淫美で静かな真夜中に

 懐かしさはぐるりと空を一たび旋回してもう一度やってきた。
いつ聞いたのだったか、それはずいぶん前の気がする、一体いつのことだったか、あれは、ずいぶん昔のような気がする。世界のあり方についてのありがたい講義は僕にとって目新しい、今何してるの?という誘い文句に面倒を感じるのも僕には珍しいことだ。

 懐かしさはコーヒーの白と同化して胃の中へと潜り込んだ。
出会わなければよかったね、と笑ってみても悲しいのはビールの空き缶は捨てる外は用途がないからで、もう恋なんかしないと心に決めていたのにどういうわけか恋はいつの間にか勝手に始まっていた。連続再生のyoutube musicは今やもう、知らない歌手だが、それもいつか君と聞いたものだったのかもしれない。

 懐かしさはスマホの充電と同じ速度で消え去り後には寂しさだけが残った。
また、今度にしよう、今度ね、今度ね。また。そのうち。いつがいい?次の火曜は?うん、うん。ああ。そうだね、また、連絡して。傘持ってる?一個しかないよ。一個でいいよ。傘持つの嫌いなの?割とね。

 残った寂しさはいつまでもいつまでも底の方にこびりついて取れない。
いつまでもったって大した時間は経ってない、もう忘れたの、と君は僕が普通に眠ると現れる、現れる。笑う、笑う、現れる、でもキスの瞬間君はいなくなる、朝目を覚ますと君はそこにはいない、男臭い、広々とした野原がただ、あって、じじじ、とレコードプレーヤーが空虚に回り続けている。君の香りは朝が来るたびに消えていく。

 取れない取れない、どれくらい強力な洗剤にもこの汚れだけは落とせない。
君なら…と僕は思う。君ならきっと、汚れなの?と聞くだろう、だから僕は汚れじゃないと気づく、汚れではなかったと気づく、ゴドーは現れない、無気力で無意味な暇がビーズと一緒に燃えていく。うるさい、静かにしろと心の中で騒いでいる教授に僕は握手をしてからはいと元気に返事をする。切れた喉からは未だに血が流れ続けている。

 昨日癒されたこの傷口が・今日深く開いた傷が・と謳った君の大好きなアイドルは今は四肢を切り刻まれてコンクリートに心を閉じ込められている、僕は彼女がかわいそうだと思う、君は涙を流す。誰の前で涙を流していただろう・君は・君は。

 坂を登りきったところには花が咲いていて、その白い花は彼岸花にも似ている。
よしと僕は決めてそこに寝そべる、はっと次気づいた時にはきっとベトナム戦争も終わっているだろう、もっと早くに生まれていれば、もっとずっと遅くに生まれていれば、今ではなかった、今ではなかった。

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