執拗に狙い、定められた照準は外側と交わり溶け合いまるでエイズに感染したかのように影は自分と世界との境界がわからなくなっていくのを感じた。わからなくなるのを感じるとは変な話ではあるけれども、現に影はそう感じたのだ。そうして溶けた照準が二度と外れることはないことを影もよく承知していたようだった。

「やめましょう、とても悲劇的な気持ちだわ」

影が言った。僕も同じ気持ちだった。ひどい朝だ。

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